詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇356)Obra, Juan Manuel Arruabarrena

2023-05-16 16:20:07 | estoy loco por espana

Obra, Juan Manuel Arruabarrena
Jardín marino imaginado,Óleo sobre lienzo
Medidas100x100 (2023)

 Siempre estoy en esos lugares. (Hay varios de esos lugares). En ese lugar el tiempo se detiene. Cuando lo llamo silencio, es diferente. La quietud o el silencio es algo demasiado específico. No tiene alguna cosa ambigua. No quiero marcar mis sentimientos. Quiero llegar a ser algo ambiguo y a ser no dure mucho. En ese lugar hay una flor de color rojo. Me gustaría que esa flor se pareciera a vulgar flor. No tenga su nombre. Sólo una flor. Un jardín donde pasan varios colores como el viento o un insecto. Mis flores que recogen el rojo de entre ellas y se abren. Siempre estoy allí. Más allá de mis flores, el estanque está a la altura de los ojos, reflejando el verde de los árboles invertidos. Siempre estoy allí. 

 私はいつもその場所にいる。(そういう場所がいくつかある。)時間は止まっている。静寂と呼ぶと、それは違ったものになる。静寂や沈黙は、何か特殊すぎる。ぼんやりしたところがない。私は私の気持ちに印をつけたくない。私はぼんやりと、長続きしない何かになるために、そこにいる。赤い色を持った花が咲いている。あの花がほかの花と同じように見えたらいいなあ。ただの花が、いくつもの色が、風か虫のように通りすぎていく庭。それぞれの色のなかに残っている赤をこぼしながら。そういったものが集まってできた赤が残っている庭。私はいつもそこにいる。花の向こう、池が目の高さで、逆さまの木の緑を映している。

 

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Estoy Loco por España(番外篇355)Obra, Joaquín Llorens

2023-05-16 10:16:00 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens
16 ,mayo ,2016 (Primer premio de escultura)

Cuando estaba mirando una foto de Joaquín cara a cara con su obra de arte, me vinieron a la mente estas palabras. (todas son ficticias).

 Cuando le preguntaron qué representaba la obra, el escultor dijo como siguiente. (Leí esto en un periódico extranjero, por lo que puede que lo haya leído mal).
*
 Una jarra brilló en el mostrador de una tienda donde los clientes desapareciaba. Detrás de ella, en la brumosa oscuridad, ví el tiempo. No era el pasado, ni el futuro, ni el presente. Ví el concepto de tiempo. El concepto en movimiento que no sabe lo que quiere ser. No sabe lo que es el tiempo, pero su deseo de "convertirse en tiempo" es tan fuerte, pro eso su concepto ocupa su mente hasta el punto de pensar que alguien podría haberlo visto. El tiempo mata su voz y me confía su angustia, así que le dí forma.


 作品が何をあらわしているかと質問されて、彫刻家は、こう語った。(異国のことばで書かれていた新聞で読んだのだが、未知のことばなので私の誤読かもしれない。)

 客がいなくなった店のカウンターで水差しが光っている。その背後の、ぼんやりした闇に時間が見える。過去でも未来でも今でもない。時間の概念が見える。何になっていいのか、決断のつかない概念が動いている。時間が何かもわからないまま、「時間になりたい」思い、その思いがあまりにも強いので、だれかに見られてしまったかもしれないと思うくらい、概念が頭のなかを占めてしまう。時間が声を殺して苦悩を打ち明けるので、私はそれを形にした。

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Estoy Loco por España(番外篇354)Obra, Jesus Coyto Pablo

2023-05-15 18:27:19 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
"Full Moon" serie, Óleo acrílico sobre tela
30x30 cm. Mayo de 2023

La luna refleja la luz del sol. Sin embargo, la "luna llena" de Jesús no refleja la luz del sol, sino que parece un espejo que refleja su "memoria". Me inspiré y escribí este fragmento de poema.
*
Cuando me desperté, el disco estaba terminado y la aguja emitía un sonido de golpeteo tsun ton ptun en la parte del disco donde no se había grabado ningún sonido. Cuando oigo ese ruido, recuerdo la gloriosa tristeza de ese último movimiento en mi sueño, cuando el sonido de la trompeta cae como estrellas desde el techo. Aquel día, escuchando la hermosa tristeza que caía del cielo, te toqué la mano. Me miraste sorprendida. Me encanta cómo me miran tus ojos. Quiero que veas lo que escondo. Te lo dije, pero fingiste no entenderme. Había luna llena. Observaste la luna en silencio. Fue la última vez. Desde entonces, ya no veo la luna. Pero mi memoria siempre ve la luna. La luna que refleja como un espejo la ciudad donde desapareciste. En mis sueños.


月は、太陽の光を反射している。しかし、Jesus の「満月」は太陽の光ではなく、彼の「地球」を映す鏡のように見える。私は、触発されて、こんな詩の断片を書いた。
*
目を覚ましたとき、レコードが終わり、音が録音されていない部分で、針がぷつんぷつんと音を立てていた。その音を聞くと、夢のなかでトランペットの音が天井から星のように降ってくる、あの最終楽章の華やかな悲しみを思い出してしまう。あの日、天から降ってくる華やかな悲しみを聞きながら、私は君の手に触れた。君は、驚いたように私をみつめた。そのじっと見つめる目が、いちばん好きだ。私が隠しているものも見てほしい。そう言ったが、君は聞こえなかったふりをした。満月だった。その月を、君は、黙って見ていた。それが最後だった。あれから私は、月を見なくなった。けれども、記憶は、いつも月を見てしまう。君が消えた街を鏡のように映し出す月を。眠りのなかで。

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草野心平「デンシンバシラのうた」、青柳俊哉「あじさいの森」

2023-05-14 22:51:47 | 現代詩講座

草野心平「デンシンバシラのうた」、青柳俊哉「あじさいの森」(朝日カルチャーセンター、2023年05月01日)

 草野心平の「デンシンバシラのうた」を読んだ。

デンシンバシラのうた  草野心平

そんなときには。いいか。
デンシンバシラとしゃべるんだ。

稲妻が内部をかけめぐり。
丸い蜜柑がのけぞりかえる。
そんな事態になったなら。
白ちゃけて。唸るようにさびしくなったなら。
人じゃない。相棒になるのは。
夜中の三時のデンシンバシラだ。

デンシンバシラはゆすっても。
デンシンバシラは動かない。
手のない。指のない。見えない腕で。
デンシンバシラは。しかし。
お前を抱くだろう。

ありっこない。そんなことが。
そんなことの方がまだあるんだ。

ちぐはぐで。ガンジガラメで。
遠吠えしてもまにあわない。
そんなときには。霙にぬれて。
夜中の三時のデンシンバシラだ。

 受講生が皆と一緒に読んでみたい詩、ということで持ってきた作品。
 さびしいとき、悲しいとき、頼るのがデンシンバシラ。デンシンバシラに頼るという発想にびっくりした。内面のあらわし方がすごい。「夜中の三時のデンシンバシラだ。」が印象的。誰にもどこにもぶつけようのない自分の気持ちが表現されている。「デンシンバシラはゆすっても。/デンシンバシラは動かない。」という入り方が、思いつかない。デンシンバシラがカタカナなのがおもしろい。相いれないものと対峙、対話し、デンシンバシラの内面に入っていこうとしている。デンシンバシラと草野心平のあいだには絶対的な断絶がある。その断絶を越えて、そのものになろうとしている。
 いろいろな声が聞こえた。私は、「ありっこない。そんなことが。/そんなことの方がまだあるんだ。」と書いてあるが、何がありっこない(ない)のか、と問いかけてみた。
 デンシンバシラが「お前を抱く」ということがありえない。手がない。指がない。
 「では、何があるんだろうか」
 見えない手で「お前を抱く」ことがある。それは何か、人間の想像を超えたものとして、そこに立っている。理解できないことの方が、この世界にはある。
 もひとつ、質問。「草野心平と、デンシンバシラの、どっちの方が見える?」
 草野心平の気持ちを書いているけれど、デンシンバシラが印象に残る。デンシンバシラに自分を投影しているように見える。デンシンバシラと草野心平が一体になっている。区別がつかない。
 そうなのだ、と私も思う。
 ここに書かれているのは、どこにでもあるデンシンバシラではない。絶対的な存在としての、デンシンバシラ。草野心平が書くことで生まれてきたデンシンバシラなのである。草野心平はデンシンバシラになって、草野心平を抱いているのだと思う。デンシンバシラになって、草野心平に語りかけている。
 タイトルがとてもおもしろい。「デンシンバシラ」ではなく、「デンシンバシラのうた」。それは、デンシンバシラが歌っているのだ。その「歌声」を草野心平が聞き取ったのだと思う。

あじさいの森  青柳俊哉

あじさいの森へ行く
雨の色が すべての花びらを
通過して 土のうえを青くながれる

花びらを食む
一頭の蛾の幼虫
月の黄土色に染む

花びらがすべて
藤色の蛾へかわるとき
雲は 海辺を巡礼する黒衣の女の
行列のように 空を渡っていく

色彩は世界の外にあり 
水のふる空へ あじさいが飛び立つ

 あじさいが動いている。変化している。「巡礼する」ということばにひっかかった。「あじさいが飛び立つ」は蛾と一緒に飛び立っていくのだろうか。色が変化していくが「色彩は世界の外にあり」という意味がよくわからない。
 最後の疑問については、青柳から、色があることは、そこに存在するものとは無関係、色は本質的な存在ではない、世界の本質ではないという考えが語られた。「移ろうこと」が世界の本質という考え方である。
 受講生の感想にあった「あじさいが動いている」の「動いている」は、そういう意味では、青柳の世界をがっしりと把握しているといえるだろう。
 青柳は「蛾の幼虫がガーベラの花びらを食べたらガーベラ色になった、ということをもとに詩を書いた」とも語った。二連目に蛾が出てくるのはその影響だろう。また、それが最後の「飛び立つ」という動詞を呼び覚ましているかもしれない。

 


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奥間埜乃「わたしは形容されない安らいだフィールド」

2023-05-14 15:15:20 | 詩(雑誌・同人誌)

奥間埜乃「わたしは形容されない安らいだフィールド」(「マゼラン・フューチャー」02、2023年04月30日発行)

 奥間埜乃「わたしは形容されない安らいだフィールド」の書き出し。

 冬鳥が飛び立つある雪の午后、細い鉤爪のひと蹴りに
小枝が振れるその震動を、応答として記録する一篇の詩
がある。 

 こうした繊細な描写は、最近は見かけないので、目が吸いよせられてしまった。小枝が振れる→その震動→応答→記録という、とてもていねいな変化がいい。いまはやりの、奇妙な「脱臼感」がないのが、私は好きだ。とくに「振れる」から「震動」への変化がおもしろい。動詞をわざわざ名詞に言い直している。そのとき「その」という指示詞がつかわれている。不思議な粘着力が、文体を飛躍させる。粘着力と飛躍は正反対のものだが、「その」の粘着力(接続)によって、「応答」が生まれている。だれの応答? あるいは何の応答? それは書かずに、いきなり「記録」へとふたたび飛躍する。そういう「接続」を振り切り、飛躍することが「詩」なのだ、と、この一連は告げている。
 二連目。

 テクストのこまやかな白息に沿わせ、誰の想像にもの
ぼらない辛苦の染みを、丁寧にやがて旋律へ溶け込ませ
てゆく。

 ことばの動きの繊細さは、一連目を引き継いでいるようで、何かが変質している。一連目にあった「その」の粘着力(接続)がない。
 まあ、すでに飛躍したのだから(詩になったのだから)、そこから先は「その」が不必要ということかもしれないが、妙に私は物足りないと感じてしまう。
 「記録(あるいは詩)」は「テキスト」へと引き継がれていくのだが、ここには「振れる」という動詞を「震動」に置き換えたようなしつこさとずれがない。「その」を補うべきことろがない。
 どこにでも隠れているはずなのに、どうしても表に出てくるしかなかった「ことばの肉体(思想)」を私は「キーワード」と呼んでいる。一連目にあった「その」は「キーワード」であると思って読み始めた私は、ここで、ちょっと読む気力が落ちる。
 詩は、このあと、こう展開する。

 わたしは形容されない安らいだフィールド。

 耳を澄ます。口唇が開く。息に漏れる。

 柔和な体温を届けうるとき、過ぎ去りし日々として虚
空にほどける白い紙には、一条の希望があたかも読点を
打つ行為の比喩に映っただろうか。

 「白息」(二連目)が「息」(四連目)と「白い紙」(五連目)に、「テキスト」(二連目)が「フィールド」(三連目)「紙」(五連目)へと引き継がれながら、「読点」(五連目)を折返点にして「記録」(一連目)へと循環する。
 とても丁寧なのだけれど。
 とても丁寧であるだけに、「その」はどこへ消えてしまったのか、と私は疑問に思うのである。全体を通じて「ことば」の選択は統一されているが、「文体」は激変している。
 「その」が印象づける「接続/粘着力」ではなく、「飛躍」の詩である、と奥間はいうかもしれない。

 まあね。

 途中を省略するが、最終連だけ、一行空きではなく二行空きにして、こう終わる。

 ページを埋めて、とあなたは哭した。

 なんだか、古くさいことばを読まされている気になった。
 思い返すと。
 荒川洋治がつかった「その」は、荒川以前の「散文」と荒川の「文体」を切り離す力を持っていたのかもしれない。(つまり、新しい「文体」の展開だったのだ。)たぶん、戦後の英語教育(翻訳文体)の影響で、私たちの世代に自然に浸透したために、あまりそのことに気づくひとはいないのだろうけれど。
 一連目の「文体」に感心し、書き始めたのだけれど、読み進むと、期待外れだった。私が詩に求めているものが違うだけなんだろうけれど。

 

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Estoy Loco por España(番外篇353)Obra, Jose Javier Velilla Aguilar

2023-05-13 22:54:59 | estoy loco por espana

Obra, Jose Javier Velilla Aguilar

 Tú estabas allí. Cuando se utiliza el tiempo pasado, ¿la conciencia se desplaza del pasado al presente? ¿O la conciencia se mueve del presente al pasado? Mi conciencia quiere agarrarte. No, mi conciencia quiere llegar a ti. Cuando escribo: "Tú estabas allí", te veo allí. No estás allí, pero parece que estás allí. Aquel día estabas mirando tu retrato. No sé quién lo pintó, pero era el retrato de un secreto que creía que sólo yo conocía. Viste la sorpresa en mis ojos y trataste de ocultarla. Esa fue la última vez. De repente desapareciste de mi presencia. En el lugar donde colgaba el cuadro, en esa pared, hay ahora un espejo. Refleja la luz que entra del exterior. (Ojalá hubiera sido un espejo también aquel día). En la luz inmaculada, te vi. Tú estabas allí. Brillante como si fuera la única luz. Al escribir en pasado, ¿la conciencia se desplaza del presente al pasado o del pasado al presente?

 君はそこにいたのだ。過去形をつかうとき、過去から現在へと意識は動いてくるのか。それとも現在から過去へと意識は動いていくのか。私の意識は、君をつかまえたがっている。いや、意識は君をつかまえている。君はそこにいたのだ、と書くとき、私には君が見える。そこにいないのに、そこにいるように見える。あの日、君は、君の肖像を見ていた。だれが描いたのか知らないが、私だけが知っていると思っていた秘密が描かれていた、その肖像。驚く私の目を見て、君は驚きを隠そうとした。それが最後だった。君は突然私の前から姿を消した。絵がかかっていたあの場所、あの壁には、いま、鏡がかかっている。外から入ってくる光を映している。(あの日も、それが鏡ならよかったのに。)汚れのない光のなかに、私は君を見た。君はそこにいたのだ。過去形で書くとき、意識は現在から過去へ動いていくのか、過去から現在へ動いてくるのか。

 

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トッド・フィールド監督「TAR ター」(★★★★)

2023-05-12 21:49:55 | 映画

トッド・フィールド監督「TAR ター」(★★★★)(中州大洋、スクリーン2)

監督トッド・フィールド 出演 ケイト・ブランシェット

 ケイト・ブランシェットを見たくて見に行ったのだが、いやあ、こわかった。昔から(?)、演じるというよりも、他人になってしまう役者だったが、今回も、完全に他人になってしまっている。(ほんもののケイト・ブランシェットを知っているわけではないのだが。)私はこういう「なりきり型」の役者は、役者ではない、と思っているのだが、別格だねえ。
 なんといっても階段で転んでからの「顔」がすごい。メーキャップなのだろうけれど、「醜い」を気にしていない。「ブルージャスミン」(ウディ・アレン監督)の最後でも思ったけれど、「醜い」をさらけだす。役者なのに。
 いや、そこだけじゃないんだけれどね。というか、その最後の「醜さ」を、それが当然という感じさせるように、演技が動いていくのがすごい。
 音楽のことはよくわかるが、人間のことは何もわかっていない。人を傷つけても、そのことによってこころが傷つかない。それを、とっても自然に(?)やってしまう。傷だらけの顔が「醜い」のではなく、彼女そのものが「醜い」。それを納得させてしまう。「容姿」とは関係がないのだ。
 パソコンが壊れた、と言って、秘書(恋人)のパソコンを借り、抹茶の準備をさせるあいだにメールを盗み見るということろなんか、すごい。なんというか、「確信」を持っている。メールが残っているはず、ということを「確かめる」というよりも、いざとなったら、メールが残っているじゃないかということを理由に秘書を問い詰めるために、メールを盗み読みするのだ。
 このシーンが象徴的だが、何かをするのは、つぎに何かをするためなのである。
 音楽というのは、私の考えでは、つぎに何かをする(次の展開を考える)というのではなく、「いま、その瞬間」を存在させるものだが、彼女にとっては違うのだ。「つぎ」のために「いま」がある。
 音楽を語るセリフでは、指揮者が「時間」を決めるのだ、時間を支配するのだというセリフがあるが、このときの「時間」は「いま」ではない。ターにとっては「時間」は「つぎ」のことなのだ。左手で(右手だったかな?)「はじまり」を決める、「はじまり」の瞬間を指示するというが、彼女にとって問題なのは、その「一瞬」ではなく、それが「つぎ」にどうなるか、なのである。
 だから。
 というべきなのか、どうなのか。
 ストーリーは「つぎ」から「つぎ」へと展開していく。けっして「いま」(その瞬間)を描かない。もし、「いま(その瞬間)」を描いているとしたら、それは、ある傷ついた顔だけなのである。女を追いかけて転んだのに、男に襲われたと嘘をつく。そこにだけ、彼女の「いま」がある。つまり、「つぎ」がない。はじめて、追いかけてきたものを「逃がす」ことになる。
 で、そんな人間に「音楽」が可能なのか。
 これは、まあ、矛盾だなあ。彼女は「音楽」を捨てられない。彼女が「音楽」を見つけたのか、「音楽」が彼女を見つけたのか。たぶん。「音楽」が彼女を見つけた。その見つけ方は、なんというか、残酷である。この残酷とケイト・ブランシェットがぶつかる。そのときの「衝撃音(ノイズ)」が「音楽」そのものになる。いままで聞いたことのない音になって突然あらわれる。だから、見終わったあと、残酷(ノイズ、雑音)というのは、なんと美しいものなのか、と思わずうなってしまうのである。
 ★5個にしようか、私はずいぶん迷った。私は「怖がり」なので、一個減らした。でも、いまは怖くてこう書いているが、怖さが消えたら★10個というかもしれないなあ。

 


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広島サミット

2023-05-11 13:47:44 | 考える日記

 2023年05月11日の読売新聞(西部版・14版)が広島サミットについて書いている。
↓↓↓
 政府は、19~21日に広島市で開く先進7か国首脳会議(G7サミット)に合わせ、インドや韓国など、招待国8か国の首脳に広島平和記念資料館を訪問してもらう方向で調整に入った。岸田首相と8か国首脳がそろって訪問する案も検討している。
 複数の政府関係者が明らかにした。資料館訪問を巡っては、G7各国首脳がそろって行うことが既に固まっており、G7の枠を超え、核軍縮の重要性を国際社会に広く強調する狙いがある。
↑↑↑
 これが実現するなら、とてもうれしい。(バイデンは、債務問題で欠席する可能性がほうどうされているが。)
 この記事を読みながら思ったのは、「戦争」そのものについてである。

 「戦争」は、いつのころからかはっきりしないが(私は歴史が苦手)、兵士と兵士(軍隊と軍隊)の戦いではなくなっている。かならず一般市民がまきこまれるようになっている。その最大の悲劇のひとつが、広島、長崎への原爆投下である。敵の軍隊に勝利したら戦争は終わりではなく、なんというか、「敵の国民」を殲滅しない限り、戦争はおわらないという状態になってしまっている。

 そこから、ふと思うのだけれど。

 最近、活発に語られる「敵基地攻撃」なのだけれど、そんなことで戦争が防げるのか。戦争は軍隊と軍隊の決着という時代は、もうとっくの昔になくなっている。敵基地を攻撃し、ミサイル攻撃を一時的にしのいだとしても、戦争はつづく。
 戦争が話題になると、多くのひとが「敵が日本に上陸してきたら、どうするんだ。戦わないのか。家族をおいて逃げるのか」。私は「一緒に逃げよう」とは言うが、いざとなったらひとりだけ逃げるかもしれない。家族のために戦う、というようなことは、言っても実行はできないなあ。
 ということよりも。
 「敵が日本に上陸してきたら、どうするんだ。戦わないのか。家族をおいて逃げるのか」という質問、おかしくない? 敵の軍隊が、一般市民を殺すということを前提にした意見だと思う。つまり、戦争とは国と国(組織)の戦いではなく、ある国民が別の国民を殺すことが戦争である、という定義で話していると思う。国(自民党・公明党政権)だけでなく、多くの日本国民が「戦争の定義」を変更してしまっていることになる。
 もし、「戦争」というものが、多くの軍備増強派が定義するように、軍人が一般市民を平気で殺すことを意味するのなら、「敵基地攻撃」というのも、実は「敵の国民を全滅させる」ということではないのか。それは、「核による抑止力」というよりも、「核によって殲滅させるぞ」ということではないのか。

 戦争は、軍人と軍人が正々堂々(?)と戦い、それによって決着するという時代は、もう遠い過去のことなのだ。広島と長崎の原爆は、核兵器によって国民が殲滅させられるという恐怖を感じ、国が国民の命を守るためには降伏する(敗北を認める)と言わない限り終わらないのだ。その「証拠(記録)」が広島と長崎に残されている。
 これは、ぜひ、見てもらいたい。実感してもらいたい。多くの市民が犠牲になったというだけではなく、現代の戦争は、いったんはじまれば軍隊と軍隊の戦いで終結しないことを実感してもらいたいと思う。

 

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安俊暉『灯草心』

2023-05-11 13:07:34 | 詩集

安俊暉『灯草心』(思潮社、2023年05月17日発行)

 安俊暉『灯草心』は、あとがきによれば「二十一から二十四歳までに記した四年間の日記」からの抜粋である。

私の成すことが神の導きに入っているかどうかである。       (24ページ)

道を求めて生きよ。                      (173ページ)

 ということばがある。「神」と「道」が重なるものかどうか、私にはよくわからない。「神」とは、キリスト(教)を指しているのだが、私はキリスト教徒ではないので、どう語っていいかわからない。「道」ということばで私がいつも思い出すのは、和辻哲郎の『古寺巡礼』である。和辻の父が、和辻に対して、「お前の今やっていることは道のためにどれだけ役に立つのか」と問う。私は、いつも、この和辻の父のことばにつまずく。「道」というとき、そこにはかならず「ひと」がいる。「神」というときも、「ひと」が視野に入っているのかもしれない。
 ただ。
 私は「神」は、どうもなじめない。ひとが「神」を信じるのは、それはそれでわかるが、その「神」を信じるために「教会」があるということが、どうにも納得できないのである。教会によって「神」がひとつに限定されることが(あるいは集団が組織されることが)、何か奇妙に感じられる。ひとの数だけ「神」があって、それぞれのひとの「道」につながる道を、それぞれが持っているかどうか自問するという姿は(あり方は)、私には考えることができるが、それ以外のことは、私には「空想」になってしまう。

議論してはならない。                     (118ページ)

 ということばがある。
 議論しても、どこにもたどりつけないということだと思う。だから、「神」については、私は、これ以上書かない。
 私の印象にいちばん残ったのは、同じ118ページにある、

挫折。
それは私を導いて私本来の道により着実にそわせようとする。

 この二行である。
 「挫折は私を導いて私本来の道により着実にそわせようとする。」ではなく「挫折。/それは私を導いて私本来の道により着実にそわせようとする。」と二行になっている。「挫折」を明確に意識化、対象化して、その上で、「私」との関係をみつめる。そこに、「神」ということばが登場したときにつかわれていた「導く」という動詞がある。「神」と「挫折」は同一ではないが(神が挫折するかどうか、私は知らないが)、そこに「契機」がある。
 そのあとに、とてもことばにしにくいというか「対象化」がむずかしい「より」という副詞が出てくる。それは「着実にそわせる」というかたちで動く力なのだが。
 他の文章(記述)も、正直が書いてあるのだと思うが(想像するが)、私は「挫折」の対象化が「より」を引き出しているように感じ、それで印象に残ったのだと思う。「より」という気持ちがあるから、「挫折」を対象化することになったのか、「挫折」を対象化することで「より」が動いたのか。
 わからないが、ここには何か、安と「神」、安と「道(ひと、あるいはと生きること)」とのあいだにある「断絶」を越えようとする意思が、それこそ「着実」に記されていると思う。「神」も「ひと」も「私(安)」ではない。いわば「他者」と「私」にとっての不可欠な「断絶」(断絶がなければ、「神」も「ひと」も存在しいない)を、自己存在の起点にしようとする正直を、私は感じる。

 


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Estoy Loco por España(番外篇352)Obra, Sanchez Garcia Jose Luis

2023-05-10 16:41:11 | estoy loco por espana

Obra, Sanchez Garcia Jose Luis

La noche que lloraba sin motivo
En el pueblo al que volvió mi sueño
Sólo había luz
Como una triste canción de cuna

Las paredes eran como viejos espejos
cubiertos de un fino brillo de polvo
Y en el aire, la silueta de un nostálgico
La silueta de una persona de antaño

Aquí pinté una vez un cuadro
El color de aquel árbol llamado por mi nombre
El color de esa flor llamada por tu nombre
Me pregunto adónde habrán ido aquellos colores

"Asegúrate de volver a mí".
Como aquel día
Esperando el autobús que nunca llegó
Oí la voz de tu abuelo


理由もなく泣いてしまった夜、
夢がたどりついた村には
ただ光だけがあった。
かなしい子守歌のように。

壁は古い鏡のように
ほこりの細かなつやにつつまれ
なつかしい人の
輪郭を映している。

ここで私は絵を描いたことがある。
私の名前で呼ばれたあの木の色
君の名前で呼んだあの花の色
どこへ行ってしまったんだろう。

「必ず帰ってこいよ」
あの日と同じように、
来ないバスを待つ
君のおじいさんの声が聞こえた。

 

 

 

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マイナーバーカードで管理(読売新聞を読む=2023年05月08日)

2023-05-08 21:53:06 | 読売新聞を読む

 2023年05月08日の読売新聞夕刊(西部版・4版)に不気味なニュースが載っていた。(番号は、私がつけた。)
↓↓↓
登下校 マイナで管理/保護者スマホに通知/今年度実験(見出し)
 政府は、マイナンバーカードで学校が児童・生徒の登下校状況を管理するシステム開発を後押しし、希望する全国の自治体への普及を目指す。島根県美郷町が今年度、実証実験に着手する。①共働き世帯が増加する中、デジタル技術を活用し、学校や保護者が子どもを見守りやすい環境を整える狙いがある。
 ②新たなシステムは、児童らが登下校する際に学校の各教室などに設置した専用の読み取り機にカードをかざし、時刻を記録するものだ。③保護者にはスマートフォンに通知が届き、学校側もパソコンなどで登下校の状況を速やかに把握することができる。
↑↑↑
 記事は、①「学校や保護者が子どもを見守りやすい環境を整える狙い」と書いているが、②のシステムは「児童らが登下校する際に学校の各教室などに設置した専用の読み取り機にカードをかざし、時刻を記録する」と書いている。これでは、子どもが学校にいつ到着し、いつ学校を出たか、しかわからない。これで③「保護者にはスマートフォンに通知が届き、学校側もパソコンなどで登下校の状況を速やかに把握することができる」ことになるのか。
 家を朝の8時に出た。学校に9時になっても着かない。あるいは学校を4時に出た、しかし9時になっても家に着かないとき、登下校の過程で何かがおきたのかもしれないと想像はできるが、これでは「子どもを見守る」ことにはならないだろう。親が「子どもがまだ学校に到着していない」(子どもがまだ家に帰っていない)ことがわかるだけである。だいたい、子どもが学校に行っているとき、つまり学校に着いて、授業が終わって学校を出るまでは、学校の中にいるわけだから、基本的に「子どもは見守られている」。
 子どもの通学で問題になるのは、学校にいる時間ではなく、学校にいない時間である。記事の末尾に、きちんとこう書いている。
↓↓↓
 児童の登下校を巡っては、全国的に防犯ボランティア団体が見守りを担ってきた。ただ、高齢化などを理由に2016年の4万8160団体をピークに減少しており、④子どもを狙った犯罪が増加する中、通学時の安全確保が課題となっている。
↑↑↑
 子どもを狙った犯罪は通学時に起きる。つまり④「通学時の安全確保が課題となっている」のである。②の「児童らが登下校する際に学校の各教室などに設置した専用の読み取り機にカードをかざし、時刻を記録する」では、通学している「時間」はまったくわからない。子どもがどこにいるか、わからない。これでは①の「子どもを見守る」という目的は果たせない。
 まったく、役に立たない。

 で、問題は、これからである。読売新聞は何も書いていないが、私のような疑問をもつ人間は必ず出てくる。見守らなければならないのは「登下校の時間」(学校の中にいない時間)である。そのために「防犯ボランティア団体」が活動しているのだが、②の「児童らが登下校する際に学校の各教室などに設置した専用の読み取り機にカードをかざし、時刻を記録する」というシステムは、まったく「防犯ボランティア団体」と関連づけられていていない。
 ここから、きっと②「児童らが登下校する際に学校の各教室などに設置した専用の読み取り機にカードをかざし、時刻を記録する」というシステムでは不十分だ。子どもをほんとうに見守るなら、「子どもが家を出発してから学校に到着するまで、学校を出てから家に到着するまでの過程を見守るシステム」が必要ということになるだろう。子どもの「常時監視」である。いまでも「防犯カメラ」がその役割をになっているが(問題がおきたとき、防犯カメラが調べられるが)、それがもっと頻繁になる。各通学路に改札口のような「ゲート」がいくつも設置され、そこのマイナンバーカードをタッチさせて通過する。そういうことになりかねない。
 これは、きっと「監視社会だ」という批判に晒され、成功しないだろう。
 そういうことは分かりきっている。だからこそ、「学校」で、その「訓練(苦情を言わない人間を育てる)」ということがはじまるのだ。批判力のない「幼稚園」「小学校」のときから、どこかを通過するたびにマイナンバーカードをタッチさせる。そうすることで「安全が守られる」と教え込む。それに慣らされてしまえば、どこへ行くにも「マイナンバー読み取り機」にタッチすることが「常識行動」になってしまう。「マイナンバー読み取り機」が「安全を守る」という保障になり、それを「監視」と気づかなくなる。
 狙いは、「子どもの安全を守る」なく、「監視に慣れさせる」ことである。その実験がはじまるのである。
 最初の実験が「島根県美郷町」というのも、私には、とても不思議である。「島根県美郷町」というのは、子どもの登下校で問題が置きやすい要素があるのだろうか。子どもを狙った犯罪が多い地区なのだろうか。そうではなくて、行政のやることに対して疑問の声を上げることが少ない地区なのではないのか。単に実験がしやすい場所が選ばれているだけなのではないのか。

 それにしてもねえ。

 私はつくづく思うのだが。こんなふうに「管理」して、ほんとうに子どもの安全が守れる? だいたい、「ずる休み」もできないなんて、つまらなくない? 親にも先生にも嘘をつく。それが「自立」の一歩というものではないだろうか。「行ってきます」と家を出て、友だちと誘い合わせて、家に引き返し、漫画を読む、ゲームをする、そういうことをする楽しみ(息抜き)がなくて、よく学校へ行けるなあ、と私なんかは思ってしまう。
 それは、ともあれ。
 これは、「子どもの安全」を掲げた「監視社会(管理社会)」の第一歩だ。反対運動を起こすべきである。なんといっても、子どもは行政に対して「反対運動」を起こせるだけの「意識」がない。それが、狙われている。「島根県美郷町」が狙われたのも、きっと、そうである。

 

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Estoy Loco por España(番外篇351)Obra, Miguel González Díaz

2023-05-07 21:17:37 | estoy loco por espana

Obra, Miguel González Díaz

 El primer domingo de mayo, que es el Día de la Madre en España, Miguel subió a Facebook la escultura de una madre.
 Puede que esté sosteniendo a su bebé contra el viento.
 La falda despeinada en la mitad inferior de su cuerpo representa la fuerza del viento. Aunque su falda ondea al viento, sus pies están firmemente plantados en el suelo.
 Esta fuerza se debe a que sujeta firmemente a su hijo.
 No sólo eso, sino que creo que también proviene del hecho de que el niño se siente seguro en los brazos de la madre. El niño es sostenido por la madre y, al ser sostenido, la madre se fortalece. Siento ese intercambio de vida.
 Y este intercambio de vida no es sólo entre madre e hijo, está conectado con la tierra. Da la sensación de estar enraizado en la tierra. La sólida presencia del pedestal también es un elemento importante de esta obra. La conexión entre madre e hijo está vinculada a la existencia misma de la tierra.

 5月の第一日曜日、スペインでは、この日が「母の日」。Miguelが、母親の彫刻をFacebookにアップしている。
 風のなかで赤ん坊を抱いている姿だろうか。
 下半身のスカートの乱れは、風の強さをあらわしているのかもしれない。しかし、スカートは風にはためいても、足はしっかり大地を踏みしめてゆるぎがない。
 この強さは、子どもをしっかり抱いているところから生まれている。
 それは母親が子どもを守っているというだけではなく、子どもが母親に安心して身を任せきっているところからも生まれていると思う。母親に抱かれながら、こどもは母親を育てている。そういういのちの交流を感じる。
 そして、それが単に母と子だけではなく、大地につながっている。大地に根ざしているという感じを与える。台座のどっしりした存在感も、この作品の重要な要素になっていると思う。

 

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杉本真維子『皆神山』(2)

2023-05-06 18:48:54 | 詩集

 

杉本真維子『皆神山』(2)(思潮社、2023年04月15日発行)

 杉本真維子『皆神山』のつづき。
 「かいこ伝説」の一連目がおもしろい。

ぼしゃり、ぶしゃり、さり、(いまは食べることで)
ぼしゃり、ぶしゃり、さりり、(いそがしくて)
ぶま、いぞ、ぶま、びぞ、うま、いぞ、
(ああ、うんまい、うんまい)
ちょっと、あっちへ行ってくれない?

 蚕が桑の葉を食べる音は、恐ろしいくらいにうるさい。(蚕が葉っぱを食べているところは何度か見たことがある。昔は、私のふるさとでも蚕を飼っている家があった。)沈黙がうるさい。必死に食べているので、話している暇がない。そういう静けさ(うるささ)である。「しゃり」とか「さりり」とかは、そういう音を思い出させる。
 私は耳が悪いので、こういう、ことばではない音を聞き取ることが苦手だ。だから、ことばとして定着していない音を聞き取るの耳を持った人には感心してしまう。
 杉本は、そこからさらに発展させている。
 「しゃり」「さりり」のほかに雑音(?)を組み合わせて「ぼしゃり」「ぶしゃり」を産み出し、そこから「ば行」「ま行」へ移行し、「ま」から「う」に戻る。昔の人が「馬」「梅」を「むま」「むめ」と書いたのの、逆である。で、「うんまい」になる。
 さらに。
 そこでおわるのではなくて、それを「意味」に変えてしまう。食べるのに忙しいんだから、「ちょっと、あっちへ行ってくれない?」。これは、西脇の「旅人帰へず」の「かけすが鳴いてやかましい」(正しい?)に似ているなあ。
 詩は、まだ、つづくのだけれど、一連目だけで、私は「満足」する。
 私は「意味」とか「内容」とかには、あまり関心がない。いや、ぜんぜん、関心がない。杉本は、私がおもしろいと思っていること以外のことを書きたいのかもしれないが、それは杉本の「意味」(人生)であって、私とは関係がないから、そういうことは考えないのである。

 そんな読み方でいいのか、と言われそうだが、私は、そういう読み方をしたい。

 「人形のなかみ」という詩も、私はとても好きだ。

それ以上話したら憑く
狸寝入りの耳に、一滴、
祖母が大事にしていた
浅黒い肌の人形がすわる。

 突然の「それ以上」がこわい。わからないから、こわいのだが、こわいことさえわかれば、それ以上知りたくはない。ほんとうにこわくなるから。
 「一滴、」というのは、なにかなあ。恨みの一滴か。血とか涙とか、言い直してしまうと、こわくなってくなってしまう。あえて言えば、声(音)の一滴。「恨み」なのだけれど、ことばになるまえの「喉の音」。
 こういう「音」というのは、「意味」を越えて、とらえきれない「もの」として、世界に生きている。それは、もちろん、なくてもいい。いいかえると、それが「ある」としても、それを存在として「数える」ことはできない。数えることができないものとして「ある」ということである。
 その数えることのできないものは、後半、こんなふうに書かれる。

祖母が死んだとき
人形のなかみから
小石ほどの骨を取り出して
柩にこっそり入れておいた、と
おばがウインクして言った。
手柄よ、とも言っていた。
だれの骨、とは聞かなかった。
その人形を囲んで、
祖父も、父も、母も、姉も、
みんないた
一人も足りなくはなかった。

 数えることができないから、「足りない」は生まれない。そうして、このとき「足りない」ではなく、ほんとうは「一人余っている」が生まれているのだが、それも数えることができないものだから、余っているとも言えない。

 いいなあ、この詩。

 

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細田傳造「雨にも負けず」ほか

2023-05-05 13:35:14 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「雨にも負けず」ほか(「ユルトラ・バズル」39、2023年04月25日発行)

 細田傳造は、いつでも非常に面倒くさいことを、非常に簡単に書く。論理を書かない。ただ、感情が変わった瞬間を書く。
 「雨にも負けず」は、雨の中を歩く兵隊の描写からはじまる。

雨が止まない
もう十日も降っている
褌ゲートル軍帽背嚢完膚無く濡れている
陰嚢陰茎そぼり小水漏れて暖を取る

 この凝縮した描写がうまいなあ、と思う。「完膚無く」ということばは常套句かもしれないが、ここに「膚」の文字が出てくるところが、なまなましい。ほんとうに戦争のとき、細田は行軍したのではないか、と思ってしまう。「小水漏れて暖を取る」も、いいなあ。あったかいんだよなあ。どうせ濡れているんだから、わざわざ、ズボンが濡れるかどうか気にする必要はないし、だいたい、行軍のとき、ひとりだけ立ち止まって小便をしていたら叱られるだろう。だから、そのまま、歩きながらするしかないのかもしれない。
 この部分の描写が「褌」からはじまるのも、とてもいい。すべてが唐突ではなく、連想が自然に動くようになっている。
 でも、ほんとうにすばらしいのは、このあと。歩兵は、生きて日本へ帰って来た。

生きて帰った昭和二十一年十一月
腹は減っているが書が読みたい
西武鉄道東長崎駅頭で本屋を見つけ
復員兵服の儘
がつがつがつ書架を物色
腹の立つ詩歌があった
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ・・
                  (注・「西武鉄道」の「鉄」は本文は旧字体)

 そりゃあ、思うだろうなあ。雨の中を行軍し、しかも生きるために、ズボンの中に小便を垂れた。しかも、その惨めな状況のなかで「暖かさ」を感じてしまった。こうした体験のあとで「雨ニモマケズ」と言われてもなあ。「雨にも負けず」生きてきたんだから、そのことを人に言われたくない。
 簡単に言えば、「説教くさい」という反発だ。
 「説教くさい」というのは、とても大切な反感だと思う。それは、「ヒロシです」のなかでは、こうつかわれている。

ヒロシです
吉野弘が嫌いです
生まれさせられたというのが
お説教くさい

 私なりに「誤読」すれば、「生まれさせられた」ということばのなかには、「論理」がある。ふつうは、そういう言い方をしない。つまり、何か、特別な目的を持った「論理」がそこにはある。
 それが嫌いだ、ということだ。
 「説教」というのは、つまりは「論理」である。「頭」で考えたことばが、肉体で考えたことばを押さえ込む。ズボンをはいたまま小便をするのは汚い、とかね。肉体は、ああ、冷えきったからだが小便に触れて、そこだけあったかい、気持ちがいいなあ、を否定する。
 宮澤賢治の詩には、そういうものが含まれていないか。
 「論理」は正しいけれど(正しいから「論理」と呼ばれるのだけれど)、「正しさ」というのは、何か、暴力を含んでいる。素手で殴るというような暴力ではなくて、「疲れない暴力」を含んでいる。機械的だ。
 「雨にもまけず」のつづき。

店を出ると雨が降り出した
雨はきらいだ
宮澤賢治って何だろう
永訣の朝って誰だろう
『肉体の悪魔』というわかりやすそうな本を
小脇に挟んで帰った
        (注・『肉体の悪魔』の「体」は旧字体、細田はとても律儀である)

 『肉体の悪魔』がわかりやすいかどうか判断できないが、このとのきの「わかりやすい」は少なくとも「頭」とは関係がない。「肉体」が反応しそうだ、という無意識だろう。
 「無意識」について言えば。

宮澤賢治って何だろう
永訣の朝って誰だろう

 この二行の「何」と「誰」のつかいわけもすごいなあ、と思う。「頭」で考えれば「何」と「誰」は逆だろう。でも、ね。やっぱり、「宮澤賢治って誰だろう」では、「反発」にならないのだ。何か、違うことを、ままり「論理」を生きるというのは、いったい、何ごとなのかと、無意識に思ってしまう。それを修正せずに、そのままことばに定着させる。
 ことばは、いろいろな動きをするものだが、細田は「修正してはいけないことば」というものをしっかりとつかみとっている。
 もうひとつの作品「心臓を見せに行く」には、こんな行がある。

広島で
朝鮮人のくせにピカドンで死んだ

 この「朝鮮人のくせに」の「くせに」は「修正できない」ことばである。私は「朝鮮人のくせに」と書くことができないが、細田は書くことができる。そこには、越えることのできないものがあり、その越えることのできないものがあるということが、とても重要だと思う。
 「論理」は、この越えることができないもの(越えてはいけないもの)を越えてしまう。そこに、非常な危険がある。
 これは、雨の行軍で「小水漏れて暖を取る」についても言える。私は、それを「わかる」と書いたが、これは、ほんとうは「まちがい」である。どんなに「わかった」つもりになっても、それは「想像力=頭」が動いて「わかる」部分がある。その「わかる」を「論理」にしてはいけない、それは「まちがい」なのである。

 どうすべきなのか。

 この問題に対する「答え」はない。私はとりあえずは「引き返す」。何かにぶつかる。ぶつかったときの衝撃から、自分自身へ引き返す。立ち止まる。
 「論理」というものは、どうしても生まれてくるものだから(なんといっても、脳味噌はずぼらが得意だから、自分さえよければいいというのが脳の主張だから)、それを「壊す」方向へ引き返すしかないと思う。
 そて、その「引き返すためのヒント」が、矛盾した言い方になるかもしれないが、細田の詩にはある。

 ちょっとというより、完全に脱線することになるのだが、私は「雨にもまけず」を読みながら、「台湾有事」を思ってしまったのだった。もう「台湾有事」ははじまっている。それはロシアのウクライナ進攻から同時にはじまっている。
 グロバリゼーションということばがあるが、これは私の考えではアメリカナイズと同じである。アメリカは、地球をアメリカナイズしようとしている。もし、戦争を(台湾有事を)防ぐなら、アメリカナイズというのグロバリゼーションがら「引き返す」しかない。アメリカナイズされないこと、アメリカナイズという「論理」で世界をおおわないことしかないと思う。
 世界には、アメリカナイズに疑問を感じている国が多くある。多くの人がいる。日本では、その動きはあまり報道されないが、その国や、そういう人の脇に立ってみる必要がある。アメリカの論理から引き返す必要がある。
 「核拡散」にしろ、それは「核があれば自分の国の安全は守れる」というアメリカの主張がグローバル化したもの、アメリカの主張をソ連(ロシア)、中国、北朝鮮がまねしたものである。イスラエルの問題を考えれば、それがいっそう鮮明になるだろう。


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布村浩一「歩く」

2023-05-05 11:26:59 | 詩(雑誌・同人誌)

布村浩一「歩く」(「別冊詩的現代」2023夏、2023年夏発行)

 

 布村浩一「歩く」は、こうはじまる。

 

大川を北へ折れて

そのまま歩いて

途中で

団地の方へ

団地の方角へ

入っていき

そのまま歩き

 

 「そのまま」がこの詩のキーワードで、歩いた場所を「そのつまま」書いている。歩いていくと「大きな建物」がある。「そのまま」とは書いてないが、「そのまま」入っていく。という具合に、どこにでも「そのまま」を補えるのだが。

 

ここに百均の店と

スーパーマーケットと

ドラッグストアと

本屋がある

ドラッグストアとスーパーマーケットの

あいだにきれいな白いトイレがあり

そこで用を足してから

本屋に入る

店の中をぐるっとまわって

雑誌のコーナーで停まる

ここにある週刊誌と隔週の週刊誌と月刊誌を

読む

 

 この「そのまま」の感じがとてもおもしろく、「そこで用を足してから/本屋に入る」のあいだに、思わず「そのまま」を挿入したくなる。そのまま、手を洗わず。手を洗ったのなら「そこで手を洗って」と書きそうなのに、書いてないなあ。きっと「そのまま」手を洗わず、本屋に入ったんだろうなあ。

 ま、これは、私の「妄想/誤読」だから、気にしないでね。

 その本屋の描写では「ここにある」ということばがとてもおもしろい。「ここにある」もの以外は読むことはできないのだが、「ここにある」と書く。「ここ」、つまりそのとき布村が存在する場所を、「そのまま」克明に書いている。

 「そのまま」が「ここにある」を発見するまでの過程が書かれていて、私は、詩は「ここ」でおわってもいいなあ、と思った。私なら「ここ」でおえるだろうと思うのだが、布村は私ではないので、当然、違ったことを書く。

 このあと、当然なことながら、本屋を出て「そのまま」歩き続ける。

 

細い長い道がみえる

坂だ

そこへ向かう

細い長い道に向かう

細い長い道に向かって歩いていると

大きな風景があらわれる

高い広い大きな風景に向かって

歩く

 

 ここに「そのまま」は補えるか。もちろん、補ってもいい。しかし、なんなとく「そのまま」を補いたくない。

 本屋で発見した「ここ」が「そこ」に変わったときから、「そのまま」も変わってしまったのだ。「歩く」と書いているが、「そのまま」歩くのではなく、「向かって」歩く。大きく変わったわけではなく、少し意識が変わっただけであり、布村は、日が暮れればやっぱり家へ帰るだろうが、その途中で、ふいに「高く」「広い」「大きな」を見つけ、その瞬間に「向かう」が鮮明になる。

 

 短く、どうでもいいような(?)詩だが、そのどうでもいいことが、とてもいい。この詩は贅沢だ。二篇にわけて書くことができるのに、一篇に統合し、何か正反対とでも言うべきものを、分離できない「ひとつ」にしている。

コメント (1)
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