風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

そういうことなんだなぁ!

2018年06月10日 | 徒然に日々のことを
「そういうことなんだなぁ!」「なるほど!」と手を打つ。





母が介護状態となり、毎年届いていた梅干しが来なくなり、
9年物を食べつくし、
13年物の梅干しのストックがなくなりそうです。



それで、去年6月、ジップロックでできる梅干しと言うレシピにしたがって、梅1キロを漬けてみました。


そして、1月には、味噌を。

母の作る味噌は、米麹ではなく麦麹なので、ちょっと癖のある味だった。

それも届かなくなり、市販の味噌をそれなりに選んで、楽しんで食べていました。


不便なところに住む母は、足りなくなることをとてもわびしく思うので、何でも余るくらいに作って、送ってくれていましたから、私の出る番はありませんでした。

一時、両方の母から、教えを受けたことはありますが、懇切丁寧すぎて、ギブアップした覚えがあります。その時、倦まずに教えてもらっていれば、母の味を継いで行けたのに。

なんだか寂しい理由からだけれど、母のやり方ではなく、簡便な方法で手作りが始まりました。



さて、これから、味噌の天地返しをいたします。     味噌玉

                               

梅酒用の焼酎が間もなく届くので、それをちょっと分けてもらって、味噌の作業用に使います。

この流れも、ちゃんと、わかりやすく、メモしておかねばね。

母たちは、こんなことすべてが、きっちりと頭に入っていて、先に行って困らないように、教えようとしました。

如何せん、記憶の容量と要領の悪さとの問題から、まだ訳の分からない時に、シャワーのように浴びせた結果、お手上げ状態にしてしまいました。

先に行って困らないように、と思う親心が強すぎました。

特に私の母は、高齢で産んだ私には、時間がないと思い続けて、どっさり、どっさり浴びせてくれました。

そのせいで、私の母の一番好きだったものを、若気の至りと言ったらいいのでしょうか、みずから嫌いにしてしまいました。

今まで、私の母のせいだと思っていました。違うんですよねぇ。

母は、思い違いをしていました。
それは、4番目に生まれた娘ですが、私は、4回目ではない。
生まれるたびに、それぞれは、1回目を生きているのだからってことを。

そして、遠き慮りをもって、浴びせ続けた言葉は、結果、溢れて洪水となり、私をおぼれさせました。

過ぎたるは及ばざるがごとし。

体験したことを賢く生かすことって、難しい。





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膝の痛み

2018年06月08日 | 体を整える
前回の操法の時の指示通りに、加湿器をやめてみたら、てきめんに、足のむくみが取れました。

これが、季節的な物であれば、夏になってしまえば、治るのですが、そうでない時は厄介だそうです。

足のむくみが取れてくるとともに、膝の痛みが薄らいできています。

今朝は、明け方の股関節や膝の痛みがなく、久し振りに目覚まし時計の音で目が覚めました。

なんて、爽快なんだろう。

思い当たる原因は、はっきりとあって、「あれかも」と先生に告げると、「そうかもしれませんね」 とおっしゃった。



心と体は、密接に結びついていて、毎日体操に励んでいても、何かしらの不具合が出てきます。


人体力学・井本整体 「原点6月号」の巻頭言は、「封じこめた想いの出口」

「井本整体では、当初からそれぞれの臓器が関係を持ち、連動と言うことで、内部から外部へ、外部から内部へとつながりがあるということを言ってきた。そのように、体の変動はとても深いのです。」

NHKスペシャル「人体」で、放送された、神秘の巨大ネットワークである臓器は、それぞれ関係を持って働いていることが科学的に証明されましたとのことでした。
そして、腸内フローラの話にしても、つねづね、井本先生がおっしゃってきたことだそうで、それは、巨大な研究機関や、研究組織によらない、井本先生の手によって、わかり得たことです。

本当に、井本先生って、すごい。
その、人体力学井本整体を学びつづけている山田先生に、心身共に、養って頂いていることに、大きな安心があります。

おかげ様。




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指導資格

2018年06月07日 | 詩吟
指導資格を得たら、なるべく早く、教室を持った方が良いのか、それとも、じっくりと、テクニックを磨いて、それからの方が良いのか。



ちょっと、考える機会がありました。  
                      教場の窓から



今日の練習では、前回の助言は、ちゃんと思いが通じたのだろうかと思うほど、下手な表現だったのですが、その不安を吹き飛ばして、きちんと、改良がなされ、指摘した部分だけでなく、その絶句のすべての関わりのある部分が、きれいに修正されていました。


驚くべき理解力、驚くべき修正力、感嘆しかない!


もともと感受性の鋭い人が、感覚で育てられて、今、ここに夢青葉のメンバ≠ニして在籍するようになって、間もなく4年になります。

私も、感覚で、覚えるという方法ですから、練習の回数は都合で、少なくても、感覚を共有できるのは、伝わりやすく、自学自習のできる人ですから、この、出来事は、その意をさらに強くしました。


人を教えることによって、責任を持って来たのか、(それは、教えのプロに向かって失礼な言い方かもしれません)それとも、私から指摘されたことで、反応したのかは、わかりません。


お稽古の前半の指導を任せて、後半を、個人の課題の時間とすると、自分自身のスキルアップにつながる練習もできて、好都合なのかなと思います。


コンクールの課題を、吟じてもらったら、今までと違って、伝わってくるものがありました。
これなら、もう一つ突っ込んで、言葉が出せると思います。


指導という立場になって、出た強さなのか、そういう時期になったのか、何か、思うところがあったのか。

あれこれ、想像すると、興味は尽きないのですが、こんな時、お稽古の後の、お茶会があると、いいなと思うのですが、なかなか、実現せずにいます。

「興味は尽きない」のまま、宙ぶらりんで、来月の練習の時には、考えすぎたり、忘れたりして、もったいないと思います。



さて、元に戻って、教える機会を得ると、みなさん異口同音に、スキルが上がるとおっしゃいます。



当分、様子を見て、月に2回のお稽古のうちの1回ですが、指導を、続けて頂くことにしようと思います。
彼女の指導は、ゲストさんには、特に好評で、この、教えのテクニックは、学ぶことがたくさんあります。

おかげ様。頑張ろうね。


バトンタッチをするのか、独立をするのかは、まだ、遠い先のことになりそうです。
楽しみです。




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お茶

2018年06月06日 | 徒然に日々のことを
最近「お茶」することがほとんど無くて、少し飢えかかっていた時に、タイミングよくお相手をしてくださる人がいました。

二人で、お茶なんて、何時ぶりのことでしょう。

嬉しくて、なかなか、話が止まらなくて、ちょっと、遅くなりました。。


お相手さんには、ご迷惑だったことでしょう。

たまには、ガス抜きも必要。








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違うこと

2018年06月01日 | 徒然に日々のことを
国が違えば、まず、言葉が違い、表現方法が違う。
すべてが違うことが前提で、物事や考えが始まるから、却って、理解しやすいということがある。

あるいは、違っているから、理解できないと言ってしまえる。


同じ言葉を話すということだけで、すべてがわかりあえるわけではなく、同じ単語が、まったく違う意味を持っていたりすることもあって、ますます、わからない困難さも起こってくる。


同じ国、同じグループ、同じ所属だからといって油断してはいけませんねぇ。


わかってもらおうと思うことのほうが、難しい。無理。



そう、思い始めた時に、ことがらや思いをまず、黙って聞いてくれて、そのことの良しあしや意見を言うのでは無く、共感を持ってくださることがどれだけありがたいか。

解決してほしくていうのではなく、共感を得たいのだ。

果たして、私は、共感する力があるのだろうか。

すぐに、イエス ノーを言っている気がする。 


共感しあえる関わりって、なかなか、無いよねぇ。あったら、嬉しいよね。




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忘れること

2018年06月01日 | 徒然に日々のことを
「書き留めても、忘れるようなことは、大したことじゃない」

すごく才能のある人がこの言葉を言うと、ほんとにそうなんだと思いました。

しかし、凡人は凡人なりの記憶力があり、その記憶スペースからあふれた言葉は、当然忘れてしまう。

自分の優先順位に沿って、記憶しているのだから、必ずしも、相手に取って大事なことと、私の大事なことは同じであるはずがない。

違って当然なのだから、それは、とりもなおさず、「同じであるはず」は、有り得ない。
同じように、共感をもって受け入れられることのほうが、稀と思う方が良い。


頭でわかっているつもりでも、改めて、外から投げかけられると、実感として身に迫るものだ。

特に、最近、心にうっぷんを抱えることがあると、余計に、感じるものだ。
いつもなら、聞き流していたんだろうねぇ。

まだ、大事な情報をキャッチするアンテナは、働いているな。



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宿題

2018年06月01日 | 徒然に日々のことを
「無理やり周りと同じにしない」



昨日の福祉詩吟では、まず、自分が経験していないことですから、すべてにおいて同じではないという前提があります。
できる限り、よく言葉を聞き、様子を拝見するようにしていました。
自分の教場ではないということもあり、指導の先生の考えも、尊重せねばなりません。

昨日は、その、垣根を破って、ちょっと言いすぎたかもしれません。
それぞれのメンバーの様子がわかってきたら、特別扱をしたり、恐れを頂く必要はないと、わかってきたからです。

スタートが、「同じではないはずだから、同じにしない」前提でした。
そして、遠くから観察する姿勢でしたから、何事もなく過ぎて行きました。
少し、物足りなくなったので、昨日は、伝えねばならないことを、懸命に伝えました。



芦孝会の教室では、そのことは、すっかり忘れて、「皆一律に対している。」と、
気づくことがあり、こちらでは、なるべく「同じにしない」ことを、宿題といたします。



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