4月30日夜のNHKニュースでジョン・ケネス・ガルブレイスが亡くなったことを知った。
早速、ニューヨーク・タイムズ等の英米のメディアのホームページを開き、不足分は、YAHOO等の検索で、ガルブレイスの追悼記事・論文等を検出しプリントアウトした。
ロイターやAP電をそのまま使用しているメディアも多いが、印刷したのは〆て100ページあまり、この休みに楽しみながら読もうと思っている。
私の大学での専攻は経済学、ゼミナールは経済原論で主に経済成長と経済循環を勉強していた。
最も尊敬する経済学者はヨーゼフ・アロイス・シュンペーターであるが、しかし、その後、大学院も含めて今までに一番勉強して影響を受けてきたのは、ガルブレイスであり、持っている経済学の蔵書の数も一番多い。
ミルトン・フリードマンの金融理論を主体としたシカゴ学派よりは、ケインズ経済学の方に傾いていたし、当時ケインズの信奉者でありリベラルで非常に斬新な発想のガルブレイスに啓発されることが多かった。
手元には、第3版のThe AFFLUENT SOCIETY 1976 が残っているが、私は、初版本を翻訳した日本語版「豊かな社会」を大学生の時に読んだのだが、それがガルブレイスとの最初の出会いであった。
その時のSOCIAL BALANCEと言う概念、即ち、公共財と民間財との質の異常な格差を経済発展の違いによって明らかにして社会のあるべき姿を説く、全く数理経済学とは違ったガルブレイスの経済学に引き込まれたのである。
公園の維持管理はその費用を税金で賄うのだが、国民は税金を払いたくないので汚い。
しかし、潤沢な資金のある民間企業は広告宣伝で消費を煽って欲しくないものまで買わせて益々発展する。
空調完備の芝刈り機や人一人運ぶのに6トンもの鋼鉄を使って長い巨大な尾びれをつけた車が必要なのか、と言った鋭い論調で公共政策の遅れと消費経済にウツツを抜かす経済社会を浮彫りにして、豊かな社会とは一体何なのかと問いかける。
その後、American Capitalism 1957を読んで、拮抗力(Countervailing Power)理論にも感嘆した。
フィラデルフィアでの院生の時、ECONOMICS & The Public Purpose 1973が出版された。ずっしりと重いハードカバーの本を書棚から引き出して開くと、黄色いマーカーでビッシリ埋め尽くされていて勢い込んで読んでいたあの頃が懐かしく思い出される。
前の「豊かな社会」は、公共および民間経済の別々の発展について論じ、その後の「The New Industorial State 1969 新しい産業国家」は、巨大企業の世界に焦点を当て、この「経済学と公共目的」は、これ等を総合し、マーケットやプランニング・システムを詳述しながら公共目的達成の為の改革へのプランニングを説いている。
この3部作は、ガルブレイスの最大の著作であり、理論空論ではなく、通念や伝統に囚われずに現実と事実を重視した透徹した目で経済社会を分析して展開した貴重な傑作で、30年以上経ってはいるが決して色あせてはいない。
主流派経済学者ではなかったことを問題にされているが、大恐慌の解釈等を含めて、主流派経済学の理論や経済通念が如何に間違っており欺瞞に満ちているかを身を持って糾弾し続けて来た。反骨精神は、いわば、言いたいと思った真実を言い続けただけである。
最後の諸作「悪意なき欺瞞」は、現代の社会を統べている理論や通念、特に保守派経済学のそれが如何に現実からかけ離れていて欺瞞に満ちているかを語って、その論旨は実に爽やかで爽快でさえある。
不世出の偉大な経営学者ピーター・ドラッカーさえ、スタンフォードのビジネス・スクールで引用さえもされなかったし、徹底的に学会から無視されていたと言われているが、亡くなった時には、夥しい数の追悼文が世界のメディアに満ち溢れた。
今回のガルブレイスのメディアの扱いも、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者よりも傑出していると言えよう。
ドラッカーの偉大さもガルブレイスの強さも、風雲急を告げた20世紀の経済社会の激動期の中で、社会との接点を持ち豊かな実務経験を重ねてきており、象牙の塔で理論だけを追求してきた学者ではなかったことにあると思う。
ガルブレイスは、経済は良くなれば悪くなり、悪ければ良くなる、グリーンスパンがいくら色々な金融政策を打っても結果は同じだと「悪意なき欺瞞」の中で言っている。
これ等の現象に理論付けをして、右だ左だと言って勢力の強い方が主流派経済学、そんなものに、ガルブレイスは興味がなかったと言うと云い過ぎであろうか。
もっとも、アメリカ経済学会の会長になった時、フリードマンが嫌がらせをしたと語っているところがガルブレイスらしくて中々面白いところでもある。
早速、ニューヨーク・タイムズ等の英米のメディアのホームページを開き、不足分は、YAHOO等の検索で、ガルブレイスの追悼記事・論文等を検出しプリントアウトした。
ロイターやAP電をそのまま使用しているメディアも多いが、印刷したのは〆て100ページあまり、この休みに楽しみながら読もうと思っている。
私の大学での専攻は経済学、ゼミナールは経済原論で主に経済成長と経済循環を勉強していた。
最も尊敬する経済学者はヨーゼフ・アロイス・シュンペーターであるが、しかし、その後、大学院も含めて今までに一番勉強して影響を受けてきたのは、ガルブレイスであり、持っている経済学の蔵書の数も一番多い。
ミルトン・フリードマンの金融理論を主体としたシカゴ学派よりは、ケインズ経済学の方に傾いていたし、当時ケインズの信奉者でありリベラルで非常に斬新な発想のガルブレイスに啓発されることが多かった。
手元には、第3版のThe AFFLUENT SOCIETY 1976 が残っているが、私は、初版本を翻訳した日本語版「豊かな社会」を大学生の時に読んだのだが、それがガルブレイスとの最初の出会いであった。
その時のSOCIAL BALANCEと言う概念、即ち、公共財と民間財との質の異常な格差を経済発展の違いによって明らかにして社会のあるべき姿を説く、全く数理経済学とは違ったガルブレイスの経済学に引き込まれたのである。
公園の維持管理はその費用を税金で賄うのだが、国民は税金を払いたくないので汚い。
しかし、潤沢な資金のある民間企業は広告宣伝で消費を煽って欲しくないものまで買わせて益々発展する。
空調完備の芝刈り機や人一人運ぶのに6トンもの鋼鉄を使って長い巨大な尾びれをつけた車が必要なのか、と言った鋭い論調で公共政策の遅れと消費経済にウツツを抜かす経済社会を浮彫りにして、豊かな社会とは一体何なのかと問いかける。
その後、American Capitalism 1957を読んで、拮抗力(Countervailing Power)理論にも感嘆した。
フィラデルフィアでの院生の時、ECONOMICS & The Public Purpose 1973が出版された。ずっしりと重いハードカバーの本を書棚から引き出して開くと、黄色いマーカーでビッシリ埋め尽くされていて勢い込んで読んでいたあの頃が懐かしく思い出される。
前の「豊かな社会」は、公共および民間経済の別々の発展について論じ、その後の「The New Industorial State 1969 新しい産業国家」は、巨大企業の世界に焦点を当て、この「経済学と公共目的」は、これ等を総合し、マーケットやプランニング・システムを詳述しながら公共目的達成の為の改革へのプランニングを説いている。
この3部作は、ガルブレイスの最大の著作であり、理論空論ではなく、通念や伝統に囚われずに現実と事実を重視した透徹した目で経済社会を分析して展開した貴重な傑作で、30年以上経ってはいるが決して色あせてはいない。
主流派経済学者ではなかったことを問題にされているが、大恐慌の解釈等を含めて、主流派経済学の理論や経済通念が如何に間違っており欺瞞に満ちているかを身を持って糾弾し続けて来た。反骨精神は、いわば、言いたいと思った真実を言い続けただけである。
最後の諸作「悪意なき欺瞞」は、現代の社会を統べている理論や通念、特に保守派経済学のそれが如何に現実からかけ離れていて欺瞞に満ちているかを語って、その論旨は実に爽やかで爽快でさえある。
不世出の偉大な経営学者ピーター・ドラッカーさえ、スタンフォードのビジネス・スクールで引用さえもされなかったし、徹底的に学会から無視されていたと言われているが、亡くなった時には、夥しい数の追悼文が世界のメディアに満ち溢れた。
今回のガルブレイスのメディアの扱いも、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者よりも傑出していると言えよう。
ドラッカーの偉大さもガルブレイスの強さも、風雲急を告げた20世紀の経済社会の激動期の中で、社会との接点を持ち豊かな実務経験を重ねてきており、象牙の塔で理論だけを追求してきた学者ではなかったことにあると思う。
ガルブレイスは、経済は良くなれば悪くなり、悪ければ良くなる、グリーンスパンがいくら色々な金融政策を打っても結果は同じだと「悪意なき欺瞞」の中で言っている。
これ等の現象に理論付けをして、右だ左だと言って勢力の強い方が主流派経済学、そんなものに、ガルブレイスは興味がなかったと言うと云い過ぎであろうか。
もっとも、アメリカ経済学会の会長になった時、フリードマンが嫌がらせをしたと語っているところがガルブレイスらしくて中々面白いところでもある。