熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立劇場・五月文楽公演・・・ひらかな盛衰記

2006年05月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   始めて文楽で初日の舞台を観た。
   今回は、三味線鶴澤燕二郎の六世鶴澤燕三襲名披露狂言の舞台でもあり、ロビー正面の飾付けも変わっていて何となく華やいだ雰囲気であった。
   燕三は、ひらかな盛衰記の「松右衛門内より逆櫓の段」後半を、豊竹咲大夫とともに舞台を勤めたが、その前に、人間国宝竹本住大夫が、披露口上を述べた。
   さすが、浄瑠璃の大夫で、立て板に水、歌舞伎と違って実に流暢なな語りで、以前に吉田玉男が語った口上とは一寸ニュアンスが違うが中々素晴しかった。

   歌舞伎の片岡仁左衛門さんがお祝いに来ていた。
   背の高いスマートな紳士で、黒いブレザーに白っぽいズボン姿。燕三の受付カウンターの側で話していたが、筋金入りであろうが華奢な感じで端正な銀行マンと言ったタイプで、あの豪快な熊谷直実や加古川本蔵のエネルギーと迫力が何処から来るのか、やはり、千両役者の風格と思いながら遠くから見ていた。

   今回の公演で寂しいのは、人間国宝吉田玉男が最初からプログラムから消えていて、更に、吉田文吾が休演していて、立役二人の重鎮を欠いていることである。
   しかし、文吾の代役は、吉田和生が勤めたのでそれなりに素晴しかったし、吉田玉女や桐竹勘十郎、それに、成長著しい若手達の活躍が舞台を盛り上げていたのが救いであった。

   それに、今回の公演では、女形が重要な役割を占めていて、「ひらかな盛衰記」のお筆と「生写朝顔話」の朝顔(実は美雪)を吉田簔助が、「艶容女舞衣」のお園を吉田文雀が、「義経千本桜」のお里を桐竹紋寿が、それぞれ遣って素晴しい至芸を見せてくれた。

   ひらかな盛衰記は、逆櫓の段で、亡き主君義仲の仇討ちを目論む樋口兼光(勘十郎)の活躍が見ものであるのだが、私は、子供を取り違えて、自分達の子供は若君と間違えられて殺され、代わりに大切に育てた子供を取り返そうとされる船頭権四郎(吉田玉也)と女房およし(吉田清之助)、それに取り返しに来る腰元お筆との実に人間的な悲しくて切ない遣り取りが好きで、感に堪えながらジッと観ていたが、3人3様で実に上手い。人形達が、喜怒哀楽を身体前身に漲らせて、喜び泣き慟哭しながら理不尽な運命を受け入れて流されて行く。

   お筆が、船頭達の子供槌松の笈摺に記された所書きを頼りに訪ねて来たので、当然、一緒に帰って来たものと思って喜ぶ二人に、真実を打ち明けられないお筆の苦衷を、簔助は、やや斜交いに身を捩じらせて下を向くお筆の人形に万感の思いを託して語りかける。
   およしは笈摺を抱きしめて慟哭するが、船頭は悲しみに耐えて、泣けば槌松が帰るのかと叱る。その言葉に力を得たお筆が、泣いても戻らない槌松を諦めて若君を返してくれと言う。
   その心無い言葉を聞いて、船頭権四郎は切れてしまい、槌松の敵を討とうと若君を殺そうとする。

   忠君が総てで、若君を取り返すことのみが目的だがカミソリを当てれば鮮血の迸り出る生身の女お筆を、腰元としての品格と威厳を保ちながら運命の過酷さに泣く悲しい性を簔助は実に丁寧に見せてくれている。
   肉親の情愛と忠君の思いとの鬩ぎ合い、接点などない筈だが権力と運命が総てを決めてしまう。
   この後、若君を抱いた樋口次郎兼光が現れて忠臣ぶりを示すのだが、しかし、自分の子供の運命が翻弄され蹂躙されれば果たしてその苦衷と悲嘆に耐えられるのか、何処かの国の子供の拉致問題を思い出しながら、身につまされてジッと観ていた。  
   
   樋口次郎兼光を遣う桐竹勘十郎だが、実に風格と威厳があり、最後の立ち回りまで堂々とした素晴しい舞台を見せてくれた。

   末筆ながら、咲大夫の浄瑠璃、燕三の三味線の名調子は言うまでもないことを付記しておきたい。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする