東方のあけぼの

政治、経済、外交、社会現象に付いての観察

石油恐怖症5、日本軍の中国大陸撤兵

2007-09-20 09:00:42 | 社会・経済

さて、これまでのところをおさらいしておこう。英米の対日石油禁輸でパニクッた大日本帝国は昭和16年12月英米に宣戦を布告した。アメリカの潜在国力を見誤ったために、アメリカの反撃の可能性を甘くみるという失敗をおかした。

ハワイに一撃を加えると直ちに全戦力を東南アジアの石油資源の獲得に振り向けた。これが間違いであるというのであった。信長が桶狭間での勝利を天下統一の足がかりとしたのは今川義元の本陣に攻め込んで彼の首を取ったからである。日本軍はワシントンまで攻め込むべきであったというのであった。

アメリカの右往左往ぶりはひどいものであった。体勢を立て直し、反撃に出る前がアメリカを叩く唯一のタイミングであった。日本が決定的に優位にたっていた戦略的兵器は当時の世界の常識をはるかに超えた1500キロの作戦半径を持つ零式艦上戦闘機であった。しかも日本は中国大陸でゼロ戦の運用実績を一年以上もち、実戦経験豊富な多数の搭乗員を持っていた。彼らの能力を真珠湾攻撃の一撃で終わらせるのはなんとしても惜しい。

要件は二つある。一つは短期間にワシントンまでしゃにむにガブリ寄ることである。日本は昔から短期決戦には強い。長引くとどうもねばる腰がない。短期の集中攻撃だと実に緻密な作戦をたてる。したがってアメリカ本土攻略戦は3ヶ月から半年で終わらなければならない。

もう一つはこの日本が経験したことの無い大規模な作戦の兵站、輜重面である。いわゆるロジスティックスである。日本軍の一番の弱点は兵站、輜重面である。第一この部門に投入された人材の数が英米に比べて極端にすくない。この面でも工夫が必要となる。

そこで秀吉の故事「中国大返し」が参考にされなければならない。明智光秀が信長を殺したときに、秀吉は備中高松城を攻めていた。光秀謀反を聞くと秀吉はただちに相手方と和議を結び、全軍を率いて全速力で大阪にもどり光秀を討った。この俊敏な行動によって秀吉は信長の後継者になったのである。

日本は蒋介石、あるいは八路軍と停戦協定をむすび、中国大陸に展開している百万近い日本軍を大陸から撤退させるべきであった。戦力をすべて対米戦に振り向けるべきであった。対米戦は中国戦線からの大兵力の「大返しなし」には不可能だったろう。第二次「中国大返し」である。

アメリカがイラクでモタモタしているが、昔から軍は撤退作戦というのが一番難しいと言われる。だからうまくいった撤退作戦は戦史に残るのである。「中国大返し」を決断する政治家がいなかった。作戦、戦略を立てられる参謀もいなかったのであろう。

半島人諸君へ:中国というのは昔から日本の地方名である。現在の大陸共産党政権が「中華人民共和国」というのはいい。しかし、略して自分のことを「中国」といってはいけない。日本海のことを「東海、東海」という諸君にはこの理屈は分かるであろう。彼らに忠告してくれたまえ。

次回はつけたり、「世界の歴史を変えたスターリンのシベリア大返し」

次次回はつけたりの二、「日本軍はB15のハワイ飛来を知っていたか」

つづく