そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

それでも核のない社会を

2009-08-15 | 政治と金

終戦記念日の今日、NHK総合テレビで、長々と核に対する論議をやっていた。私が見誤ったのは、核武装をするべきと主張す人たちに、ごくごく一般の人たちがいたことである。一つには、報道の力ではないかと思うが、力には力の論理である。単なる武器ならばそうした論議も成り立つが、核となると大きな問題である。

核兵器は単に大きな爆弾ではない。極めて非人道的な爆弾であり、末代まで影響をもたらすものである。大量破壊兵器であるが、大量破壊兵器の本質は、多くの一般人が犠牲になることなのである。つまり、核兵器は戦略兵器として考えるのは、被爆国日本が取るべきではない。人道的見地から核兵器をとらえなければならない。

その一方で、核の抑止力は、残念ながら厳然と存在はする。その事実は否定しないが、日本の場合はかなり他国と異なる。アメリカという超大国の核の傘の下にいるのであるが、日本ばかりが都合よく利用しているのではない。アメリカは日本に核を持たせないためにも、核の傘の下に置いておきたいのである。

もう一つ、日本は平和憲法を持っている。今年3月にプラハでオバマが核廃絶絵の演説を行ったことが、核廃棄あるいは核軍縮へと大きく動きく舵を切り始めた。日本をはじめ、核廃絶の運動をやっている人たちが活気づいた。今回の論議にも大きく影響している。

オバマ演説で評価されるのは、世界で唯一使用した国家としての責任に言及したことである。加害者の発言であるが、その対極にある被害者の日本が、核廃絶への主導権を採ることもなく、いまだ核武装を唱える人がいるのは残念でならない。

非核三原則は、持ち込まないが守られていなかったことがはっきりしているが、これを法制化することで日本の国家として、核へのスタンスがより一層明確になる。それに、被爆国、平和憲法と併せて考えると、日本の指導者は何をしているのかともどかしくなるばかりである。

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