詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉山平一『詩と生きるかたち』

2006-09-01 23:39:54 | 詩集
 杉山平一『詩と生きるかたち』(編集工房ノア)。
 詩と詩人(あるいは大阪の作家)について語っているが、そのなかに映画がときどきまぎれこんでくる。たとえば、藤澤桓夫の「首」という作品の冒頭を引用しながら、批評した文章。

《まるで疾風(はやて)だ。電柱は突如現われ、腰を屈(かが)めて消えた。ハンドルを捻(ひね)ると、教会の尖塔が痙攣(けいれん)しながら自動車に倒れ掛かって来た》というふうな映画のような描写でですね。

 「新感覚派」といえばすむのだが、(実際、補足するようにして、先の文章につづけて杉山は横光利一の文章を紹介して比較している)、そこに「映画のような」ということばをはさむ。ここに杉山の思想がある。杉山は映画が好きで、映画の視点でことばを読んでいる。
 「映画のような」と言っても、たぶん映画を見慣れていない人には先に引用した藤澤の文章がどこが映画的なのかわからないかもしれない。電柱や教会の尖塔の動きの描写は、気取っていて(というか、普通の人が書かないような書き方をむりやりひねり出しているようで)、奇妙な印象しか残らないだろうと思う。
 杉山が「映画的」というのは、実はリズムが映画的だ(すぐれた映画のリズムのようだ)というのである。車が猛スピードで走る。その描写を車のなかから描いているのだが、電柱が現われる。電柱が消える。ハンドルを切る(カーブを、角を曲がる)。教会が見える。倒れ掛かってくるように迫ってくる。その描写のスピードが「映画的」だといっているのである。特に「教会の……」の描写が、私には映画的に思える。角を曲がるとき(カーブを切るとき)車のスピードは幾分落ちる。だからこそ「痙攣しながら」という少しゆっくりした描写が入る。その描写が入ることで車のスピードが落ちたことがわかる。車に乗っている人間には、スピード落ちたからこそ、「痙攣しながら」ということばをさしはさむ時間があったのだ。ここには単に風景だけではなく、車のスピードも描写されている。それが「映画的」だと杉山はいうのである。
 こういうこと、車のスピードの変化まで、藤澤の文章を引用しながら「映画的」のひとことで説明し、理解しろ、というのは、かなり無理がある。ところが杉山はそれを無理とは感じていない。杉山が映画にどっぷりと浸っており、映画が杉山の肉体となっているからである。
 映画にはいろいろな要素がある。映画の何が好きになるか。映画から何を吸収するか。杉山が一番影響を受けているのはリズムである。(先のスピードの変化もリズムの変化である。「電柱は……」と「ハンドルを……」のことばのリズムをみれば、前者が短く、後者がスピードを落した分だけ長くなっている、時間かかかっていることがわかる。)そのことを語っている部分が「詩と形象」という文に出てくる。山中貞雄のデビュー作を語っている。磯野源太が親分を助けに走る部分を杉山は次のように説明する。

 (磯野源太は)「助っ人一人ー! 」って叫びます。無声映画ですから、声はありません。「助っ人一人ー! 」という字幕がはさまります。続いて走っている姿に、また字幕が「常陸の国は」って出るんです。走り続けるとまた「茨城郡」また走る。「祝の生まれの」また走る。「磯野源太だー! 」って出るんですね。その疾走感のダイナミズム、走り続ける姿に、名乗りの声を、字幕をちぎってバッ、バッ、バッといれていく、そのリズムの快感に非常に感心しました。

 この文章には二つの大事な「思想」(杉山の肉体)が書かれている。
 「字幕をちぎって」と杉山は書いている。映像が、磯野源太が走る映像が、字幕の瞬間途切れる。切断される。リズムとは切断を含むものである。切断があることによって、逆に、連続性が強調される。切断によって作り出していく連続性がリズムであると杉山は考えている。
 これは別なことばで言えば切断されたもの、つまり断片をつなげていくとき、そこにリズムがあれば、その断片は連続性に変わるということである。映画は実は、そのようにしてできている。つまり断片を独自のリズムによってつなぎあわせることで、一つの世界、連続した世界としてみせる、というのが映画である。
 この断片が連続性に変わるときのリズムを杉山は「快感」と呼んでいる。快感には精神的な快感もあるだろうけれど、ここでの快感は肉体の快感の方が大きい。目がとらえる世界、そこからやってくるリズムが、杉山の肉体そのものに、たとえていえば心臓に影響している。走るときの鼓動が山中の映画から杉山の肉体に響いてきて、それに共鳴している。それが「快感」だ。
 杉山は肉体でリズムを感じ、肉体でリズムを快感だと感じている。リズムこそがいのちだという「思想」がここから生まれる。

 こんなふうに映画に快感を覚える杉山は、どうして映画人にならずに詩人になったのか。映画と詩は、リズムによってつくられているということを、知らず知らずのうちに感得したからだろう。
 山中の映画を説明して、杉山は「字幕をちぎってバッ、バッ、バッといれていく」と書いていた。「字幕をちぎって」とは、一続きの文章をちぎってという意味である。(その挿入によって、結果として映像がちぎれる)。詩も一続きの文章をちぎっていく。簡単な例でいえば、改行によって。ただし、改行だけではリズムは生まれない。そこには明確な切断がなければならない。つまり前の行とは明らかに違った世界がそこに独立して存在しなければならない。
 実際の杉山の作品をみてみる。(杉山は、私とは違ったふうな説明の仕方をしていが、私は私の説明の仕方で杉山と映画の関係を書いてみたい。)「下降」という作品。

仲好しと、いま別れたらしい
娘さんが笑みを頬にのこしたまま
六階からエレベーターに入つてきた
四階で微笑んだ口がしまり
三階で頬がかたくなり
二階で目がつめたくなり
一階で、すべては消えた
エレベーターの扉があくと
死んだ顔は
黒い雑踏のなかに入つていつた

 少し図式的だが、娘の顔の変化が行ごとに描かれる。一行ごとに違った顔があらわれることによってリズムがリズムになる。杉山はことばで映画をつくろうとしているのかもしれない。
コメント
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