詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アレハンドロ・アグレスティ監督「イルマーレ」

2006-09-28 23:58:14 | 映画
監督 アレハンドロ・アグレスティ 出演 キアヌ・リーブスサンドラ・ブロック

 韓国映画の同名作品をハリウッドがリメイクしたもの。
 こうした純愛ものは出演者がすべてである。その点から見るとこの作品は完全な失敗作である。少なくとも私にはまったくおもしろくない。サンドラ・ブロックという女優が私は大嫌いである。表情にオーラがないどころか、まったく動かない。ときどき目をしょぼしょぼさせる。どうやら悩んでいる、悲しんでいるという演技らしいが、その唯一演技する目も私は大嫌いである。
 純愛とはすべて「初恋」である。初恋とは次に何が起きるかわからない、自分自身で何をしていいのかわからないまま、それでも何かをしなくてはいられないこころである。サンドラ・ブロックにはそういう演技ができない。脚本を読んでストーリーを知ってしまっている。役者だからそれは当然なのだが、そのストーリーを知っているということが演技に出てしまっている。
 この映画を見ながら、サンドラ・ブロックではなく、たとえば若いときのオードリー・ヘップバーンが演じたら、この映画はどうなっただろうかと思った。オードリー・ヘップバーンは何歳になっても「初恋」を演じることができた。すべてが「初恋」だった。「ローマの休日」も「昼下がりの情事」も初恋だった。はめもはずせば、男の心を引きつけるために嘘もつく。背伸びをする。そして背伸びをすればするほど若さが輝く。どうなるかわからないことを実行するとき、頼りになるのは彼女自身の若さ、どうなってもかまわない、どうなってもかまわないと思いながらも夢を受け止めて、ちゃんとリードしてという願いが、体全体から発散する。その不安定できらきらした輝き。それが初恋の美しさである。それが美しいから、どんなハッピーエンドであっても、ただただ美しい。
 実際に若くもないサンドラ・ブロックが動きのない顔で、目だけしょぼつかせて演技したのでは、ストーリーの嘘だけが浮いてしまう。この映画にあったかもしれない「詩」をサンドラ・ブロックの能面のような顔が壊してしまった映画である。
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山口哲夫「風雲録」

2006-09-28 23:32:21 | 詩集
 山口哲夫「風雲録」(「現代詩手帖」10月号)。
 「現代詩手帖」10月号が「現代詩手帖賞を読む」という特集をしている。歴代の受賞者の作品を1篇ずつ、計62篇収録している。読んだことのある詩もあれば読んだことのない作品もある。
 山口哲夫は私が「現代詩手帖」を読んだこともない時代に受賞した詩人である。その詩がおそろしくかっこいい。「風雲録」。

じじもぎの木の向う
罅われまんまの降るあたり
おんば日傘のかさぶた小僧が
おどろなイドラに身体じゅう
骨がらみ骨うずき
果てはもっぱらの中っ腹さげ
あやめ笠をばたおやめぶりに
みぢん斬り
まわし蹴り
さても空間は盲ら縞もよう
そのやみらみっちゃが病みつきで
じじもぎの実の腫れるかわたれ時
尻ばしょりの韋駄天ばしり
せんずり峠の伏魔殿すわか
能鷹まなこの錦(きん)切れ野郎め!
輪ぎり前げり五月(さつき)なげ
犬の糞もて泥縄かけて
女日照りの仇を打った
 (してまた床(とこ)ずれの
  骨がらみ骨うずき
  じじもぎの花の贋の青さに)

 69年7月号に掲載された作品らしい。
 この作品に出てくる「じじもぎ」の木というものを私は知らない。「罅われまんま」というものも知らない。おそらく山口が創作したものだろう。ことばをかえて言えば「偽物」だろう。この「偽物」の疾走に、この詩の特徴がある。というより、「詩」そのものがある。
 この作品には、「偽物」と同時に、「尻ばしょり」「韋駄天ばしり」というような古くからあることばが混在している。混在することによって、「偽物」も、「本物」(?)と同じように、一種の気の暴発(それこそ、風雲をもたらす豪傑の気が引き起こす錯乱、あるいは覚醒)だと告げる。
 「偽物」と「本物」が混在したまま、一気に駆け抜ける。そのスピードが、そしてその飛躍の多さが、同時に「せんずり峠」というようなやくざな肉体のしなやかさが、そのことばの奥に強靱な肉体を感じさせる。やくざな若者が好き勝手し放題をしているエネルギーを感じさせる。豪傑の登場とはこういうものであろうということを感じさせる。
 「豪傑」というもの、「風雲」を告げるものは、もともと「日常」の基準では把握できない。「豪傑」がもたらすものが「日常」に対して、善であるか悪であるか、そんなものはわからない。わかるのは、その「豪傑」によって、とんでもないことが起きるという喜びである。「日常」を破壊していく力が今動いているという感じ、その登場の時間を共有する喜びである。
 何が起きるかわからないから、そのまねをする。まねをすることで「豪傑」の力を自分自身のものにする。そういう一種の錯覚のかっこよさ、錯覚できるだけの肉体の覚醒のかっこよさというものがある。
 そして、それは日本語それ自体のかっこよさである。「古典」のかっこよさである。「芸」のかっこよさである。「芸」に論理的意味などない。「芸」は肉体を刺激するだけである。「肉体」のなかに眠っているあいまいな意識を刺激し、論理的にはつながらないものをつなげて見せる。そして、その結合の中から意味ではなく、とんでもない「肉体」そのものの動きが生まれる。その動きがつくりだしたものが、あとから「意味」として語られることもあるが、それは「肉体」にとっては無意味である。「肉体」にはただ今までと違った動きをする喜びだけが大切なのである。
 そうした歓喜、愉悦を、山口は、ことばのなかでやってのけたのだ。かっこいい、としか言いようがない。


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