監督 アレハンドロ・アグレスティ 出演 キアヌ・リーブス、サンドラ・ブロック
韓国映画の同名作品をハリウッドがリメイクしたもの。
こうした純愛ものは出演者がすべてである。その点から見るとこの作品は完全な失敗作である。少なくとも私にはまったくおもしろくない。サンドラ・ブロックという女優が私は大嫌いである。表情にオーラがないどころか、まったく動かない。ときどき目をしょぼしょぼさせる。どうやら悩んでいる、悲しんでいるという演技らしいが、その唯一演技する目も私は大嫌いである。
純愛とはすべて「初恋」である。初恋とは次に何が起きるかわからない、自分自身で何をしていいのかわからないまま、それでも何かをしなくてはいられないこころである。サンドラ・ブロックにはそういう演技ができない。脚本を読んでストーリーを知ってしまっている。役者だからそれは当然なのだが、そのストーリーを知っているということが演技に出てしまっている。
この映画を見ながら、サンドラ・ブロックではなく、たとえば若いときのオードリー・ヘップバーンが演じたら、この映画はどうなっただろうかと思った。オードリー・ヘップバーンは何歳になっても「初恋」を演じることができた。すべてが「初恋」だった。「ローマの休日」も「昼下がりの情事」も初恋だった。はめもはずせば、男の心を引きつけるために嘘もつく。背伸びをする。そして背伸びをすればするほど若さが輝く。どうなるかわからないことを実行するとき、頼りになるのは彼女自身の若さ、どうなってもかまわない、どうなってもかまわないと思いながらも夢を受け止めて、ちゃんとリードしてという願いが、体全体から発散する。その不安定できらきらした輝き。それが初恋の美しさである。それが美しいから、どんなハッピーエンドであっても、ただただ美しい。
実際に若くもないサンドラ・ブロックが動きのない顔で、目だけしょぼつかせて演技したのでは、ストーリーの嘘だけが浮いてしまう。この映画にあったかもしれない「詩」をサンドラ・ブロックの能面のような顔が壊してしまった映画である。
韓国映画の同名作品をハリウッドがリメイクしたもの。
こうした純愛ものは出演者がすべてである。その点から見るとこの作品は完全な失敗作である。少なくとも私にはまったくおもしろくない。サンドラ・ブロックという女優が私は大嫌いである。表情にオーラがないどころか、まったく動かない。ときどき目をしょぼしょぼさせる。どうやら悩んでいる、悲しんでいるという演技らしいが、その唯一演技する目も私は大嫌いである。
純愛とはすべて「初恋」である。初恋とは次に何が起きるかわからない、自分自身で何をしていいのかわからないまま、それでも何かをしなくてはいられないこころである。サンドラ・ブロックにはそういう演技ができない。脚本を読んでストーリーを知ってしまっている。役者だからそれは当然なのだが、そのストーリーを知っているということが演技に出てしまっている。
この映画を見ながら、サンドラ・ブロックではなく、たとえば若いときのオードリー・ヘップバーンが演じたら、この映画はどうなっただろうかと思った。オードリー・ヘップバーンは何歳になっても「初恋」を演じることができた。すべてが「初恋」だった。「ローマの休日」も「昼下がりの情事」も初恋だった。はめもはずせば、男の心を引きつけるために嘘もつく。背伸びをする。そして背伸びをすればするほど若さが輝く。どうなるかわからないことを実行するとき、頼りになるのは彼女自身の若さ、どうなってもかまわない、どうなってもかまわないと思いながらも夢を受け止めて、ちゃんとリードしてという願いが、体全体から発散する。その不安定できらきらした輝き。それが初恋の美しさである。それが美しいから、どんなハッピーエンドであっても、ただただ美しい。
実際に若くもないサンドラ・ブロックが動きのない顔で、目だけしょぼつかせて演技したのでは、ストーリーの嘘だけが浮いてしまう。この映画にあったかもしれない「詩」をサンドラ・ブロックの能面のような顔が壊してしまった映画である。