野村喜和夫
『スペクタクル あるいは生という小さな毬
』(思潮社
)。
2冊組詩集の1冊。
野村の詩を読むには体力がいる。一気に読まないとおもしろくない。1ページ1ページ時間をかけて読んでいたのではおもしろくない。野村のことばが駆け抜けていくスピード、それに追いついて行けるかどうかがおもしろいかおもしろくないかの分かれ目だと思う。
駆け抜けたあとで、私は印象に残ったことばを読み返す。少しだけ考える。この「考える」ということは、たぶん野村の詩の楽しみ方とは相いれないものなのだが、楽しみは楽しみとして、それとは別に批評を書くというのが私の「日記」の目的なので、考えたことを書いておく。
この一群のことばを「意味」を刺激する。野村の詩を野村自身で語っているように感じられる。野村のことばは決して閉じない。常に開かれた状態で差し出される。その結果、ことばの向こう側に私たちは向き合わされる。野村のことばの向こう側(開かれた状態のことばの向こう側にあるもの)と私たちは向き合わざるを得ないのだが、それはまるで野村がしむけるというよりも、私たちがその向こう側を呼び寄せているような感じにもなってしまう。たぶん野村の狙いはそんなふうにして読者の意識を攪拌し、覚醒させることにあるのだろう。その方法とその手段が野村にとっての「詩」、ことばの運動なのだろう。
私はそういう「意味」は実はあまり興味がない。私はその「意味」よりも、その「意味」を語るときの野村のことばのリズムに興味がある。
野村はことばを重複させてつかっている。散文なら「なぜ扉が開くのだろう」と書けばおしまいである。あるいは「われわれは扉の向こうを、さながら呼び寄せてしまうことになるではないか」と書けばことばの重複を解消できる。たぶん普通の散文なら(そして普通の詩人なら)、こういうことばの重複は避けるだろう。
だが野村はそうしない。あくまでことばを重複させる。重複させることでリズムをつくりだす。ことばの運動を加速させる。加速したスピード、スピードを加速しなければ、「扉の向こう」(ことばの向こう)へは行けないからである。
「なぜ扉が、なぜ開くのだろう」という文が特徴的だけれど、その重複には、ときどきことばが欠落する。「なぜ扉が開くのだろう」ではなく「なぜ開くのだろう」と書くとき、「扉が」が欠落する。ことばのスピードを上げるということは、ことばを振り捨てることでもある。何かを捨てる。捨てて身軽になる。その欠落が「扉の向こう」(ことばの向こう)を呼び寄せるのである。欠落があるから、向こうにあるものが、こちらに存在できるのである。
ことばを重複させる、そうやってリズムをつくりだすふりをしながら、野村は「欠落」あるいは「空白」をこちら側(読者の側)につくりだしていく。(最初の読者が野村自身であることを考えれば、野村自身の側につくりだし、その新しい「空白」という場で、野村と読者が重なり合うことになる。)
しかし、そういう「意味」に落ち着いてしまうようなことは、野村は好ましく感じていないのだろう。あくまで無意識に、つまりリズムに寄って(酔って?)、知らない内に向こうが読者の肉体のなかへ侵入してくる状況をことばでつくりだたしいのだと思う。そうした工夫(技法)を、たとえば「そんなことをされたら」という口語そのものをまじえることで実現している。意識が深まるのではなく、意識が軽く軽く、浅く浅く、疾走する。その先に、ことばの可能性があるということだろう。
野村にとって「詩」とは野村の内部につくりだされる「空白」である。その「空白」はことばの向こうにあるもの、ことばではたどりつけないものと、ときとして重なり合う。その重なり合いを求めて野村はことばを動かす。
「第十六番(あるいは豚小屋)」は一見、このことと矛盾するようなことを書いている。
私の内部に「豚小屋」がある。それは事実か、幻か。
しかし、そのことを野村は追いかけない。むしろ、そういうものを否定することが「詩」なのだと野村は感じている。だから、次のように書く。
私を消去する。私を消してしまうことがことばの向こうを受け入れることなのだ。ことばの向こうを自分自身の内部にするためには私を消去することが必要なのだ。
「私」の否定と引き換えに野村はことばの可能性を手に入れようとしている。ことばの可能性を耕そうとしている。
「ことばの可能性」といってもその幅は広い。何のことかわからないかもしれない。野村の「ことばの可能性」の基準はどこにあるのだろうか。
「第十一番(あるいはゾーンゾーン)」に書かれている1行が、それを暗示しているかもしれない。
野村が求めていることばの向こうとは「きれい」なものである。「きれい」を野村自身の内部、野村の「ことば」に侵入させたいのだろう。
最初の引用に戻る。
「干渉」と「隙間」。
ただ「扉」を開くのではない。細く細く開くのである。そのとき光の干渉が起きる。そのとき、干渉をとおして遠くにあるものが内部にまで届く。そしてそのとき、「私」はその光によって消去され、「きれい」そのものになる。
この陶酔を求めて、野村はことばを動かす。この陶酔を味わうためには、私の書いた文章など読まなかったことにして、もう一度、ただひたすら早く、速読を競うようにして野村のことばを追いかけ直してみることが必要かもしれない。
その結果、たとえば詩集の黒い装丁がきれいだ、という印象しか残らなくても、それはそれでいい。野村は詩集を「ことば」とは考えていない。「もの(オブジェ)」と考えている。つまり、そこから引き出せるのは、野村のことばであるよりも、読者のことばである。読者が自分自身のことばを引き出すために、詩集はある。そういうものを野村は提示しようとしている。
2冊組詩集の1冊。
野村の詩を読むには体力がいる。一気に読まないとおもしろくない。1ページ1ページ時間をかけて読んでいたのではおもしろくない。野村のことばが駆け抜けていくスピード、それに追いついて行けるかどうかがおもしろいかおもしろくないかの分かれ目だと思う。
駆け抜けたあとで、私は印象に残ったことばを読み返す。少しだけ考える。この「考える」ということは、たぶん野村の詩の楽しみ方とは相いれないものなのだが、楽しみは楽しみとして、それとは別に批評を書くというのが私の「日記」の目的なので、考えたことを書いておく。
なぜ扉が、なぜ開くのだろう、そんなことをされたら、扉の隙間からまがまがしい赤光が射して、われわれは扉の向こう、扉の向こうを、さながら呼び寄せてしまうことになるではないか、 (「第二十四番(あるいはディープフィールド)」
この一群のことばを「意味」を刺激する。野村の詩を野村自身で語っているように感じられる。野村のことばは決して閉じない。常に開かれた状態で差し出される。その結果、ことばの向こう側に私たちは向き合わされる。野村のことばの向こう側(開かれた状態のことばの向こう側にあるもの)と私たちは向き合わざるを得ないのだが、それはまるで野村がしむけるというよりも、私たちがその向こう側を呼び寄せているような感じにもなってしまう。たぶん野村の狙いはそんなふうにして読者の意識を攪拌し、覚醒させることにあるのだろう。その方法とその手段が野村にとっての「詩」、ことばの運動なのだろう。
私はそういう「意味」は実はあまり興味がない。私はその「意味」よりも、その「意味」を語るときの野村のことばのリズムに興味がある。
なぜ扉が、なぜ開くのだろう
われわれは扉の向こう、扉の向こうを、さながら呼び寄せてしまうことになるではないか
野村はことばを重複させてつかっている。散文なら「なぜ扉が開くのだろう」と書けばおしまいである。あるいは「われわれは扉の向こうを、さながら呼び寄せてしまうことになるではないか」と書けばことばの重複を解消できる。たぶん普通の散文なら(そして普通の詩人なら)、こういうことばの重複は避けるだろう。
だが野村はそうしない。あくまでことばを重複させる。重複させることでリズムをつくりだす。ことばの運動を加速させる。加速したスピード、スピードを加速しなければ、「扉の向こう」(ことばの向こう)へは行けないからである。
「なぜ扉が、なぜ開くのだろう」という文が特徴的だけれど、その重複には、ときどきことばが欠落する。「なぜ扉が開くのだろう」ではなく「なぜ開くのだろう」と書くとき、「扉が」が欠落する。ことばのスピードを上げるということは、ことばを振り捨てることでもある。何かを捨てる。捨てて身軽になる。その欠落が「扉の向こう」(ことばの向こう)を呼び寄せるのである。欠落があるから、向こうにあるものが、こちらに存在できるのである。
ことばを重複させる、そうやってリズムをつくりだすふりをしながら、野村は「欠落」あるいは「空白」をこちら側(読者の側)につくりだしていく。(最初の読者が野村自身であることを考えれば、野村自身の側につくりだし、その新しい「空白」という場で、野村と読者が重なり合うことになる。)
しかし、そういう「意味」に落ち着いてしまうようなことは、野村は好ましく感じていないのだろう。あくまで無意識に、つまりリズムに寄って(酔って?)、知らない内に向こうが読者の肉体のなかへ侵入してくる状況をことばでつくりだたしいのだと思う。そうした工夫(技法)を、たとえば「そんなことをされたら」という口語そのものをまじえることで実現している。意識が深まるのではなく、意識が軽く軽く、浅く浅く、疾走する。その先に、ことばの可能性があるということだろう。
野村にとって「詩」とは野村の内部につくりだされる「空白」である。その「空白」はことばの向こうにあるもの、ことばではたどりつけないものと、ときとして重なり合う。その重なり合いを求めて野村はことばを動かす。
「第十六番(あるいは豚小屋)」は一見、このことと矛盾するようなことを書いている。
生きることを休みたい? 苦しい私を取り替えたい? 馬鹿な、そんな私を掘り下げよ、深く、深く、すると筋肉のように不穏な、朽ちかけた豚小屋にふれる、
私の内部に「豚小屋」がある。それは事実か、幻か。
しかし、そのことを野村は追いかけない。むしろ、そういうものを否定することが「詩」なのだと野村は感じている。だから、次のように書く。
母よ、私の消去をなせ
私を消去する。私を消してしまうことがことばの向こうを受け入れることなのだ。ことばの向こうを自分自身の内部にするためには私を消去することが必要なのだ。
「私」の否定と引き換えに野村はことばの可能性を手に入れようとしている。ことばの可能性を耕そうとしている。
「ことばの可能性」といってもその幅は広い。何のことかわからないかもしれない。野村の「ことばの可能性」の基準はどこにあるのだろうか。
「第十一番(あるいはゾーンゾーン)」に書かれている1行が、それを暗示しているかもしれない。
きれいとは干渉を起こさせること
野村が求めていることばの向こうとは「きれい」なものである。「きれい」を野村自身の内部、野村の「ことば」に侵入させたいのだろう。
最初の引用に戻る。
扉の隙間からまがまがしい赤光が射して
「干渉」と「隙間」。
ただ「扉」を開くのではない。細く細く開くのである。そのとき光の干渉が起きる。そのとき、干渉をとおして遠くにあるものが内部にまで届く。そしてそのとき、「私」はその光によって消去され、「きれい」そのものになる。
この陶酔を求めて、野村はことばを動かす。この陶酔を味わうためには、私の書いた文章など読まなかったことにして、もう一度、ただひたすら早く、速読を競うようにして野村のことばを追いかけ直してみることが必要かもしれない。
その結果、たとえば詩集の黒い装丁がきれいだ、という印象しか残らなくても、それはそれでいい。野村は詩集を「ことば」とは考えていない。「もの(オブジェ)」と考えている。つまり、そこから引き出せるのは、野村のことばであるよりも、読者のことばである。読者が自分自身のことばを引き出すために、詩集はある。そういうものを野村は提示しようとしている。