詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

倉田比羽子「横顔」

2006-09-30 23:36:45 | 詩集
 倉田比羽子「横顔」(「現代詩手帖」10月号)。
 「現代詩手帖」10月号の特集「現代詩手帖賞を読む」の1篇。79年3月号の作品。短い作品である。短いけれど、私は2度つまずいた。

どこまで行けば
青い横顔に叢繁れば
人に伝えることが失くなる
理由(ワケ)を知る由無し言も
空空(カラカラ)、乱暴に使いこなすことで
壊されたり担ぎだされたり
忙がしい午後を日干し吊りにする
軋む背に支えられる魂に
観念が伝えるものは像をよぎる
この温和な小春日和を
心地良しとする意味はつよい

道をひとつ超えれば
遠ざかる不可思議な木や森
たくさんの道具を使っても通じなかった
切断や接続の仕方
しかし、木を切る人
森を駆ける人に意味をもたせて
私たちは想像した
読み易い奥の細道よ
どこまで行っても
横顔湿る叢のしたで
人に伝えることか伝えられることかと欲望に
迷い
詠むことがら、像を顕す
空空(ウツウツ)、下を向き
どこまで行く

 「意味」。このことばが2度出てくる。「意味」とは何なのだろうか。それは倉田のことばを借りて言えば「切断と接続」だろう。単独では存在しない。
 何かを「切断」する。そのとき、その存在は、直接「私」と結びついてしまう。たとえば「小春日和」を「観念」とも「横顔」とも切断してしまう。すると「心地良い(良し)」という感覚と結びついてしまう。私の中の肉体と結びついてしまう。そうした「接続」、「切断」によってふいにあらわれる「接続」はとても強い。拒否することができない。直接的である、ということが「つよい」ということである。
 何かを「接続」する。それは「私」のなかにあるものというよりも、むしろないものを「接続」することだ。「私」のなかにないにもかかわらず、あるいはないからこそ、それは「私」以外のものとやすやすと結びついてしまう。「想像」とはそういうことだ。「想像」するのは感覚というよりも精神(頭脳)である。頭脳の助けを借りて、「意味」を「もたせる」。「接続」する、とは「意味をもたせる」ことである。「意味」をつくりだすことである。それは「頭脳」のなかでのできごとである。
 「切断」したとき、「意味」はどこからともなくやってきて、直接体に、肉体に結びつくのに対し、「接続」するためには、「意味」を頭の中でつくりだして、私の外にあるもの、私以外に預けるしかない。

 この詩には「意味」と類似のことばがもう一つ出てくる。「伝える」。
 小春日和は心地良い、というのは「意味」というよりは感覚である。だからこそ、「伝える」「伝えない」とは関係無しに伝わってしまう。伝わってしまって、「意味」ではないにもかかわらず、「意味」のように他者にも影響してしまう。それくらいに「つよい」のである。

 さらにもう一つ「意味」に類似したことばもある。「観念」。
 これを伝えるためには、それを誰か(何か)にもたせなければならない。直接的には伝わらない。それが間接的にしか伝えられないものであるからこそ、その「間接的」ということのなかに「想像」という精神の動きが入り込む。

 倉田の詩には、肉体的なものと観念的なもの(頭脳的なもの)が微妙に絡み合っている。その絡み合いを倉田は切断と接続で立体的に(空間的に、あるいは宇宙的に)、再構成しようとしているように感じられる。


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李相日監督「フラガールズ」

2006-09-30 23:34:56 | 映画
監督 李相日 出演 松雪泰子、蒼井優、豊川悦司、富司純子

 ただただ泣かせて泣かせて泣かせて泣かせる映画である。劇場中、涙涙の大洪水である。そして、この涙がまた強烈である。涙はもちろん人間が共感したときに流すものだが、その共感が「ああ、いい映画だった」を通り越して、「あ、福島県いわき市へ行って本物のフラガールズのショウを見たいなあ」ということろまで広がる。
 なぜいわき市までいかなければならないか。ほかのハワイアンショウではななぜだめなのか。それはフラガールズのハワイアンショウがハワイアンショウではないからだ。いわき市の炭鉱離職者の生活そのものだからである。
 この映画の見どころは、ひとつはもちろん炭鉱の女性たちが徐々にフラダンスが上手になっていく過程にあるが、もうひとつは炭鉱の街の生活にある。それをこの映画は克明に描いている。ひとつの職業を共有することによって生まれる共通感覚(団結というような気取ったものではなく、同じ仕事をすることによって、何もかもわかってしまう肉体的な感覚)を濃密に描く。
 それはたとえば主人公の少女をフラガールに引き入れた少女が北海道へ引っ越していくシーンにあらわれている。去っていくトラック。追いかける少女。ごくごく見慣れたシーンだが、そこでふたりの少女は「さよなら」「元気で」とは言わない。「じぁあな」と叫ぶ。手をちぎれるようにしてふりながら「じぁあな」と叫び続けるのである。
 いわき市では、その炭鉱の街では、誰もが別れるときに「じぁあな」と言うのだ。それはもちろん「さよなら」「達者で」という意味であることは見てすぐにわかるが、だが、そうした「理解」は頭で理解したことにすぎない。本当にわかるには、いわき市へ行って「じぁあな」と言える友達ができなければ、わかりっこないのである。そういう、わかりっこないものがあるということを、ふたりの少女は本当に手がちぎれんばかりに振って、感情も抒情もあったものではないというくらい、ただただ力任せに振って表現する。まるで、手を振ることで、空気をふるわせ、その振動(?)を相手に伝えようとしているかのようだ。
 そして、実際に、少女たちが伝えあっているのは、感情ではなく、空気そのものの振動なのだと思う。生きているとき、そこに空気がある。同じ空気を吸っている。空気の中に、悲しみも喜びも溶け込んでいる。それをふるわせている。そのふるえがわかるということが、生活を共有することなのだ。
 こういう空気を描き出してしまえば、もうあとはスクリーンからは、いわき市の空気しか流れてこない。最後までいわき市の空気を観客は呼吸し続ける。そして、映画がおわった瞬間、あ、あの空気を吸いにいわき市へいかなければ……という思ってしまう。

 この映画では富司純子がとてもいい演技をしている。生活すること、しっかり生きることが人を美しくさせる、と心底感じさせる。

コメント (2)
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