倉田比羽子「横顔」(「現代詩手帖」10月号)。
「現代詩手帖」10月号の特集「現代詩手帖賞を読む」の1篇。79年3月号の作品。短い作品である。短いけれど、私は2度つまずいた。
「意味」。このことばが2度出てくる。「意味」とは何なのだろうか。それは倉田のことばを借りて言えば「切断と接続」だろう。単独では存在しない。
何かを「切断」する。そのとき、その存在は、直接「私」と結びついてしまう。たとえば「小春日和」を「観念」とも「横顔」とも切断してしまう。すると「心地良い(良し)」という感覚と結びついてしまう。私の中の肉体と結びついてしまう。そうした「接続」、「切断」によってふいにあらわれる「接続」はとても強い。拒否することができない。直接的である、ということが「つよい」ということである。
何かを「接続」する。それは「私」のなかにあるものというよりも、むしろないものを「接続」することだ。「私」のなかにないにもかかわらず、あるいはないからこそ、それは「私」以外のものとやすやすと結びついてしまう。「想像」とはそういうことだ。「想像」するのは感覚というよりも精神(頭脳)である。頭脳の助けを借りて、「意味」を「もたせる」。「接続」する、とは「意味をもたせる」ことである。「意味」をつくりだすことである。それは「頭脳」のなかでのできごとである。
「切断」したとき、「意味」はどこからともなくやってきて、直接体に、肉体に結びつくのに対し、「接続」するためには、「意味」を頭の中でつくりだして、私の外にあるもの、私以外に預けるしかない。
この詩には「意味」と類似のことばがもう一つ出てくる。「伝える」。
小春日和は心地良い、というのは「意味」というよりは感覚である。だからこそ、「伝える」「伝えない」とは関係無しに伝わってしまう。伝わってしまって、「意味」ではないにもかかわらず、「意味」のように他者にも影響してしまう。それくらいに「つよい」のである。
さらにもう一つ「意味」に類似したことばもある。「観念」。
これを伝えるためには、それを誰か(何か)にもたせなければならない。直接的には伝わらない。それが間接的にしか伝えられないものであるからこそ、その「間接的」ということのなかに「想像」という精神の動きが入り込む。
倉田の詩には、肉体的なものと観念的なもの(頭脳的なもの)が微妙に絡み合っている。その絡み合いを倉田は切断と接続で立体的に(空間的に、あるいは宇宙的に)、再構成しようとしているように感じられる。
「現代詩手帖」10月号の特集「現代詩手帖賞を読む」の1篇。79年3月号の作品。短い作品である。短いけれど、私は2度つまずいた。
どこまで行けば
青い横顔に叢繁れば
人に伝えることが失くなる
理由(ワケ)を知る由無し言も
空空(カラカラ)、乱暴に使いこなすことで
壊されたり担ぎだされたり
忙がしい午後を日干し吊りにする
軋む背に支えられる魂に
観念が伝えるものは像をよぎる
この温和な小春日和を
心地良しとする意味はつよい
道をひとつ超えれば
遠ざかる不可思議な木や森
たくさんの道具を使っても通じなかった
切断や接続の仕方
しかし、木を切る人
森を駆ける人に意味をもたせて
私たちは想像した
読み易い奥の細道よ
どこまで行っても
横顔湿る叢のしたで
人に伝えることか伝えられることかと欲望に
迷い
詠むことがら、像を顕す
空空(ウツウツ)、下を向き
どこまで行く
「意味」。このことばが2度出てくる。「意味」とは何なのだろうか。それは倉田のことばを借りて言えば「切断と接続」だろう。単独では存在しない。
何かを「切断」する。そのとき、その存在は、直接「私」と結びついてしまう。たとえば「小春日和」を「観念」とも「横顔」とも切断してしまう。すると「心地良い(良し)」という感覚と結びついてしまう。私の中の肉体と結びついてしまう。そうした「接続」、「切断」によってふいにあらわれる「接続」はとても強い。拒否することができない。直接的である、ということが「つよい」ということである。
何かを「接続」する。それは「私」のなかにあるものというよりも、むしろないものを「接続」することだ。「私」のなかにないにもかかわらず、あるいはないからこそ、それは「私」以外のものとやすやすと結びついてしまう。「想像」とはそういうことだ。「想像」するのは感覚というよりも精神(頭脳)である。頭脳の助けを借りて、「意味」を「もたせる」。「接続」する、とは「意味をもたせる」ことである。「意味」をつくりだすことである。それは「頭脳」のなかでのできごとである。
「切断」したとき、「意味」はどこからともなくやってきて、直接体に、肉体に結びつくのに対し、「接続」するためには、「意味」を頭の中でつくりだして、私の外にあるもの、私以外に預けるしかない。
この詩には「意味」と類似のことばがもう一つ出てくる。「伝える」。
小春日和は心地良い、というのは「意味」というよりは感覚である。だからこそ、「伝える」「伝えない」とは関係無しに伝わってしまう。伝わってしまって、「意味」ではないにもかかわらず、「意味」のように他者にも影響してしまう。それくらいに「つよい」のである。
さらにもう一つ「意味」に類似したことばもある。「観念」。
これを伝えるためには、それを誰か(何か)にもたせなければならない。直接的には伝わらない。それが間接的にしか伝えられないものであるからこそ、その「間接的」ということのなかに「想像」という精神の動きが入り込む。
倉田の詩には、肉体的なものと観念的なもの(頭脳的なもの)が微妙に絡み合っている。その絡み合いを倉田は切断と接続で立体的に(空間的に、あるいは宇宙的に)、再構成しようとしているように感じられる。