詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

森川雅美「山越」

2006-09-22 15:40:24 | 詩集
 森川雅美「山越」(「あんど」7)。
 「あんど」7号の裏表紙に「夏の●」という文字が書かれている。●は「幻」と「幼」が微妙に合体したような文字である。山本哲也は何かの詩で「幻の幼い力」と書いていたが、それを思わせる。旁が「刀」になっている。表紙を書いた佐藤良助が間違えて書いたのか、それとも正確な文字を知らなかったのか、あるいはこんな文字が本当にあるのか……。
 表紙を書いたのが佐藤良助なのだから、そのことと森川の書いている「山越」は何の関係もないのかもしれないが、森川の作品を読むたびに「夏の●」を思い出してしまう。そこにあるのは視力だけであって肉体ではないと思ってしまう。

光は確かに右斜め上方からも射し
まだ明けない山肌のおうとつをかすかに浮かびあがらせ
光源として山間に現われる阿弥陀如来の光沢に
一人の絵師の筆の動く意志を思い
遠景に輝く明け方の太陽をじっと見つめ
眼をえぐる補色の欠片とゆっくり染みわたる温みと
視覚のネガに遅延する鈍い痛みがはびこり

 作品はまだまだつづくのだが、どこまで引用すればいいのかわからない。おさえるところが押えられていない。「夏の●」でいえば「幻」と書こうとしたのか「幼」と書こうとしたのか、眼のあいまいな記憶によって肉体の押さえが中途半端になっている。眼と肉体が一体となっていない。肉体はまったく動かず、視力だけがさまよっている。視力を制御する肉体が欠落している。

一人の絵師の筆の動く意志を思い

とは、絵師が筆を動かしたときの腕の動きだけではなく、全身の肉体を感じ取ることだが、森川の作品を読むと、絵師が動かす腕の動きさえ伝わってこない。その動きが肉体にどんな影響を与えたのか、さっぱりわからない。
 「眼をえぐる補色の欠片」「視覚のネガに遅延する鈍い痛み」。こうしたことばを読むと、森川は目さえもつかっていないような気がしてくる。目ではなく「脳」で対象を見ている。たとえば「補色」という固有の色はない。「補色」というものが存在するにはそれに先立つ色があり、その色と混ざると黒になってしまう色があり、その関係を「補色」という。「補色」とは「関係」をあらわすことばだ。「関係」は肉眼では見えない。「脳」が「関係」を判断し、それにことばを「定義」として与える。「肉眼」に「ネガ」などというものももちろんない。肉眼をカメラ(フィルムカメラ)と想定し、映像を定着させる装置としてフィルムを想定し、さらにはそこからポジに転写するという「映像化」の構造を想定しなければ「ネガ」というものなど存在し得ない。「ネガ」という比喩は「脳」がつくりだしたものである。
 「山越」は何と読むのかわからない。だが

法然上人さんや、藤原道長さんや
死んだ友人も歩き
のぼる山の地形はけわしく
裸の足から岩肌に血がにじんでいく

という行を読むかぎり、この作品は山を歩いて越えるときのことを書いているのだと思うが、「裸の足から岩肌に血がにじんでいく」ということばのわりには肉体がまったく感じられない。山をのぼるときの肉体、その疲れが感じられない。ここでも、描かれているのは視力の風景であり、しかもそれは「脳」の見た風景であって肉眼が見た風景ではない。岩肌に血がにじむというような風景は肉眼では見ることができない。「脳」にしか見ることができない。そして、その「脳」がそういう風景を見るためには、「脳」がもっともっと肉体に犯され、「脳」の働きが停止してしまわなければならない。岩肌に血がにじむはずがないという判断ができなくなるくらい「脳」が空っぽになったときにはじめて「岩肌に血がにじんでいく」ということばが生まれる。「のぼる山の地形はけわしく」などと冷静に、というか、なめきった判断ができるあいだは、「脳」は空っぽではない。

 視力の問題点は、森川の書いた冒頭によくあらわれている。視力は直接対象には触れない。触覚が対象に触れることで互いに浸透する。(「裸の足から岩肌に血がにじんでいく」ということばが特徴的だが、それは触覚が引き起こす「錯覚」、「脳」が判断停止することによって、「脳」が勘違いすることがらだ)。視覚はつるつる、すべすべ、ごつごつに触れても肉体的には何の変化もない。すべらない。ひっかからない。つまり、おなじスピードで動いていく。近くも遠くも自在に動いていく。肉体を置き去りにして動いていく。そのために、どこを押えなければ間違ってしまうのかという判断がおろそかになる。
 実際に山を越えるなら、足の一歩一歩は、そこにある一個の石に対しても足先で踏むべきか、踵で踏むべきか、あるいは踏まずに越えるべきかということをいちいち判断しなければならない。判断が間違えばけがをする。
 視力だけで山を越えるとき(視力による想像登山の場合)、そういう恐れはない。
 恐れはないが、それを読む読者の側から言えば、これはいったい何?という疑問が沸き起こる。「夏の●」とおなじである。「幻」という文字が正確でないのは、それが肉体として把握されていないからである。肉体として表現されていないからである。

一人の絵師の筆の動く意志を思い

 という行を借りて言えば、「夏の●」と書いた佐藤の筆を動かす意志は、肉体の押さえどころを勘違いしている。「夏の●」からは、だから、「意志」(精神)がつたわってこない。同じことを森川の作品からも感じた。視覚だけがともどもなく右往左往するが、その右往左往は肉体と結びつかない。単なる右往左往にしか見えない。



 同じ「脳」を旅する作品として、たとえばきのう取り上げた松下育男と比較すれば、松下のことばの方がはるかに肉体として浮かび上がってくる。
 「国語」の「1」の3連目。

端というのは、そのものの終わりの部分です。そのものと、そのものでないものとの、境目です。そのものが、そのものでないものへ、滝のように落ち込んでいるところです。ごうごうと水しぶきをあげて、そのものが落ち込んでゆくところです。

 ここには実際に滝を見たときの肉眼がある。耳がある。肉体の感じた恐怖のようなものがある。
 「脳」は肉体でなければならない。



コメント (4)
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