詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

エンリケ・コルタサル「越境」、パスカル・ペティット「父の身体」

2006-09-04 23:11:26 | 詩集
 エンリケ・コルタサル「越境」越川芳明訳(「現代詩手帖」9月号)。
 パスカル・ペティットの作品を読んだあと、エンリケ・コルタサルの作品を読むと不思議な気持ちになる。人にはけっして消し去れない思い出がある。幸福を私たちはけっして忘れることができない。そして、その幸福な思い出が私たちを苦しめる。
 「越境」の最後の部分。

何も 何も持ってません
違法品は何も
わたしが持ってきたのは
息子たちが跳ねまわる村の夕べ
わたしが持ってきたのは
大きな苦痛 棘のような沈黙と
帰郷への思いです
それだけです ほかには何も
持ってきていません

 この「思い出」は、それがここにないがゆえに切ない。「帰郷」とは単にふるさとへ帰ることではなく、「思い出」のふるさとへ、祖国へ帰ることである。

 と、ここまで書いて、私は、急にパスカル・ペティットを読み返したくなった。エンリケ・コルタサルについて書こうとしていたのだが、ちょっとそれはどうでもいい気持ちになってしまった。

 エンリケ・コルタサルの「思い出」は、それが「いま」「ここ」に存在しないことによって引き起こされる。祖国、なつかしい村は「いま」「ここ」にない。だからこそ「帰郷」への思いがわきあがる。彼を苦しめる。彼の意識は、「いま」「ここ」から、遠い祖国、村へと動いていく。動いていくのに、肉体はそこへ動いていかない。動いていけない。それが彼の悲しみだ。彼の悲しみは、彼の肉体が原因で起きるのではなく、彼が存在している「場」が引き起こす悲しみである。自分の力ではどうすることもできない「場」の絶対的なありようが引き起こす感情である。
 パスカル・ペティットの「思い出」は、それとは少し違う。
 父が母を強姦して彼女は生まれた。その「記憶」は突然外部からやってくる。そして彼女をのっとってしまう。自分のものではない「記憶」「思い出」あるいは「事実」が彼女の外からやってきて、むりやり彼女の「記憶」「思い出」になってしまうのだ。
 「場」は関係ない。どこへ行こうと、何に出会おうと、それは「記憶」をひっかきまわすのである。彼女の肉体が「場」である。それはほかの誰のものでもない。彼女の肉体である。彼女の肉体を誰もかわってやることはできない。それがひっかきまわされる。
 そこから始まる感情が悲しみであるか、憎しみであるか、それとも喜びなのかわからない。
 たとえば「父の身体」(熊谷ユリヤ訳、「現代詩手帖」9月号)。

お父さんが、かつて強姦者だった事実を知りながら、
こうして枕元に腰掛けて手を握っていると、
その頭を乾かして拳の大きさに縮めるだけでは
復讐としては不完全だと思ってしまう。

 父を首狩り族の「首」のように縮めてしまいたい欲望。その欲望・憎しみのなかで、強姦された結果生まれたという悲しみは、復讐の愉悦を味わう。それは想像のなかで「首狩り族」になって蛮行をおこなうという絶対に実行できないはずの愉悦である。それは実現されずに、ただ彼女の肉体のなか、精神のなか、感情のなかで、何かになろうとして蠢く。暴れ回る。「詩」ということばになる。「詩」になるしかない。
 「詩」とはことばにならないことばが、ことばにならないとわかっていながら、なおことばになろうと動き回るエネルギーであり、運動だ。
 なぜ、ことばになろうとして、ことばにならないのか。なれないのか。
 人間の肉体のなかで蠢いているのは、精神でも、感情でもない。肉体そのものだからである。肉体はことばをもたない。ことばをもたないのに、ことばになりたがる。ことばにならないと、肉体は、ことばになろうとする力によって破壊されてしまうのだと思う。ことばにならないまま、その定義不能なもの(悲しみ、絶望、憎しみ、喜びのいりまじった不定形のもの)を、むりやり吐き出すことでかろうじて肉体は存在しているのだ。
 パスカル・ペティットのことばは、精神・感情であるまえに、まず肉体なのだ。彼女は精神・感情を描いているように見えるが(強姦されて生まれた私という存在の精神的・感情的苦悩を描いているように見えるが)、本当は肉体そのものを描いている。精神として、あるいは感情として、問題と向き合っているわけではない。それは先に引用した行の2行目をよく読むとわかる。

こうして枕元に腰掛けて手を握っていると、

 「手を握る」。
 精神と精神、感情と感情が触れ合うかどうかは、実は、よくわからない。しかし肉体ではどうか。手を握る。そのとき父の存在は肉体としてゆるぎがない。父が何を考えているか、感じているか、あるいは彼女が何を考え、何を感じているかということを無視して、肉体は肉体と触れ合える。肉体の現実性は否定できない。
 そして肉体に触れてしまえば、人間は、他人を何らかの形で理解してしまうのだ。相手がどんな人間であれ、その人間の肉体の苦悩、痛みをわかってしまう。腹を抱えてうずくまる人間がいれば、彼が(彼女が)何を考えているか知らなくても(はじめてあった人間であっても)、その肉体の痛み、腹痛をわかってしまう。そしてそれを見るだけではなく、手で触れてしまえば、その瞬間から、他人の痛みなのに、その痛みを自分のものとして引き受けてしまうことになる。その痛みをなんとかしたいと思ってしまう。
 肉体が触れ合うことの危険と愉悦が、そこにある。
 ことばを肉体として感じていると思われるパスカル・ペティットなら、なおのこと、そんなふうになるだろうと思う。
 パスカル・ペティットは父親を首狩り族が「首」をつくるように、父親そのものをミニチュア化する夢と愉悦をことばにするが、その最終部分、

パパ人形を地面に横たえる。そうして、
子どもたちがひそひそ話をしながら人形を取り囲み、
ちっちゃな指に触るのをじっと見つめている。

 「手を握る」から「指に触る」までの変化は何をあらわすだろう。
 子どもが人形の指に触るように、父の手を握ることができたら。それはパスカル・ペティットの見果てぬ夢ではないだろうか。その見果てぬ夢にたどりつくまでには、パスカル・ペティットは私が引用しなかった部分に書かれている過激な首狩り族まがいの行動を、本当はことばではなく、肉体で実行しなければならない。そんなことは肉体では実行できない。だから、それはより激しく、パスカル・ペティットの肉体そのものを傷つけながら、なまなましい「詩」、ことばになりきれないことばとして、そこにむきだしのまま立ち上がってくるの。



 エンリケ・コルタサル「越境」、その透明な悲しみは、肉体が傷つかないことによる透明さなのかもしれない。祖国、ふるさとの村では、エンリケ・コルタサルはたぶん貧しさゆえに肉体が苦しんでいる。その肉体の苦しみ(空腹、病気など)からのがれて国境を越えた。そのときから肉体は苦しみから解放され、精神・感情が傷つき、望郷が始まるのかもしれない。
 肉体と精神、ことば。そのあり方がエンリケ・コルタサルとパスカル・ペティットではまったく対極にあると思う。

コメント
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