小杉元一「ゆらゆら揺れるは」(「EOS 」10)。
小杉も、きのう感想を書いた森川と同じように「視力」(視線)で詩を書いている。しかし、森川と違って「肉体」を感じる。視線が小杉の肉体から外へ出ていくだけではなく、小杉の肉体へと帰ってくるからである。
小杉が向き合ったもの、出会ったもの、それが揺れるとしたら(今まで見えていた存在と違って見えたらしたら)、それは何のせいだろうか。「らくだ」(それまで小杉が身を任せていたものとは違ったもの、小杉の「歴史」「時間」「日常」「他者との関係」と違ったもの--それを象徴として指し示しているのだと思う)のせいか。大地そのものが揺れているのか。そうではなくて、あくまで小杉の肉眼そのものが揺れているのだと小杉は判断する。肉体のなかに存在する「歴史」「時間」「日常」「他者との関係」といったものが不安定になり、つまり、「歴史」「時間」「日常」「他者との関係」が一緒になって小杉を支えてくれないので、小杉の肉眼そのものが揺れる。そして、見えるものがすべて、ゆらゆらと不定形になり、小杉の肉体に迫ってくる。
小杉は、いま、ソウルの地下鉄に乗っている。そこでは知らない人が小杉の肉体に迫ってくる。どう向き合っていいのか、小杉にはわからない。
森川の作品からは「汗」を感じることができなかったが、小杉の作品からは「汗」を感じる。冷たい汗だ。「わたしだってこおりついていた」という行の内側を、その肉体の内側にはりついた冷たい汗を感じる。そして、その冷たい汗は乗客によって共有されている。その行に先立つ1行。
「眼をそらす」という肉体の動き。肉体の動きを見ると、ひとは、それが自分の感情でもないのに、他人の感情を自分の感情として感じてしまう。肉体の動きを見ると、他人が何を感じているかわかってしまう。肉眼が肉体を見るとき、どうしてもそういうことが起きてしまう。肉眼は他人の感覚を感じ取り、それが自分の肉体にまで反響してしまう。その結果が、
なのだ。肉眼はかならず肉体に跳ね返ってくる。跳ね返ることで、より肉眼になる。「頭」(脳)で、そんなふうに「あわわてて眼をそら」すことが正しくないとか正しいとか批判しても何も始まらない。そこから「思想」は生まれない。「あわてて眼をそら」し、「こおりついていた」と自覚すること、そのときの肉体の感じを、肉体がなじむまで(肉体が納得するまで)抱き続けること--そこからしか「思想」は始まらない。他者と共有できることばは、そこからしか始まらない。
今は、それしか言えない。それしか言えないけれど、それしか言えないということをきちんとことばにする--それが「思想」の第一歩だと思う。
詩はつづく。
確かにどこへ行っても肉眼が見るものは「見える」ものだけ。見えるものを見ているだけ。その奥にあるものを肉眼はけっして見ることはできない。しかし、いったん、見えるものを見ただけであるのに「こおりついた」肉体の記憶は、その「見えるもの」の向こうに何かがあると肉体で知っている。だから、「見るものは見えるものだけ」と言いながらも、肉眼の奥の「思想の眼」は、「ここではないどこか」を見つめ始めている。
その「ここではないどこか」とは何か。
小杉の肉体をつくっている「歴史」「時間」「日常」「他者との関係」というようなもの、つまり「思想」あるいは「哲学」を見つめている。
ここから「思想」は始まる。そして、その「思想」は簡単には「答え」を出せない。この詩は
と最初の状態に戻っておわるが、ここにも深い「思想」がうかがえる。「思想」の「答え」は簡単にはでない。たいていは「寄り道」として肉体に蓄積されるだけ、肉体の奥にしまいこまれるだけである。だからこそ、それは「ことば」にして残さなければならない。残したとき、そこに「詩」が静かに存在しはじめる。
小杉も、きのう感想を書いた森川と同じように「視力」(視線)で詩を書いている。しかし、森川と違って「肉体」を感じる。視線が小杉の肉体から外へ出ていくだけではなく、小杉の肉体へと帰ってくるからである。
(らくだは半眼のまま立ち上がる
ゆらゆら揺れるはらくだの背?
それとも大地?
いえいえゆらゆら揺れるはわたしの眼ばかり)
小杉が向き合ったもの、出会ったもの、それが揺れるとしたら(今まで見えていた存在と違って見えたらしたら)、それは何のせいだろうか。「らくだ」(それまで小杉が身を任せていたものとは違ったもの、小杉の「歴史」「時間」「日常」「他者との関係」と違ったもの--それを象徴として指し示しているのだと思う)のせいか。大地そのものが揺れているのか。そうではなくて、あくまで小杉の肉眼そのものが揺れているのだと小杉は判断する。肉体のなかに存在する「歴史」「時間」「日常」「他者との関係」といったものが不安定になり、つまり、「歴史」「時間」「日常」「他者との関係」が一緒になって小杉を支えてくれないので、小杉の肉眼そのものが揺れる。そして、見えるものがすべて、ゆらゆらと不定形になり、小杉の肉体に迫ってくる。
小杉は、いま、ソウルの地下鉄に乗っている。そこでは知らない人が小杉の肉体に迫ってくる。どう向き合っていいのか、小杉にはわからない。
やってきたのは眼の見えないちいさなハルモニ
杖で床を探り
片手で笊をつきだして
じょうずにバランスをとりながら
ふわふわ歩いてくる
笊にはいくらかの紙幣と硬貨が入っていて
座席から飛び跳ね
恥ずかしそうに
少年がひとり硬貨を入れる
ひとびとはあわてて眼をそらしているが
わたしだってこおりついていた
見えるものを見ていただけなのに
森川の作品からは「汗」を感じることができなかったが、小杉の作品からは「汗」を感じる。冷たい汗だ。「わたしだってこおりついていた」という行の内側を、その肉体の内側にはりついた冷たい汗を感じる。そして、その冷たい汗は乗客によって共有されている。その行に先立つ1行。
ひとびとはあわてて眼をそらしているが
「眼をそらす」という肉体の動き。肉体の動きを見ると、ひとは、それが自分の感情でもないのに、他人の感情を自分の感情として感じてしまう。肉体の動きを見ると、他人が何を感じているかわかってしまう。肉眼が肉体を見るとき、どうしてもそういうことが起きてしまう。肉眼は他人の感覚を感じ取り、それが自分の肉体にまで反響してしまう。その結果が、
わたしだってこおりついていた
なのだ。肉眼はかならず肉体に跳ね返ってくる。跳ね返ることで、より肉眼になる。「頭」(脳)で、そんなふうに「あわわてて眼をそら」すことが正しくないとか正しいとか批判しても何も始まらない。そこから「思想」は生まれない。「あわてて眼をそら」し、「こおりついていた」と自覚すること、そのときの肉体の感じを、肉体がなじむまで(肉体が納得するまで)抱き続けること--そこからしか「思想」は始まらない。他者と共有できることばは、そこからしか始まらない。
見えるものを見ていただけなのに
今は、それしか言えない。それしか言えないけれど、それしか言えないということをきちんとことばにする--それが「思想」の第一歩だと思う。
詩はつづく。
そして左右にゆれながら
通り過ぎ
車両から車両をまたぎながらゆっくりと
折れ曲がる闇に消えてゆく
ハルモニのとうめいなうしろすがた
吊り革は列になりおおきく揺れていて
(らくだはおもしろそうに口をうごかす
どこへいっても
見えるものは見えるだけ
らくだはここではないどこかを見つめている)
確かにどこへ行っても肉眼が見るものは「見える」ものだけ。見えるものを見ているだけ。その奥にあるものを肉眼はけっして見ることはできない。しかし、いったん、見えるものを見ただけであるのに「こおりついた」肉体の記憶は、その「見えるもの」の向こうに何かがあると肉体で知っている。だから、「見るものは見えるものだけ」と言いながらも、肉眼の奥の「思想の眼」は、「ここではないどこか」を見つめ始めている。
その「ここではないどこか」とは何か。
小杉の肉体をつくっている「歴史」「時間」「日常」「他者との関係」というようなもの、つまり「思想」あるいは「哲学」を見つめている。
ここから「思想」は始まる。そして、その「思想」は簡単には「答え」を出せない。この詩は
(水を揺らしてらくだは歩きはじめる
ゆらゆら揺れるはらくだの背?
それとも大地?
いえいえゆらゆら揺れるはわたしの眼ばかり)
と最初の状態に戻っておわるが、ここにも深い「思想」がうかがえる。「思想」の「答え」は簡単にはでない。たいていは「寄り道」として肉体に蓄積されるだけ、肉体の奥にしまいこまれるだけである。だからこそ、それは「ことば」にして残さなければならない。残したとき、そこに「詩」が静かに存在しはじめる。