野村喜和夫『スペクタクル あるいは生という小さな毬』『スペクタクル そして最後の三分間』(思潮社)。
この2冊組の詩集にはわかりやすさとわかりにくさが同居している。たとえば、それぞれの冒頭の詩。「第一番(スペクタクル)」と「第二十六番(スペクタクル)」。
このふたつの作品は共通することばを持っている。こうしたことは非常にわかりやすい。しかし、なぜこうした共通のことばをつかった作品を、それぞれの冒頭に掲げたのかということはわかりにくい。(この詩集の感想の1回目に触れた作品に共通することばをもった作品が「第四十九番」に出てくるが、それもことばが共通しているということはわかりやすいが、なぜ共通したことばをつかって作品を書いているのかはわかりにくい。)なぜ共通のことばをもった作品を書いたのか、類似の作品を書いたのかということは、野村には自明なことであり、自分自身に対して説明する必要がない。そして実際に説明しない。だから、わかりにくい。
しかし、わかりにくいところにこそ、実は作者の「思想」がある。筆者には自明であり、説明不要な、つまり詩人の肉体になってしまっている思想、ことばを決して必要としないほど体にしみついた思想がある。
それを探る手がかりはどこにあるだろうか。それぞれの3行目に私は注目した。
この2行には大きな違いがある。「器官」をあいだに挟んで考えればわかりやすくなるが、第一番は器官以前のもの、第二十六番は器官を超越したものである。未成熟な器官-器官-超越した器官。そういう運動が第一番から第二十六番のあいだでおこなわれているのである。
昨日、「第三十七番」について触れたとき、野村のことばの運動が根源から超越へという「現代詩」の運動のなかにぴったり重なると指摘したが、ここでも同じことが指摘できる。未成熟な器官と私が仮に呼んだものは、実は器官として生成する前の器官のことである。根源としての器官のことである。根源からある運動を通して器官が生成され、その器官は運動を通して器官を超越する。
野村のことばは、ことば以前のことば(根源、混沌)から、ことばとして生成し、そしてことばを超越するというベクトルのなかで運動する。野村はそういう運動をことばのなかで表現しようとしているのである。
根源(混沌、生成以前)→生成→超越。
これが野村の「思想」である。野村にとっては、そういう運動をことば自身のなかで具現化することが「詩」である。そういうことは、野村は、他人に対して言う必要がない。そういう運動を目指すということが、野村が現代詩から学び、身につけた思想であり、野村は、他の詩人たちもそれを目指していると信じきっている。というか、詩とはそういうものであるとしか考えられないのだと思う。
作品に戻る。「第一番」と「第二十六番」。そのふたつの作品のあいだには、「器官」のほかにもう一つ大きな違いがある。
「空隙」と「ひと」の関係が第一番と第二十六番では逆になっている。空隙→ひと→空隙。これは根源(混沌)→器官→超越と重なり合う。重なり合うことを言いたくて野村は書いている。そして、「空隙→ひと→空隙」と「根源→器官→超越」が同じことなら、「根源→器官→超越」の「根源」と「超越」はイコールのものである。「根源→器官→超越」は「根源→器官→根源」となり、それは永遠に繰り返される。つまり、「根源→器官→超越(根源)→器官→超越(根源)」という具合に。
「第一番」と「第二十六番」が共通のことばを持って繰り返される。差異を含みながら繰り返される。その理由はここにある。
「根源(混沌)→器官→超越」は繰り返されることで、その運動が明確になる。その運動を明確にするために繰り返しが必要である。ただし、その繰り返しには必ず「差異」が含まれる。そうした「思想」を明確にするために、「第一番」「第二十六番」は、あえて似た姿で書かれているのである。
この繰り返し、繰り返しによる「思想」の表明をどう読むか。
私はこれを野村の「現代詩継承宣言」として読んだ。
「現代詩」のことばの運動は根源→超越という世界を抱え込んでいる。野村は、そうした現代詩のことばの運動の歴史を受け継ぎ、さらに発展させるという決意の表明として読んだ。
「浦の苫屋」「鴫立つ沢」という古典のことば。そういうものが「現代詩」にもあるだろう。そして、その古典的「現代詩」では囲いきれないものが現代にはある。「空隙」があるだろう。そこから野村は「詩」の世界へ生まれ出て、生まれ出ることによって新たな「空隙」をつくる。そうやって「現代詩」を発展させたいと願っている。
そういう野村の「思想」がとても鮮明に出た詩集である。
この2冊組の詩集にはわかりやすさとわかりにくさが同居している。たとえば、それぞれの冒頭の詩。「第一番(スペクタクル)」と「第二十六番(スペクタクル)」。
眼(眼よりも大きな
あるいは弱い
器官(ともいえない器官(を通して
私はみようとしていた
スペクタクル
夕まぐれの
浦の苫屋の
ように板(板が立てられ
また板が立てられ
その空隙からひと(ひとが
絶え間なくうまれ出るさまを
ひと(ひとが筋や繊維にはじけて
ぴきつ
血は流れないさまを
スペクタクル
スペクタクル
私はみようとしていた (「第一番」)
眼(眼よりも深い
あるいは遠い
器官(をも超えた器官(を通して
なおも
私はみようとしていた
みなければ
器官は消え(みたとしても
器官は鍛えられぬ(にもかかわらず
みようとしていた
スペクタクル
夕まぐれの
鴫立つ沢の
ように板(板がたおれ
また板がたおれ
入れ替わりにひと(ひとが
絶え間なく空隙に成り変わるさまを
おお声と文字のつまったひと(ひとという空隙から
なおもうっすら(肉頭のように
にくあたまにくあたまにくあたま
べつの空隙(空隙が抜け
あらわれるさまを
スペクタクル
スペクタクル
私はみようとしていた (「第二十六番」)
このふたつの作品は共通することばを持っている。こうしたことは非常にわかりやすい。しかし、なぜこうした共通のことばをつかった作品を、それぞれの冒頭に掲げたのかということはわかりにくい。(この詩集の感想の1回目に触れた作品に共通することばをもった作品が「第四十九番」に出てくるが、それもことばが共通しているということはわかりやすいが、なぜ共通したことばをつかって作品を書いているのかはわかりにくい。)なぜ共通のことばをもった作品を書いたのか、類似の作品を書いたのかということは、野村には自明なことであり、自分自身に対して説明する必要がない。そして実際に説明しない。だから、わかりにくい。
しかし、わかりにくいところにこそ、実は作者の「思想」がある。筆者には自明であり、説明不要な、つまり詩人の肉体になってしまっている思想、ことばを決して必要としないほど体にしみついた思想がある。
それを探る手がかりはどこにあるだろうか。それぞれの3行目に私は注目した。
器官(ともいえいな器官(を通して
(「第一番」)
器官(をも超えた器官(を通して
(「第二十六番」)
この2行には大きな違いがある。「器官」をあいだに挟んで考えればわかりやすくなるが、第一番は器官以前のもの、第二十六番は器官を超越したものである。未成熟な器官-器官-超越した器官。そういう運動が第一番から第二十六番のあいだでおこなわれているのである。
昨日、「第三十七番」について触れたとき、野村のことばの運動が根源から超越へという「現代詩」の運動のなかにぴったり重なると指摘したが、ここでも同じことが指摘できる。未成熟な器官と私が仮に呼んだものは、実は器官として生成する前の器官のことである。根源としての器官のことである。根源からある運動を通して器官が生成され、その器官は運動を通して器官を超越する。
野村のことばは、ことば以前のことば(根源、混沌)から、ことばとして生成し、そしてことばを超越するというベクトルのなかで運動する。野村はそういう運動をことばのなかで表現しようとしているのである。
根源(混沌、生成以前)→生成→超越。
これが野村の「思想」である。野村にとっては、そういう運動をことば自身のなかで具現化することが「詩」である。そういうことは、野村は、他人に対して言う必要がない。そういう運動を目指すということが、野村が現代詩から学び、身につけた思想であり、野村は、他の詩人たちもそれを目指していると信じきっている。というか、詩とはそういうものであるとしか考えられないのだと思う。
作品に戻る。「第一番」と「第二十六番」。そのふたつの作品のあいだには、「器官」のほかにもう一つ大きな違いがある。
また板が立てられ
その空隙からひと(ひとが
絶え間なくうまれ出るさまを
(「第一番」)
また板がたおれ
入れ替わりにひと(ひとが
絶え間なく空隙に成り変わるさまを
(「第二十六番」)
「空隙」と「ひと」の関係が第一番と第二十六番では逆になっている。空隙→ひと→空隙。これは根源(混沌)→器官→超越と重なり合う。重なり合うことを言いたくて野村は書いている。そして、「空隙→ひと→空隙」と「根源→器官→超越」が同じことなら、「根源→器官→超越」の「根源」と「超越」はイコールのものである。「根源→器官→超越」は「根源→器官→根源」となり、それは永遠に繰り返される。つまり、「根源→器官→超越(根源)→器官→超越(根源)」という具合に。
「第一番」と「第二十六番」が共通のことばを持って繰り返される。差異を含みながら繰り返される。その理由はここにある。
「根源(混沌)→器官→超越」は繰り返されることで、その運動が明確になる。その運動を明確にするために繰り返しが必要である。ただし、その繰り返しには必ず「差異」が含まれる。そうした「思想」を明確にするために、「第一番」「第二十六番」は、あえて似た姿で書かれているのである。
この繰り返し、繰り返しによる「思想」の表明をどう読むか。
私はこれを野村の「現代詩継承宣言」として読んだ。
「現代詩」のことばの運動は根源→超越という世界を抱え込んでいる。野村は、そうした現代詩のことばの運動の歴史を受け継ぎ、さらに発展させるという決意の表明として読んだ。
「浦の苫屋」「鴫立つ沢」という古典のことば。そういうものが「現代詩」にもあるだろう。そして、その古典的「現代詩」では囲いきれないものが現代にはある。「空隙」があるだろう。そこから野村は「詩」の世界へ生まれ出て、生まれ出ることによって新たな「空隙」をつくる。そうやって「現代詩」を発展させたいと願っている。
そういう野村の「思想」がとても鮮明に出た詩集である。