詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

 瀬尾育生「極東」

2006-09-27 15:12:26 | 詩集
 瀬尾育生「極東」(「現代詩手帖」9月号)。
 詩を読んだとき私をひきつけるものはいくつかあるが、そのひとつはリズムの一貫性である。もうひとつは対象とことばの距離の一定感である。これはもしかするとおなじものかもしれないが……。
 瀬尾の作品にはいつもそのふたつがある。

組成される最初の塵たちから分泌された物語が均質な時間のなかに配布されたあとで、背後から捕捉する振動を後方に向かってプロジェクトする別の物語を呼び起こす置換のための語法は、

 引用した文章の「主語」は末尾の「語法」であり、それ以前のことばはすべて「語法」を修飾するためのことばである。そして、主語「語法は」の述語はここには書かれていない。何も書かれていない。
 そして書かれていないことがこの詩を成立させている。述語の選択は読者に任されている。どうやって述語を自分のことばの倉庫から引き出すか、引き出しながら瀬尾のことばに向き合うか。瀬尾のことばを借りて言えば、どうやって瀬尾が引き起こすことばの振動に対処しながら自分のことばを物語として組み立てるか、組成するか、そういうことが要求されている。
 この書き出しは書き出しだけで詩なのである。あとにどんなことばがつづこうと関係がない。ただし、条件がある。「均質な時間」ということばが作品のなかにあるが、瀬尾のことばの均質なリズム、均質な距離感でことばを探し出すとき、そこに均質な時間があらわれ、瀬尾のことばに向き合える。そうした条件に合えさえすれば、すべてが「詩」になる。
 これは簡単なようでなかなか難しい。
 瀬尾のことばは、いくつかの矛盾というか、逆のベクトルをひとつづきのことばのなかに抱えこんでいて、その拮抗する「別」方向(これを瀬尾は「別の物語」と書いているが……)がおのずと時間、空間を立体化させる性質のものであるからだ。ひとつの決まった方向ではなく、常に先行する方向にあらがうベクトル。均質(拮抗)は、そのあらがいのなかにこそあるからである。

 2連目以降は、瀬尾自身がサンプルとして掲げた複数の「述語」として読むことができる。2連目以降のことばはそのままつづけて「物語」として読むこともできるが、むしろ、常に1連目へ引き返しながら独立した「物語」として読んだ方が、「振動」が引き起こすさまざまなバリエーション(複数の世界)として楽しむことができるだろう。
 そして、そのバリエーション、あるいは複数を複数のまま、1連目の主語に結びつける(粘着させるといった方がいいかもしれない)とき、瀬尾のことばの力業の、その力そのものが、よりくっきりと伝わってくるように思える。
 瀬尾は、ことばを動かす筋肉、ことばの肉体そのものを、ことばというより肉体として提出している。肉体の動きはとてもおもしろい。ある動きをするときは肉体のなかに常に逆向きのものがある。走るとき、右足を前に出せば左足は後ろへ押しだされる。そういうものがバランスをとって一連の動きが完成する。それに似た、ことばそのものの肉体の動き--それを、粘着力のある文体で瀬尾は描き出そうとしているのだと思う。
 「物語」ということばが出で来るが、瀬尾が書いているのは「物語」そのものではなく、「物語」を生み出すことばの筋肉、ことばの肉体のありかたである。ことばの肉体さえ提出すれば、おのずと「物語」はついてくる。まず「ことばの肉体」がある。
 「詩」とは「ことばの肉体である」、と瀬尾は考えているように思える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする