「鰐組」217 を読む。巻頭に、吉田義昭「私の慣性」。
この作品は「怠け者」である私を弁護するために「慣性の法則」を持ち出している。その文体に一定のリズム、正確さがあるので、落ち着いて読むことができる。吉田は注釈に「慣性とはギリシャ語の『も気ぐさ』という単語から出た言葉」と書いている。できれば、そういうニュアンスを注釈ではなく、本文中に書き込んでほしい。そうでないと、なんだかだまされた気持ちになる。文体の清潔さとは相反する注釈の仕方である。
仲山清の「すはだに木綿のきみが」を書いている。
「木綿」と「もめん」。「もめん」から先は、映画のスローモーションのように、人込みのなかで倒れる瞬間が描写される。「もめん」という表記は、実は、ここから先は「木綿」を「もめん」と分解して書いたような世界なのだよ、と知らせる「キイワード」である。「木綿」と「もめん」の違いを読み落としたところで、「もめん」以後の世界がかわるわけではないが、気がついた方が楽しく読むことができるだろう。
このスローモーションの描写には「わたし」が登場する。「きみ」が「わたし」にかわり、再び「きみ」へと交代する。こうした交代はしばしば読みにくいものだが、この作品ではとてもおもしろい。
「わたし」の部分の文体が前後の文体とまったく違っているからである。
この鮮やかな文体の切り替えかあるために、この詩は楽しいものになっている。同時に、こうした文体の切り替えを読んでいると、仲山という詩人は、体質として詩人というより小説家(散文家)としての才能の方があるのでは、と思ってしまう。
引用した「わたし」の部分の方が他の「地の文」よりも詩的であるのは一種の皮肉のようにさえ思えてしまう。
地の文はかなり粘着質が高く、これをそのまま散文として読むのはつらい感じもしないではないけれど、それでもなおかつ、「わたし」と「きみ」の切り替え、そのなかでの文体の切り替えという操作を読むと、仲山は複数の人が違った文体で生きる「小説」の書き手だと思うのである。
坂多宝子「ヤギ」。(「宝」はウ冠の上の部分が「火」が二つ、文字が表記できないので、代用しました)
詩はこのあともつづくのだが、「ヤギ」が何であるか(何の象徴であるか)説明はない。その説明がないことが、この詩の美しさになっている。吉田が「慣性」を説明したように「注釈」をつけると、この詩は破綻する。詩には、わからない、ということも重要な要素である。「ヤギ」がなんであるかわからなくても、坂多が「不条理」と向き合っていることはわかる。不条理と向き合っているといことさえわかればそれでいい。説明がない美しさとは、自己弁護がない美しさである。
ここに一つの物体があります。
その物体を質量のある私の肉体とします。
物体はいつも怠け者で止まっているなら止まったまま、
動いているならそのままの状態をつづけるものであると、
私がこの法則を私の生涯の運動量に当てはめた時、
慣性に気づいたガリレオから、
慣性を法則に導いたニュートンまで、
時代を超えて身近な友人のように感じました。
この作品は「怠け者」である私を弁護するために「慣性の法則」を持ち出している。その文体に一定のリズム、正確さがあるので、落ち着いて読むことができる。吉田は注釈に「慣性とはギリシャ語の『も気ぐさ』という単語から出た言葉」と書いている。できれば、そういうニュアンスを注釈ではなく、本文中に書き込んでほしい。そうでないと、なんだかだまされた気持ちになる。文体の清潔さとは相反する注釈の仕方である。
仲山清の「すはだに木綿のきみが」を書いている。
ついにきみにも背後の人にわかれを告げるときがくる
いつにもまして すはだの木綿がなじみ
汗がひときわにおう
こちらの世界ではすでにもめんがたたかっている
「木綿」と「もめん」。「もめん」から先は、映画のスローモーションのように、人込みのなかで倒れる瞬間が描写される。「もめん」という表記は、実は、ここから先は「木綿」を「もめん」と分解して書いたような世界なのだよ、と知らせる「キイワード」である。「木綿」と「もめん」の違いを読み落としたところで、「もめん」以後の世界がかわるわけではないが、気がついた方が楽しく読むことができるだろう。
このスローモーションの描写には「わたし」が登場する。「きみ」が「わたし」にかわり、再び「きみ」へと交代する。こうした交代はしばしば読みにくいものだが、この作品ではとてもおもしろい。
「わたし」の部分の文体が前後の文体とまったく違っているからである。
あ、ゴムのカエル
おばかさんの弟がだいじにしているゴムのカエル
あれににているけれど
お尻にホースなんかついていないし
もちろんレモンのかたちのポンプもない
でも どうしてわたしがカエルなの
この鮮やかな文体の切り替えかあるために、この詩は楽しいものになっている。同時に、こうした文体の切り替えを読んでいると、仲山という詩人は、体質として詩人というより小説家(散文家)としての才能の方があるのでは、と思ってしまう。
引用した「わたし」の部分の方が他の「地の文」よりも詩的であるのは一種の皮肉のようにさえ思えてしまう。
地の文はかなり粘着質が高く、これをそのまま散文として読むのはつらい感じもしないではないけれど、それでもなおかつ、「わたし」と「きみ」の切り替え、そのなかでの文体の切り替えという操作を読むと、仲山は複数の人が違った文体で生きる「小説」の書き手だと思うのである。
坂多宝子「ヤギ」。(「宝」はウ冠の上の部分が「火」が二つ、文字が表記できないので、代用しました)
スーパーの袋をかかえて
帰ってきたら
アパートの前に
やせこけたヤギがいる
いそいで
部屋に戻らなければならないのに
うす目をあけて
私を見ている
パンをやる
食べない
牛乳をやる
無理に食べさせようとすると
悲鳴をあげる
詩はこのあともつづくのだが、「ヤギ」が何であるか(何の象徴であるか)説明はない。その説明がないことが、この詩の美しさになっている。吉田が「慣性」を説明したように「注釈」をつけると、この詩は破綻する。詩には、わからない、ということも重要な要素である。「ヤギ」がなんであるかわからなくても、坂多が「不条理」と向き合っていることはわかる。不条理と向き合っているといことさえわかればそれでいい。説明がない美しさとは、自己弁護がない美しさである。