新藤凉子、高橋順子『地球一周航海ものがたり』(思潮社)。
6月13日の日記に「新藤の方が好奇心が強く、視線が内から外へ外へと向かうのに対し、高橋の視線は外から内へ帰ってくる。」と書いた。新藤の後書に
私は外側を書き、順子さんは内面を受け持たざるを得なかったと思う。
と書いている。私は「後書」というものをめったに読まないのだが、偶然に読んで、その文章を見たとき、何だか不思議な気持ちがした。
私はあまのじゃくなので、作者がそういうのなら、ちょっと違った点を指摘してみたいという気持ちになった。新藤と高橋の外と内について、前回とは違った作品を取り上げて、私なりの補足をしてみたいという気持ちになった。内と外を膨らませてみたい気持ちになった。
新藤の作品で私が一番気に入ったのは「18」である。足首を捻挫した新藤が、キリマンジャロが見える丘にバスの運転手さんに助けられてのぼったときの作品である。その後半部分。
新藤は夫(古屋)が友人たちに見せてくれたキリマンジャロを自分もみたいと願い丘に登る。しかしキリマンジャロは見ることができなかった。見ることができなかったがゆえに、友人たちが語ってくれた思い出が強くよみがえる。そして見えないキリマンジャロを想像力のなかで見る。そのあと、
と一転して象を描く。
新藤はキリマンジャロのかわりに象を見たのだ。そしてその象を描くとき、新藤は象になりたいと願っているのだ。新藤のことばには、いつも、そこで見たもの、自分以外のものを描きながら、それになりたいという気持ちが含まれている。新藤の気持ちはそんなふうにして外へ外へと出ていく。
なぜ象になりたいのか。
象になってその平原で暮らせば、いつの日か必ず夫(古屋)が友人たちに見せたというキリマンジャロが見えるからである。キリマンジャロを見ながら暮らすことができるからである。
外へ外へと向かう視線、そして対象と一体になる視線。そのとき、その「一体感」のなかには愛が存在する。愛が存在するがゆえに、外へ外へと視線が向かいながら、実は新藤は新藤自身の内面を語ることにもなる。外部を描くからといって、そこに内部が存在しないわけではない。むしろ、外へ向かうという運動の起点としての内部をより印象づけることになる。
*
高橋の作品では「29」がとても印象に残った。高橋の内面への旅は、たとえば「23」の
とか、「25」の
というふうに、抽象的な形をとることが多いが、「23」では同じく抽象的ではあるけれど、少し違ったものがあらわれている。新藤が、高橋の連れ合いの車谷長吉のこわがりぶりをからかった詩(28)につづけて書かれたものである。
高橋はいつも精神を、こころを描く。それは「わたしの中の物でない部分」と呼べるかもしれない。その高橋がここでは「わたしの中の物である部分」を発見している。わたしのなかには「物である部分」と「物でない部分」がある。
「物である部分」とはぜったいに精神ととけあってしまわないもの、こころととけあってしまわないもの、高橋にとっての「異物」のことだろう。それが、しかし、高橋を否定するようであって、実は高橋を豊かにする。
たとえば、高橋にとっての車谷。彼は高橋の精神ではないから高橋の思い通りにはならない。むしろ高橋の思いを裏切るようにして動くこともあるだろう。それでも高橋にとって精神・こころは存在する。高橋の何かが拒否されながらも、高橋は存在する。生きている。そういう生のあり方があるのである。
そして、拒絶にあい、否定にあいながら、実は、その拒否・否定の外部にというか、否定・拒否の届かない部分にも、実は精神・こころがあるということも知る。それは高橋の精神にとっての「外部」と呼ぶこともできる。その「外部」としての精神が車谷と呼応する。その呼応によって、あるいは呼応のたびに新しい高橋が生まれる。
高橋は単に内部へ内部へ旅するのではなく、内部にある「外部」に向けて旅をする。そして、その「外部」を「物」としてつつみこむ。つつみこめるように高橋の肉体そのものを大きく広げる。大きく育てる。つまり肉体として大きくなる。
*
この連詩に車谷は直接参加していない。しかし、深くかかわっている。
私は新藤の作品はそれほど多く読んでいないのでよくわからないのだが、この詩集に登場するように夫(古屋)は日常的に登場するのだろうか。この連詩に新藤が夫のことを書き込んだのも、車谷の存在が大きかったのではないだろうか。
どんな内部も外部も、自分とは異質なものの存在によって照らしだされる。そして、そこから自分をどうつくり直していくかということろに本当の旅があるのだとしたら、三人の旅は、たぶんこの詩集に残されていることば以上に豊かなものだったろうと思う。これからの三人の作品がより豊かになるときの出発点がここにあるかもしれない。
6月13日の日記に「新藤の方が好奇心が強く、視線が内から外へ外へと向かうのに対し、高橋の視線は外から内へ帰ってくる。」と書いた。新藤の後書に
私は外側を書き、順子さんは内面を受け持たざるを得なかったと思う。
と書いている。私は「後書」というものをめったに読まないのだが、偶然に読んで、その文章を見たとき、何だか不思議な気持ちがした。
私はあまのじゃくなので、作者がそういうのなら、ちょっと違った点を指摘してみたいという気持ちになった。新藤と高橋の外と内について、前回とは違った作品を取り上げて、私なりの補足をしてみたいという気持ちになった。内と外を膨らませてみたい気持ちになった。
新藤の作品で私が一番気に入ったのは「18」である。足首を捻挫した新藤が、キリマンジャロが見える丘にバスの運転手さんに助けられてのぼったときの作品である。その後半部分。
夫とわたしはよく旅行したが
アフリカが残っていた
人類の祖先はアフリカだったという説にひかされて
友人たちに呼びかけ 十数人集まったところで
夫は風邪を引いてしまった
皆が出発するときには
2ケ月寝込んだまま
本当に遠いところへ旅立ってしまった
アフリカに出発した友人たちは
飛行機のトラブルで待たされたとき
キリマンジャロが姿を現し
「あ、古屋さんが見せてくれた! 」と
叫んだそうだ
象よ 象よ 群れなして水を浴びていた象よ
新藤は夫(古屋)が友人たちに見せてくれたキリマンジャロを自分もみたいと願い丘に登る。しかしキリマンジャロは見ることができなかった。見ることができなかったがゆえに、友人たちが語ってくれた思い出が強くよみがえる。そして見えないキリマンジャロを想像力のなかで見る。そのあと、
象よ 象よ 群れなして水を浴びていた象よ
と一転して象を描く。
新藤はキリマンジャロのかわりに象を見たのだ。そしてその象を描くとき、新藤は象になりたいと願っているのだ。新藤のことばには、いつも、そこで見たもの、自分以外のものを描きながら、それになりたいという気持ちが含まれている。新藤の気持ちはそんなふうにして外へ外へと出ていく。
なぜ象になりたいのか。
象になってその平原で暮らせば、いつの日か必ず夫(古屋)が友人たちに見せたというキリマンジャロが見えるからである。キリマンジャロを見ながら暮らすことができるからである。
外へ外へと向かう視線、そして対象と一体になる視線。そのとき、その「一体感」のなかには愛が存在する。愛が存在するがゆえに、外へ外へと視線が向かいながら、実は新藤は新藤自身の内面を語ることにもなる。外部を描くからといって、そこに内部が存在しないわけではない。むしろ、外へ向かうという運動の起点としての内部をより印象づけることになる。
*
高橋の作品では「29」がとても印象に残った。高橋の内面への旅は、たとえば「23」の
わたしたちだけがこんなに祝福されていいものかどうか
一瞬浮かんだ問いを この胸が
ずっとおぼえていますように
とか、「25」の
あそこには自分はもういないということを
決定的に知らされるからだ
というふうに、抽象的な形をとることが多いが、「23」では同じく抽象的ではあるけれど、少し違ったものがあらわれている。新藤が、高橋の連れ合いの車谷長吉のこわがりぶりをからかった詩(28)につづけて書かれたものである。
恐怖はつまり外界へのはげしい拒絶感である
パゴダニア・フィヨルドを船がゆきときも
恐怖感はあった わたしにも
陸に近いところを走るとはいえ
もっもと狭いところで三百メートルの水路を
全長一九五メートル 幅二七メートル 喫水九メートルの物体が通過するわけだから
座礁する危険はないとはいえない
氷河のほかに見たものは
迫る岩山 苔 二艘の漁船 イルカのしっぽ 白い鳥 太陽
陸の生きものは絶えて見えない
人を拒む風景が連なっていたが
拒まれていることが あのとき心地よかったのはなぜか
わたしの中の物である部分が 物である風景にふかく
呼応したのかもしれなかった
高橋はいつも精神を、こころを描く。それは「わたしの中の物でない部分」と呼べるかもしれない。その高橋がここでは「わたしの中の物である部分」を発見している。わたしのなかには「物である部分」と「物でない部分」がある。
「物である部分」とはぜったいに精神ととけあってしまわないもの、こころととけあってしまわないもの、高橋にとっての「異物」のことだろう。それが、しかし、高橋を否定するようであって、実は高橋を豊かにする。
たとえば、高橋にとっての車谷。彼は高橋の精神ではないから高橋の思い通りにはならない。むしろ高橋の思いを裏切るようにして動くこともあるだろう。それでも高橋にとって精神・こころは存在する。高橋の何かが拒否されながらも、高橋は存在する。生きている。そういう生のあり方があるのである。
そして、拒絶にあい、否定にあいながら、実は、その拒否・否定の外部にというか、否定・拒否の届かない部分にも、実は精神・こころがあるということも知る。それは高橋の精神にとっての「外部」と呼ぶこともできる。その「外部」としての精神が車谷と呼応する。その呼応によって、あるいは呼応のたびに新しい高橋が生まれる。
高橋は単に内部へ内部へ旅するのではなく、内部にある「外部」に向けて旅をする。そして、その「外部」を「物」としてつつみこむ。つつみこめるように高橋の肉体そのものを大きく広げる。大きく育てる。つまり肉体として大きくなる。
*
この連詩に車谷は直接参加していない。しかし、深くかかわっている。
私は新藤の作品はそれほど多く読んでいないのでよくわからないのだが、この詩集に登場するように夫(古屋)は日常的に登場するのだろうか。この連詩に新藤が夫のことを書き込んだのも、車谷の存在が大きかったのではないだろうか。
どんな内部も外部も、自分とは異質なものの存在によって照らしだされる。そして、そこから自分をどうつくり直していくかということろに本当の旅があるのだとしたら、三人の旅は、たぶんこの詩集に残されていることば以上に豊かなものだったろうと思う。これからの三人の作品がより豊かになるときの出発点がここにあるかもしれない。