伊藤比呂美「せいたかあわだちそう」(「現代詩手帖」10月号)。
「現代詩手帖」10月号の特集「現代詩手帖賞を読む」の1篇。78年4月号の作品。投稿欄で読んだ記憶がある。「せいたかわあだちそう」というタイトル、そのひらがな表記と、次の行を鮮明に覚えている。
私は「あたしのにおいが残る」という行に惹かれた。同時に「性を所有してあるく人間たちと同じようにあたしはにおう」に何かいやなものを感じた。特に、その2行のあいだにはさまれた「そうあるべきではないのに」という行に非常にいやなものを感じた。
伊藤自身を他者から切り離してみつめる視線にいやなものを感じた。
だが、たぶん、そのとき私は誤読していたのだと思う。
伊藤は、この自己と他者を切り離した部分から、さらにいっそうその切り離しの距離を拡大していくのではなく、切り離しながら自分を出していく。自分を、切り離したはずの人間の方へつないでいく。そのとき、切り離したすべての人間と自分をつないでいくのではなく、自分と共通の世界をもっている人間をつないでいく。これは一種の差別につながる危険な動きだけれど、伊藤は、その危険をとてもうまくくぐり抜ける。人間ひとりひとりとつながるというよりも、人間が彼自身(彼女自身)もっている肉体の中に眠る何か、生理とか、欲望とかとつながっていく。そういう肉体の内部にあるもの、ことばになりきっていないものとつながっていきながら、個人ではなく、人間という「普遍」へとつながっていく。
その兆し、萌芽が、
という3行に、すでに書かれていたのである。この「個人」ではなく、人間の「普遍」と自己をつなげる、そういうつながりのなかに伊藤は伊藤の肉体をもって入っていく。伊藤の肉体を「つなぐ」ときの触媒にしている。そのとき、肉体は消費される。消耗する。その結果、しかし、肉体が残るのである。豊かな肉体の可能性が残るのである。人間は結局肉体であり、触れ合い、ぶつかりあい、愛し合い、憎しみ合い、そのときときの感情(このことばだけではあらわせない、人間のもっているすべてのもの)を浮かび上がらせるのである。
「世代をつなげて」の「つなげて」に伊藤のすべてがある。今の伊藤なら「つなげて」とは書かないかもしれない。「つなげて」ということばをつかわずにつながりを描くだろうと思う。
約30年前、伊藤は「つなげて」と書くしかなかった。
「そうあるべきではないのに」と書いたために、それを乗り越えるために、そのことばが必要だったのだと思う。
この作品には、詩人の出発点をあらわしている。出発点だけがもつ矛盾を抱え込んでいる。出発とは単に前へ進むだけではない。後ろを捨てることである。そして、不思議なことに、前へ進めば進むほど、後ろはつながっていく。後ろは後ろへと伸びていく。そのはてしない距離の中で「そうあるべきではないのに」という一瞬の思いは吸収され、すべては「そうあるべき」にかわる。「そうあるべきではないのに」を「そうあるべき」にかえるために、ひとは出発する。伊藤は「詩」を書く。
そんなことを思いながら読み返すと、書き出しの何と美しいことか。
「音のあいだに」の「あいだに」。
いつでも、何にでも「あいだ」はある。その「あいだ」に何を私たちは差し挟むのか。そしてつなげるのか。そうすることで、どんなふうにして世界を新しくするのか。
伊藤の冒険、伊藤の挑戦は、その書き出しにもあらわれているのである。
「現代詩手帖」10月号の特集「現代詩手帖賞を読む」の1篇。78年4月号の作品。投稿欄で読んだ記憶がある。「せいたかわあだちそう」というタイトル、そのひらがな表記と、次の行を鮮明に覚えている。
ほんとうにこれはせいたかあわだちそう
あたしもあたしの両手をのばし
つるされた茎のように
ゆらゆらと
およぐ
そこに
あたしのにおいが残る
そうあるべきではないのに
性を所有してあるく人間たちと同じようにあたしはにおう
私は「あたしのにおいが残る」という行に惹かれた。同時に「性を所有してあるく人間たちと同じようにあたしはにおう」に何かいやなものを感じた。特に、その2行のあいだにはさまれた「そうあるべきではないのに」という行に非常にいやなものを感じた。
伊藤自身を他者から切り離してみつめる視線にいやなものを感じた。
だが、たぶん、そのとき私は誤読していたのだと思う。
伊藤は、この自己と他者を切り離した部分から、さらにいっそうその切り離しの距離を拡大していくのではなく、切り離しながら自分を出していく。自分を、切り離したはずの人間の方へつないでいく。そのとき、切り離したすべての人間と自分をつないでいくのではなく、自分と共通の世界をもっている人間をつないでいく。これは一種の差別につながる危険な動きだけれど、伊藤は、その危険をとてもうまくくぐり抜ける。人間ひとりひとりとつながるというよりも、人間が彼自身(彼女自身)もっている肉体の中に眠る何か、生理とか、欲望とかとつながっていく。そういう肉体の内部にあるもの、ことばになりきっていないものとつながっていきながら、個人ではなく、人間という「普遍」へとつながっていく。
その兆し、萌芽が、
あたしのにおいが残る
そうあるべきではないのに
性を所有してあるく人間たちと同じようにあたしはにおう
という3行に、すでに書かれていたのである。この「個人」ではなく、人間の「普遍」と自己をつなげる、そういうつながりのなかに伊藤は伊藤の肉体をもって入っていく。伊藤の肉体を「つなぐ」ときの触媒にしている。そのとき、肉体は消費される。消耗する。その結果、しかし、肉体が残るのである。豊かな肉体の可能性が残るのである。人間は結局肉体であり、触れ合い、ぶつかりあい、愛し合い、憎しみ合い、そのときときの感情(このことばだけではあらわせない、人間のもっているすべてのもの)を浮かび上がらせるのである。
せいたか、あわたち、そう
わたしはしゃがんでこどもにおしえる
背い高、
「アワダチソウ」
こどもの背に父親の血はながれない
優性遺伝の貧血症を抱いて
おさないままにしんでしまえ
あたしの背には
暖かいものを当てる な
世代をつなげて
衰えてゆくのだ
「世代をつなげて」の「つなげて」に伊藤のすべてがある。今の伊藤なら「つなげて」とは書かないかもしれない。「つなげて」ということばをつかわずにつながりを描くだろうと思う。
約30年前、伊藤は「つなげて」と書くしかなかった。
「そうあるべきではないのに」と書いたために、それを乗り越えるために、そのことばが必要だったのだと思う。
この作品には、詩人の出発点をあらわしている。出発点だけがもつ矛盾を抱え込んでいる。出発とは単に前へ進むだけではない。後ろを捨てることである。そして、不思議なことに、前へ進めば進むほど、後ろはつながっていく。後ろは後ろへと伸びていく。そのはてしない距離の中で「そうあるべきではないのに」という一瞬の思いは吸収され、すべては「そうあるべき」にかわる。「そうあるべきではないのに」を「そうあるべき」にかえるために、ひとは出発する。伊藤は「詩」を書く。
そんなことを思いながら読み返すと、書き出しの何と美しいことか。
秋のきりんそうはいつだってゆらゆらしていた
夏であったころ
鉄橋を北上して青いきりんそうをみた
ごろごろごろごろ
ころがってゆく音のあいだに
きりんそうはかたまりをつくり
目の前をすぎる
「音のあいだに」の「あいだに」。
いつでも、何にでも「あいだ」はある。その「あいだ」に何を私たちは差し挟むのか。そしてつなげるのか。そうすることで、どんなふうにして世界を新しくするのか。
伊藤の冒険、伊藤の挑戦は、その書き出しにもあらわれているのである。