詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永島卓『永島卓詩集』(その7)

2006-09-13 15:24:17 | 詩集
 永島卓『永島卓詩集』(砂子屋書房版「現代詩人文庫」)。(その7)
 「現代詩文庫」にエッセイが収録されている。「詩歌句」の「後書」である。この文章が非常におもしろい。リズムがおもしろい。「創刊号」(1990年)の「後記」は次のように始まる。

 ここしばらくというもの、日常のなかで書きつづける意味の苦痛にさいなまれ、逃げきることの提示を抱えながら、意識的にも肉体的にも緩慢さが抜けきれないまま、現実と表現のはざまに揺れつづけていたが、多くの詩の友人たちや先輩たちにかろうじて支えられてきたというのが正直なところであります。

 文末の「ところであります」にひきずりこまれて何度も読み返してしまう。「ところであります」より前に書かれていることは一筋縄ではないかないというか、なんとも複雑で真摯なことがらなのだが、「ところであります」という「あいさつ」のようなしめくくりで、ふいに、永島という人間が見えてくる感じがするのだ。何を言ったか、ではなく、誰が言ったかが見えてくる。私は永島の容姿を今回はじめて「文庫」の裏の写真で知ったのだが、「正直なところであります」と言ったあと、その肥満体(に見える)を少し傾けてるようにして「みなさん」にあいさつしている姿が見えるような気がするのである。そして、そんなふうにあいさつされると、永島がそこで何を言ったかはあまり問題ではなく、あ、永島はこんなふうにして場をきちんと把握して、ちゃんとあいさつする人間だ、人に気配りのできる人間だということがすーっと伝わってきて、ちょっと襟を正して永島の言うことを聞かなければという気持ちになる。
 引用した文は次のようにつづく。

この個人年刊誌「詩歌句」を出そうと思ったのは、昨年、亀山巌さんが亡くなられる前後から、亀山さんについての声が文化芸術分野の或る側面から出はじめ、それらを読むにつれ、その浅学な誹謗に対し、突然衝動的に突きあがってくる名状しがたい波動のようなものがあり、それが、これまでわたしを取巻く日常において、どうしても区画できない精神の漂白域でものを捉えることができるものがあるとしたならば、これもひとつの許されるべき変化と考えているところであります。

 何やら亀山巌に関する誹謗があり、それに対して永島が憤慨し、自分の感じていることを他人に向けて言いたい、自分が言いたいことはまだよくわからないけれど言いたい、よくわからないものをことばを探しながら見つけ出し、伝えたいという気持ちが感じられる。永島が言いたいことは私が要約したようなことではなく、もっと精妙で複雑なことがら、じっくりと腰を落ちつけで、何度も繰り返し読まないことには理解できないことなのだが、永島が何かを伝えたいと感じているということだけは、「どうしても区画できない精神の漂白域」というような抽象的なことばを乗り越えて伝わってくる。あ、いま、永島は私の知らないことを何か言ったぞ(区画できない精神の漂白域ってなんだ?)と想いながらも「考えているところであります」ということば、その区切りで、また永島の肉体そのものが目に浮かび、何を言ったかではなく、永島がいま語ったということが印象に強く刻まれる。
 どの文章をとってもそうなのだが、一方に亀山巌が亡くなった、誹謗するものがいた、その誹謗に対して永島は納得していないという誰にでもわかる「事実」があり、他方に、「どうしても区画できない精神の漂白域」のような永島独自の表現があり、それが永島という肥満体のなかで溶け合っている。融合している。その融合の感じが、精神というよりも、肥満体の肉体として目の前に浮かぶ。何かの会場で「みなさん」の前に立ち、あいさつしている肉体として、あるいは顔をもった人間として立ち上がってくる。
 実際に会ったことがない(顔を知らない)私がそう感じるくらいだから、実際に面識のある人はもっと永島の肉体を感じるかもしれない。声の響き、呼吸の仕方、ことばがはやくなったり遅くなったり、息継ぎの微妙な変化も感じるかもしれない。そうしたものを「書きことば」として永島は再現できる。そこに永島の魅力がある。

 「第六号後書」(1997年)に次のことばがある。

毎日の行為や発言によって、わたしとわたし以外の個人がどのような場所で、絶えず反芻をくり返しながら認め合うか反目していくかはきっと長い時間の距離で測られていくものと考えられます。

 「わたしとわたし以外の個人」。永島には常にそれが見える、抽象的な人間としてではなく、具体的な、顔を持ち、肉体を持った人間として見える。認め合う姿も反目する姿も肉体として、つまり、そのときの口調や視線や肉体の素振りとして見えるのだと思う。そうしたものが見えるからこそ、永島自身をも肉体として文章の中に浮かび上がらせるのだと思う。



 精神と肉体、あるいは思想と肉体。この問題は難しい。
 乱暴な言い方かもしれないが、私は、人間は結局のところ、他人の肉体を好きになるのだと思う。思想・精神を好きになることはない。人間はいつも他人の肉体を好きになる。そして肉体を嫌いになる。触れたい・触れたくない、という感じになる。精神だとか思想だとか感情だとか、触れたか触れないかわからないものではなく、触れることができるものを好きになったり嫌いになったりする。そこには「生理」が入り込む。そうしたことを永島はとてもよく理解しているのだと思う。
 ひとと接するためには肉体として自分をさらけださなければならない。実際に何かが起きたとき、人は触れ合わなければ何もできない。
 ことばは肉体でなければならない。
 ことば、その意味などというものは乱暴に言ってしまえば、あまり意味がない。最後は、誰が言ったか、どういう文体で言ったかが問題になる。あ、これは誰それの書いた文章に違いない、とはじめて読む文章でも感じることがある。それは内容がそう感じさせるのではなく、文体が、文章とともに立ち上がってくる作者の肉体そのものがそう感じさせるのである。そして読者が(少なくとも私が)信頼するのは、内容ではなく、文体である。さらに言えば、作者の肉体である。
 永島の「後記」とこの詩集の最初に掲げられている「ひとみさんこらえるとゆうことは」は同じ文体、同じ肉体である。永島の目の前に「相手」がおり、その相手に向かって、相手の表情を見ながら、相手の反応を見ながら、自分自身の、どうしても言わなければならないことば、たとえわかってもらえるという確信がなくても言わずにいられないことば(「区画できない精神の漂白域」など)をまじえながら、ことばではなく、肉体を、そのことばを語っているのが永島だということを伝える。あなたと同じように肉体を持った人間が語っているのだということを伝える。
 こうしたことばがほんとうに相手に伝わるのかどうか(伝わったのが肉体だけであった野かどうか)は、永島のことばを借りれば、それこそ長い時間の距離で測られるものだろう。そしてたぶん永島は、それが正確に伝わるために長い長い時間がかかってもそれはそれでしようがない、いずれ伝わるはずだと、深く確信しているのだと思う。永島の文体にはそういう不思議な肉体の確かさがある。
 たとえ最後に私たちが永島を思い出すとき「区画できない精神の漂白域」ということばではなく、「……というのが正直なところであります」や「ひとみさんこらえるとゆうことは」という「内容」を含まない文章(断片)だったとしても、それは断片ではなく、実はそれこそが肉体化された思想だからである。その、まだことばになりきれていないもののなかに、永島が手さぐりしているもののすべてがあるのだと思う。


コメント
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