詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山崎るり子『爪切るおじさん』

2006-09-24 23:22:52 | 詩集
 山崎るり子爪切るおじさん』(思潮社)。
 山崎の今回の詩集で私の印象に残ったことばは「気配」である。「遠い山の」という作品の、終わりから2行目に出てくる。このことばだけが、この詩集のなかに溶け込んでいない。浮き上がっている。最後の2行はなくても詩が成立すると思う。私は、ない方が詩としてすぐれていると思う。私自身のそそっかしさを棚に上げて、こうしたことを書くのは無責任かもしれないが、最初に「遠い山の」を読んだとき、最後の2行がそれだけ別のページ(裏のページ)にあるので、読み落としていた。感想を書こうと思い、詩集を読み返して、その2行に出会い、驚いてしまった。そして、あ、山崎の書きたかったのは「気配」なのだ、と思った。

 「遠い山の」は「タガイグモ」というクモを描いている。(このクモがほんとうにいるかどうかは、私は知らない。たぶん、想像のクモである。)
 そのクモは向き合った枝に巣をかけている。餌のない冬には1日置きに互いの血をすって生きている。1匹だったら冬は越せないが、2匹であるために互いの血を吸い、満腹しながら生き延びることができる。そうやって幸福を感じているという。

遠い山の深い深い森の奥では
タガイグモという蜘蛛がいて
枝の右の叉に一匹が
枝の左の叉に一匹が
巣をかけているのだそうだ
寒い冬があんまり長く続くと
右の叉の蜘蛛も
左の叉の蜘蛛も
縮んで縮んで縮んでいって
姿はもう見えなくなってしまって

 幸せだな
 最高だな

ただ気配だけが 薄くなった網糸を
揺らしているのだという
     (谷内注・「 幸せだな/ 最高だな」の2行は本文より小さい活字)

 「気配」とは何だろうか。この詩に限定して言えば、クモは見えなくなっても、まだクモがいると感じさせるもの。それが「気配」である。
 このとき、ひとは「存在」を意識しない。むしろ「存在」(クモ)が存在しないからこそ「気配」を感じる。「存在」の不在が「気配」である。「存在」が存在していれば「気配」は存在し得ない。存在が明確なときは「気配」とは言わないのである。
 「存在」が存在するとき「気配」はありえず、「存在」が不在のとき、その「存在」を錯覚させるのが「気配」である。

 「存在」(クモ)と「気配」は矛盾した関係にある。矛盾といっても、それは互いに否定するのではなく、むしろ「依存」である。少なくとも「気配」は「存在」(クモ)が存在しなかったら、「気配」として存在し得ない。そして、また「存在」の側から言えば、「気配」が存在するとき、「存在」は姿を現すことができない。しかし、姿を現さないことによって、より濃密に「存在」の存在を感じさせることができる。それはたぶん「存在」が存在しているとき以上に、濃密な感覚である。
 肉眼で、肉体で捉えられないからこそ、それは精神に(肉体の内部に、肉体とともにあるもののなかへ)侵入し肉体のあり方そのものにも影響を与えてしまう。

 この矛盾というか、依存というか、相互に響きあう関係は、たとえて言えば、この詩に書かれている「タガイグモ」そのものの関係である。
 「タガイグモ」がお互いに血を吸って生き延びていく姿は、「弁証法」といってしまうと何かが違ってしまう。それは何か、縄のようによじれながらつづいていくものである。そして、日常にあることがらは、弁証法というより、そんなねじれながら、ねじれることで他者に寄り掛かり、同時に他者をささえていくようなことがらが多い。
 ただ、こうしたことは意識し始めると、とても苦しい。感じるけれど、深くは意識しない。あるいは、つきつめて「哲学」にしてしまわない。なにか、ぼんやりしこもののまま、そこにそうしておいておく。そして、「ああ、そういうものだな」と納得する。肉体となじませてしまう。そうしたものが「気配」というものの一つの形だろう。

 そして、山崎の書こうとしている「気配」とは、なんといえばいいのだろうか。人が十分に知っていて、それでもなおかつ、ことばにすると奇妙になってしまうことがらを指し示している。たとえば「サンプル」という作品。

皆さん私はすぐに逝きますから
もう、すぐに逝きますから

毎日おばあさんは
家族の皆に言い
近所の人たちに言い
道行く人にも言うのです

そんなこと言わないでおばあさん
元気を出しておばあさん
いいえいいえ 私は
もう充分 生きましたから

 ここに描かれている「おばあさん」がけっして「すぐ死ぬ」ということを知っているわけでも願っているわけでもないことは、誰もが知っている。そしておばあさん自身はおばあさん自身で、長生きしていることが疎まれていることも知っている。それでいて、おばあさんはその対話者は、こころとは違ったことを言う。言いながら、互いにこころにもないことを言っていると知っている。「タガイグモ」の右と左のようなものである。
 この対話から浮かび上がってくるものこそ、実は山崎にとっては「気配」なのである。ことばにならないけれど、別のことを思っているという雰囲気、それぞれの肉体からはみだして、両者のあいだの「空気」をつくってしまうもの。それが「気配」である。
 日常の中で、私たちは、そういう「気配」を感じながら生きている。そういう「気配」をうまく呼吸できないと、ちょっと(かなり)ぎすぎすした人間関係になってしまう。
 「気配」を察知して、ときには自分を犠牲にして(タガイグモが自分の血を相手に飲ませるようにして)、それでも犠牲になるままではなく、今度は逆に相手を犠牲にして、という具合に、否定と依存を捻じりあわせて生きている。
 山崎は、そういう、ことばになりにくい日常の「思想」を詩に定着させる試みを、この詩集でやっている。随所に、皮肉というか、毒というか、肉体に響くことばが撒き散らされているのも、それが日常であり、その毒の「気配」を「気配」でとどめておくことこそ、日常の本当の「思想」だからでもある。本当の毒で他者を殺してしまったら、「世間」はなくなり、「気配」の濃淡をわたって生きる楽しみもなくなってしまう。

 詩集の帯に、誰が書いたのかわからないが、「瑞々しくユーモラスな生のエッセンスがぎっしりと詰まっている」と書いている。生のエッセンスとは、山崎のことばを借りて言えば、「気配」の濃淡をかぎ分けて生きる楽しみのことである。
 山崎のみつけた「気配」が、私たちのここばを揺らす。私たちのことばが、山崎の定着させた「気配」の中で揺らぐ。そういうことを楽しむ詩集である。

コメント
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