佐藤恵『きおくだま』(七月堂)。
「すずしろ」という作品が印象に残った。
人間には見えるものと見えないものがある。見えないけれど感じるものがある。切られた大根が流す血や涙は見えない。しかし感じることができる。そして感じたことは、ことばになって、見えないのに見えるものに変わる。そこから共感が始まる。「どんなに痛いだろう」。このことばは強い。
共感はことばを育てる。そのことばが何を明確にするのか、誰にもわからない。わからないから、ただことばが育つままに、ことばの行方を追っていく。
この花は大根の花であると同時に佐藤のことばの花である。大根の変化、その切り口の変化を丁寧に追いながら、大根の肉体のなかで起きていることを大根のこころの動きとしを受け止める。そのとき、佐藤は大根のこころそのものになる。「薄むらさきのちいさな花」は「あさい皿に張った水に切り口をさらして立つのはどんなに痛いだろう」という思いが育てた花であり、そのやさしさが具体的な色と形になったものだ。
こうした変化、ある存在の、見えない痛みをことばとして追いかけるとき、佐藤のこころのなかに起きる変化は、そのある存在が人間であるとき、とても美しい。
この作品で、佐藤は大根の花を描きながら、実は佐藤の親しい人のことを描いている。大根の花は佐藤であると同時に、佐藤の親しい人の咲かせた花なのだ。佐藤のこころのなかで、いまも小さな花を咲かせている人がいるのだ。
「坂のむこうから次に姿を現すものを待ちつづけるかのように」「窓のすきまに顔を寄せてゆれた」のは大根の花ばかりではない。佐藤の親しい人こそが、大根の花になって、何かを見つめ、揺れたのだ。
「その人」には「大根」のように普通に知られた「名前」がある。「顔」がある。しかし、「名前」(顔)はひとつではない。「すずしろ」と呼ばれるような、ちょっと違った姿もある。「大根」は「すずしろ」と呼ばれることは少ない。しかし、「すずしろ」という呼び方がふさわしいときもある。「その人」にもそういう瞬間がある。その瞬間を佐藤は知っている。知っていて「あなたは大根というより、すずしろという名前の方がふさわしい」と、そっと告げているのである。佐藤は「その人」に対して「わたしは、あなたがすずしろであるということを知っている」とひそかに告げているのである。
すずしろは小さな花を次々に咲かせ、そのいのちを終えた。「その人」も佐藤のこころに小さな花を残して去っていったのだろう。その小さな花を、それを咲かせるための痛みを、佐藤は忘れない、と、この作品で書いている。
「その人」が誰であるか、私にはわからない。わからないけれど、こういう詩を捧げられる人は幸せだと思う。佐藤にとって「その人」に会えたこと、「その人」との出会いのなかで「ちいさな花」を発見したことは幸福なことだと思うし、また、「その人」にとってもたいへん幸福なことだったと思う。
「一期一会」ということばを、ふと思い出した。人との出会いを大切にして生きている佐藤の姿が目に浮かんだ。
「すずしろ」という作品が印象に残った。
大根がね、
花をつけたの
とわたしは話した
切り落とした大根を、流しの窓枠に老いたのは初冬のこと
あさい皿に張った水に切り口をさらして立つのはどんなに痛いだろう
と色のない血や涙を透かして見ながら
切り揃えられた根元から
やわらかくのびてでる葉のいとしさに
毎日水をかえつづけた
人間には見えるものと見えないものがある。見えないけれど感じるものがある。切られた大根が流す血や涙は見えない。しかし感じることができる。そして感じたことは、ことばになって、見えないのに見えるものに変わる。そこから共感が始まる。「どんなに痛いだろう」。このことばは強い。
共感はことばを育てる。そのことばが何を明確にするのか、誰にもわからない。わからないから、ただことばが育つままに、ことばの行方を追っていく。
やがて傷がふさがるように切り口は硬くなり
もとのかたちを思い出すかのように下へふくらみはじめ
失ったかたちをとりもどせないまますわりの悪くなったそれを
倒れないようにとジャムの小瓶に移しかえた
春になると
つまさき立つように
ゆらゆらと伸びあがり
やがて薄むらさきのちいさな花をつけたのだった
この花は大根の花であると同時に佐藤のことばの花である。大根の変化、その切り口の変化を丁寧に追いながら、大根の肉体のなかで起きていることを大根のこころの動きとしを受け止める。そのとき、佐藤は大根のこころそのものになる。「薄むらさきのちいさな花」は「あさい皿に張った水に切り口をさらして立つのはどんなに痛いだろう」という思いが育てた花であり、そのやさしさが具体的な色と形になったものだ。
こうした変化、ある存在の、見えない痛みをことばとして追いかけるとき、佐藤のこころのなかに起きる変化は、そのある存在が人間であるとき、とても美しい。
この作品で、佐藤は大根の花を描きながら、実は佐藤の親しい人のことを描いている。大根の花は佐藤であると同時に、佐藤の親しい人の咲かせた花なのだ。佐藤のこころのなかで、いまも小さな花を咲かせている人がいるのだ。
私たちは顔を窓のほうにねじって
少し開けたそのむこうを
大根の花といっしょに眺めた
人通りの少ない商店街は白く乾き
道はゆるやかに光ってくだってゆく
坂のむこうから次に姿を現すものを待ちつづけるかのように
大根の花は窓のすきまに顔を寄せてゆれた
「坂のむこうから次に姿を現すものを待ちつづけるかのように」「窓のすきまに顔を寄せてゆれた」のは大根の花ばかりではない。佐藤の親しい人こそが、大根の花になって、何かを見つめ、揺れたのだ。
すずしろ、って言うよね
とわたしが言うと
その人はまぶしそうにその言葉にふりむき
こちらを見つめた
「その人」には「大根」のように普通に知られた「名前」がある。「顔」がある。しかし、「名前」(顔)はひとつではない。「すずしろ」と呼ばれるような、ちょっと違った姿もある。「大根」は「すずしろ」と呼ばれることは少ない。しかし、「すずしろ」という呼び方がふさわしいときもある。「その人」にもそういう瞬間がある。その瞬間を佐藤は知っている。知っていて「あなたは大根というより、すずしろという名前の方がふさわしい」と、そっと告げているのである。佐藤は「その人」に対して「わたしは、あなたがすずしろであるということを知っている」とひそかに告げているのである。
すずしろは
けなげにちいさな花を咲かせ
するとみるまに根元は、役割を終えてしぼんだ
ある日帰ると窓辺に瓶だけが残されていて
あたたかい陽気とともに伸び盛ったすずしろが見えない
誰が誰がと胸を押さえながら近寄ると
冷たくかわいた流しの中で
すずしろは花びらを散らして横たわっていた
かさかさにしぼんで軽くなった根元ではもう
上へ上へと伸びるいきおいを支えきれなかったのだろう
それから何度も
小さすぎる瓶からステンレスのひかりめがけて身を投げたすずしろ
すずしろは小さな花を次々に咲かせ、そのいのちを終えた。「その人」も佐藤のこころに小さな花を残して去っていったのだろう。その小さな花を、それを咲かせるための痛みを、佐藤は忘れない、と、この作品で書いている。
「その人」が誰であるか、私にはわからない。わからないけれど、こういう詩を捧げられる人は幸せだと思う。佐藤にとって「その人」に会えたこと、「その人」との出会いのなかで「ちいさな花」を発見したことは幸福なことだと思うし、また、「その人」にとってもたいへん幸福なことだったと思う。
「一期一会」ということばを、ふと思い出した。人との出会いを大切にして生きている佐藤の姿が目に浮かんだ。