詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『スペクタクル そして最後の三分間』(その2)

2006-09-19 14:55:05 | 詩集
 野村喜和夫スペクタクル そして最後の三分間』(思潮社)。
 2冊組詩集の2冊目。
 野村の詩は何が書いてあるか、対象が何であり、その対象のについてどう考えたのか、ほとんどわからない。わからなくてかまわないというより、わかると困るだろうと思う。そこに存在しないもの、きのう書いた文章のつづきでいえば、ことばの向こうにあるものが対象だからである。
 そうした詩群のなかにあって、「第三十七番(そして徴)」は異質である。誰が読んでも何が書いてあるか、書かれている対象(存在)が何であるかわかる。

笑ってしまった、
なまなましかった、
円が描かれていた、
と同心円がふたつ、目の前のコンクリートの壁に、
私は排泄しにやってきたのだが、
おい、なんとか言えよ、同心円がふたつ、
笑ってしまった、
さらに長い直線が一本、
縦にふたつの円を貫いていた、
なまなましかった、
外側の円には、放射状に、
短い直線が何本も描き込まれていた、
毛のつもりなのだろう、
私は排泄しにやってきたのだが、
笑ってしまった、

 描かれている対象、野村のことばを動かしているのは女性性器の落書きである。こういう単純なもの、誰もが知っているものをことばにするのは難しい。ことばを必要としていないからだ。ことばが必要とされていないからこそ、野村は「笑ってしまった」と書き始める。ことばを最初に放棄している。
 しかし、野村は「詩人」であるから、ことばを放棄したままでは、「詩」が書けないことに気づく。そして「なまなましかった」とつづける。このことばこそ笑うしかないものである。2行目の「なまなましかった」はまだ何が書かれているのかわからなかったからそのまま素直に読んでしまったが、10行目の「なまなましかった」で私は笑いだしてしまった。同心円がふたつ、縦に直線、円の周りに放射状の直線--そんなものがなまなましいというのは、そうした落書きをしたこともなければ、見たこともない人間の感覚だろう。今まで見たもの以上に「なまなましい」なら、「なまなましい」などということばに頼らず、その「なまなましさ」をもっと具体的に書きべきだろう。
 「なまなましかった」は事実ではなく、野村の願望である。そうした落書きはなまなましくあるべきだ、なまなましくなければ落書きに値しないと野村はどこかで思っているのかもしれない。だから野村はその落書きがどんなに「なまなましかった」を書かない。野村がことばにすること、対象に向かってことばを発し、その応答を引き出すことで、それがどんなふうに「なまなましく」なっていったかを書く。
 野村は、そこにあるものを描くのではなく、そこにあるものが野村と、野村のことばといっしょにどんなふうに動き(疾走し)、その動きの向こうに、今まで見えなかったものを見えるようにするかを描く詩人である。そのことが、この単純な落書きを描いた作品では、とてもよくわかる。(こんなに簡単にわかるのは、「名作」なのか「駄作」なのか、たぶん評価がわかれるところだと思うが……。)

おい、なんとか言えよ、
いや、言えないよな、口じゃないものな、
待てしかし、円がゆがみはじめ、
まさかそんな、笑い始めた、
なまなましかった、
なまのあれよりもなまなましかった、
生きていた、そいつは生きていた、
肉の厚みも、温かみもないが、
こんにちは、こんにちは、
二つのわ、わ、笑って、
笑ってしまった、おい、いつ、
だれによって、在らしめられたんだ、
なまのあれに先立つ、ほとんど唯一の、
ありうべからざるあれのような、
母音、零年、
燃え上がる線、

 落書きが笑い始めれば確かに「なまなましい」かもしれない。しかし、その「なまなましさ」は野村のこの作品ではつづかない。それは結局、「なまなましさ」が本物ではなく、野村がつくりだそうとしているものだからだろう。笑い始め、笑い続ければ、私はそこから「なまなましさ」が生まれてくると思うけれど、落書きは笑うのをやめてしまう。

なまのあれに先立つ、ほとんど唯一の、
ありうべからざるあれのような、

 こんなことを言われてしまえば、どんな落書きも沈黙してしまう。落書きは欲望によって描かれている。そこには描いた人の欲望がある。それは確かに本物の性器ではなく、理想の性器、あるいは性器だけではなく、セックスそのものを含むものとして描かれるだろ。だから、確かに「なまのあれに先立つ、ほとんど唯一の、/ありうべからざるあれのような、」存在ではあるのだろうけれど、そんなことを言うなよ、それを言っちゃおしまいだろう、というのが落書きである。
 落書きはぜんぜんなまなましくなくなってしまった。なまなましくないからこそ、野村はさらになまなましさを掻き立てようとする。

たわむれに私は、上に、
あの女、この女、任意のきれいな顔を乗せ、
消えろ、消えろ、
おまえたちの下の、
顔のない情熱こそ、
いとしいよう、いとしいよう、
血のめぐりもない、分泌もしない、臭いも放たない、
かまうものか、あらゆるなまのあれに先立つ、
あらゆるなまのあれよな不滅な、

 円い口をゆがめて笑ったその笑いのなまなましさから、どんどん遠くなる。落書きはどんどん記憶のかなたへ消えていく。もう、ここでは読者は(すくなくとも私は)、落書きのことなど忘れてしまっている。「そうか、野村はきれいな顔が好きなんだ。野村にとはって、セックスはきれいな顔と性器なんだ。おっぱいとか、しりとか、わきのくぼみとかは関係ないんだな。顔を見ながら、性器で起きていることを見ているんだな。セックスしながら、実際に触れ合っている性器に先立つ、不滅な性器(理想の性器?)を思い描いているんだな」と思って、それこそ笑うしかなくなる。
 野村は落書きの性器を「なまなましく」描き出そうとして、野村自身の性生活をなまなましく描き出してしまう。
 ここでおわれば、それはそれで「大変興味深く読ませていただきました」と冗談口調でしめくくれるのだが、この作品は、まだまだつつづく。

おい、笑えよ、私を笑え、
テロリストを笑え、
ひとは血まみれで生まれてくるのだから、
血まみれで死んでもいいなんて、
くだらないよな、笑えよ、
同心円がふたつ、
いやちがう、
小さな死がふたつ、だよな、
愛のあらしにおいては、
性が生を越えてゆく、
だもな、性は生よりも、
ひとまわりもふたまわりも、大きい、
その円、
うおっ、
うあっ、

 「笑えよ」と言われなくても笑っているだろう。女性性器の「落書き」にとって、ふさわしくないことばがあるとすれば、野村のことばだろうと思う。
 「くだらない」という表現がでてくるが、この落書きに対する詩が「くだらない」のは、その詩が、あらゆる「現代詩」に共通するもの、存在の根源(「あれに先立つ」もの)、存在の超越(性が生を「越えてゆく」)という観念が露骨に姿を現しているからである。存在の根源と存在の超越のあいだを往復し「現代詩」のことばは動く。その動きに野村も寄り掛かっているということを、女性性器の落書きというような対象を描きながらも露呈してしまうからである。(こうした「露呈」をわかりやすいと評価すれば、この詩はとてもわかりやすいものとして受け入れられるだろう。--たぶん、この露呈ゆえに、この詩の評価は二分するだろうなあ、と思う。)



 というものの、この詩集に含まれている詩は、きょう感想を書いた「第三十七番」のようなものだけではない。むしろ「第三十七番」は例外に属する。あす、違った作品について書いてみたいと思う。


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