映画「太陽」
監督 アレクサンドル・ソクーロフ 出演 イッセー尾形、桃井かおり、佐野史郎
とても印象深いシーンがある。東京大空襲。B29が爆弾を落すのではなく、ハゼだろうか、胸ビレの大きな魚が爆弾のかわりに小さな魚を産み落とす。そして、その魚たちは、地上の炎を気にするでもなく、熱のためにゆらゆら揺れる空気のなかを、悠然と、水中を泳ぐように泳ぎ回る。これはもちろん現実ではなく、昭和天皇の悪夢、あるいは幻想なのだが、そのシーンの映像が、他の天皇のシーンと同質のセピア色のなかに閉じ込められているので、空襲のシーンが幻想なのか、天皇の日常の方が幻想なのか、あるいは両方とも幻想なのか、区別がつかなくなる。
この区別のなさが一番奇妙なリアリティーで迫ってくるのは、「敗戦」の瞬間、いわゆる「玉音放送」が映像として欠落している部分である。空襲の悪夢・幻想がおわったかと思うと、天皇は突然、皇太子に手紙を書いている。それはまるで、そうしたシーンの前にあった今日の予定の、御前会議があり、生物の研究があり、皇太子に手紙を書くと侍従が告げた1日のできごとのように見えてしまう。「敗戦」という画期的な事件が欠落し、まるで天皇の「日常」だけは何にも影響されずに連続しているという印象で迫ってくる。
スクーロフがこうした欠落と連続を意識して描いたのだとすれば(たぶん意識していると思うが)、これはたいへんな天皇批判である。今まで私が見てきた(読んできた)天皇批判の中でもっもと鋭い批判である。
天皇には天皇の日常しかないのである。用意された朝食を食べ、用意された会議に出席し、用意された研究にふけり、「私を愛しているのは皇后と皇太子たちだけだ」という物思いにふける。その世界を守るためには、外交にたけた口ぶりも見せれば、おちゃめなユーモアも見せる。「あ、そう」という独特の、自己と他者を切り離す話法もくりひろげる。
「敗戦」(玉音放送)という日本人にとってけっして忘れられない瞬間を省略し、そのかわりに、たとえば口臭を気にする姿、どきどきしながら天皇に服を着せる老人の額に浮かぶ汗を見る視線、平家蟹をみつめてうっとり自分の見解に酔い、皇后と皇太子の写真に口づけする姿を描き出す。さらには映画スターの写真を大切そうに眺めたり、チョコレートはもうやらない、と話題をかえたり、講義にやってきた学者を困らせたり、写真撮影で「普通のおじさん」風にポーズをとったり……、と、「現人神」ではなく単なる人間としての、普通の肉体をもった人間としてのあり方だけを、延々と連続させる。天皇には「日常」しかないのである。戦争があろうが、戦争がおわろうが、その「日常」は一貫しているのである。
こんな奇妙な世界、摩訶不思議な世界があっていいのだろうか。
ラストで天皇は皇后とたわむれる。そして、皇太子たちが待っている大広間へといそいそと行ってしまう。途中で、「玉音放送」に立ち会った技術者が自害したと知らされる。そのとき別の侍従は止めたのか、と質問する。侍従は「いいえ」と答える。それに対して天皇は「あ、そう」とだけ言って、大広間へ皇后と手をつないで行ってしまう。
自分の家族、自分の日常への連続にはこだわるが、他者の非連続に対しては、一瞬は気にかけるが、それを連続して考えようとしない。
天皇は人間であって、人間ではない。普通の肉体の感情を持っていて、同時に普通の人間の感情が欠けている。いや、とういよりも、普通の人間よりももっともっと生々しく人間なのだろう。普通、ひとは、それが偽善と批判されようと、誰かが死んだと知らされれば「あ、そう」という具合には話題を転換できない。もっと立ち止まってしまう。ふいに訪れたものに対して、自分の連続性を維持するために、あれこれと思い悩む。天皇には、そういう連続性がない。欠落にひるむ連続性がない。
明治天皇の歌を引用しながら天皇が「平和」について思いめぐらすシーンがあるが、これは天皇の本当のこころなのか。そうではなく、国民の平和について常に考慮するというのが天皇の「日常の仕事」だから、ただそれをしているだけなのではないのか。
この強烈な天皇批判--それに拮抗しうる天皇批判を、きちんと日本語で語れるか。そう問いかけられているような気持ちになった。
イッセー尾形は、スクーロフの強烈な天皇批判を見事に肉体化していた。すべてを「日常」にしてしまっていた。もともと日常にひそむいかがわしさ、いやらしさ、それと同時に存在する悲哀さを肉体化してきた役者だが、この映画では、その日常的肉体の特権的ともいうべき演技が冴え渡っている。何もかもが天皇の肉体の中で日常となり、連続していく。「敗戦」(玉音放送)というような画期的なものは欠落して平気である。東京大空襲にさえ、天皇が愛着を感じている魚が出てくる。それは悪夢としてだが、悪夢のなかにも、天皇の日常が日常そのままにあらわれるのである。
「日常」、その連続性をどこまでも連続的に延長することで人間の本質を浮き彫りにするイッセー尾形の演技があって、はじめて成立する天皇批判である。
監督 アレクサンドル・ソクーロフ 出演 イッセー尾形、桃井かおり、佐野史郎
とても印象深いシーンがある。東京大空襲。B29が爆弾を落すのではなく、ハゼだろうか、胸ビレの大きな魚が爆弾のかわりに小さな魚を産み落とす。そして、その魚たちは、地上の炎を気にするでもなく、熱のためにゆらゆら揺れる空気のなかを、悠然と、水中を泳ぐように泳ぎ回る。これはもちろん現実ではなく、昭和天皇の悪夢、あるいは幻想なのだが、そのシーンの映像が、他の天皇のシーンと同質のセピア色のなかに閉じ込められているので、空襲のシーンが幻想なのか、天皇の日常の方が幻想なのか、あるいは両方とも幻想なのか、区別がつかなくなる。
この区別のなさが一番奇妙なリアリティーで迫ってくるのは、「敗戦」の瞬間、いわゆる「玉音放送」が映像として欠落している部分である。空襲の悪夢・幻想がおわったかと思うと、天皇は突然、皇太子に手紙を書いている。それはまるで、そうしたシーンの前にあった今日の予定の、御前会議があり、生物の研究があり、皇太子に手紙を書くと侍従が告げた1日のできごとのように見えてしまう。「敗戦」という画期的な事件が欠落し、まるで天皇の「日常」だけは何にも影響されずに連続しているという印象で迫ってくる。
スクーロフがこうした欠落と連続を意識して描いたのだとすれば(たぶん意識していると思うが)、これはたいへんな天皇批判である。今まで私が見てきた(読んできた)天皇批判の中でもっもと鋭い批判である。
天皇には天皇の日常しかないのである。用意された朝食を食べ、用意された会議に出席し、用意された研究にふけり、「私を愛しているのは皇后と皇太子たちだけだ」という物思いにふける。その世界を守るためには、外交にたけた口ぶりも見せれば、おちゃめなユーモアも見せる。「あ、そう」という独特の、自己と他者を切り離す話法もくりひろげる。
「敗戦」(玉音放送)という日本人にとってけっして忘れられない瞬間を省略し、そのかわりに、たとえば口臭を気にする姿、どきどきしながら天皇に服を着せる老人の額に浮かぶ汗を見る視線、平家蟹をみつめてうっとり自分の見解に酔い、皇后と皇太子の写真に口づけする姿を描き出す。さらには映画スターの写真を大切そうに眺めたり、チョコレートはもうやらない、と話題をかえたり、講義にやってきた学者を困らせたり、写真撮影で「普通のおじさん」風にポーズをとったり……、と、「現人神」ではなく単なる人間としての、普通の肉体をもった人間としてのあり方だけを、延々と連続させる。天皇には「日常」しかないのである。戦争があろうが、戦争がおわろうが、その「日常」は一貫しているのである。
こんな奇妙な世界、摩訶不思議な世界があっていいのだろうか。
ラストで天皇は皇后とたわむれる。そして、皇太子たちが待っている大広間へといそいそと行ってしまう。途中で、「玉音放送」に立ち会った技術者が自害したと知らされる。そのとき別の侍従は止めたのか、と質問する。侍従は「いいえ」と答える。それに対して天皇は「あ、そう」とだけ言って、大広間へ皇后と手をつないで行ってしまう。
自分の家族、自分の日常への連続にはこだわるが、他者の非連続に対しては、一瞬は気にかけるが、それを連続して考えようとしない。
天皇は人間であって、人間ではない。普通の肉体の感情を持っていて、同時に普通の人間の感情が欠けている。いや、とういよりも、普通の人間よりももっともっと生々しく人間なのだろう。普通、ひとは、それが偽善と批判されようと、誰かが死んだと知らされれば「あ、そう」という具合には話題を転換できない。もっと立ち止まってしまう。ふいに訪れたものに対して、自分の連続性を維持するために、あれこれと思い悩む。天皇には、そういう連続性がない。欠落にひるむ連続性がない。
明治天皇の歌を引用しながら天皇が「平和」について思いめぐらすシーンがあるが、これは天皇の本当のこころなのか。そうではなく、国民の平和について常に考慮するというのが天皇の「日常の仕事」だから、ただそれをしているだけなのではないのか。
この強烈な天皇批判--それに拮抗しうる天皇批判を、きちんと日本語で語れるか。そう問いかけられているような気持ちになった。
イッセー尾形は、スクーロフの強烈な天皇批判を見事に肉体化していた。すべてを「日常」にしてしまっていた。もともと日常にひそむいかがわしさ、いやらしさ、それと同時に存在する悲哀さを肉体化してきた役者だが、この映画では、その日常的肉体の特権的ともいうべき演技が冴え渡っている。何もかもが天皇の肉体の中で日常となり、連続していく。「敗戦」(玉音放送)というような画期的なものは欠落して平気である。東京大空襲にさえ、天皇が愛着を感じている魚が出てくる。それは悪夢としてだが、悪夢のなかにも、天皇の日常が日常そのままにあらわれるのである。
「日常」、その連続性をどこまでも連続的に延長することで人間の本質を浮き彫りにするイッセー尾形の演技があって、はじめて成立する天皇批判である。