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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アレクサンドル・ソクーロフ監督「太陽」

2006-09-25 23:57:33 | 映画
映画「太陽」
監督 アレクサンドル・ソクーロフ 出演 イッセー尾形、桃井かおり、佐野史郎

 とても印象深いシーンがある。東京大空襲。B29が爆弾を落すのではなく、ハゼだろうか、胸ビレの大きな魚が爆弾のかわりに小さな魚を産み落とす。そして、その魚たちは、地上の炎を気にするでもなく、熱のためにゆらゆら揺れる空気のなかを、悠然と、水中を泳ぐように泳ぎ回る。これはもちろん現実ではなく、昭和天皇の悪夢、あるいは幻想なのだが、そのシーンの映像が、他の天皇のシーンと同質のセピア色のなかに閉じ込められているので、空襲のシーンが幻想なのか、天皇の日常の方が幻想なのか、あるいは両方とも幻想なのか、区別がつかなくなる。
 この区別のなさが一番奇妙なリアリティーで迫ってくるのは、「敗戦」の瞬間、いわゆる「玉音放送」が映像として欠落している部分である。空襲の悪夢・幻想がおわったかと思うと、天皇は突然、皇太子に手紙を書いている。それはまるで、そうしたシーンの前にあった今日の予定の、御前会議があり、生物の研究があり、皇太子に手紙を書くと侍従が告げた1日のできごとのように見えてしまう。「敗戦」という画期的な事件が欠落し、まるで天皇の「日常」だけは何にも影響されずに連続しているという印象で迫ってくる。
 スクーロフがこうした欠落と連続を意識して描いたのだとすれば(たぶん意識していると思うが)、これはたいへんな天皇批判である。今まで私が見てきた(読んできた)天皇批判の中でもっもと鋭い批判である。
 天皇には天皇の日常しかないのである。用意された朝食を食べ、用意された会議に出席し、用意された研究にふけり、「私を愛しているのは皇后と皇太子たちだけだ」という物思いにふける。その世界を守るためには、外交にたけた口ぶりも見せれば、おちゃめなユーモアも見せる。「あ、そう」という独特の、自己と他者を切り離す話法もくりひろげる。
 「敗戦」(玉音放送)という日本人にとってけっして忘れられない瞬間を省略し、そのかわりに、たとえば口臭を気にする姿、どきどきしながら天皇に服を着せる老人の額に浮かぶ汗を見る視線、平家蟹をみつめてうっとり自分の見解に酔い、皇后と皇太子の写真に口づけする姿を描き出す。さらには映画スターの写真を大切そうに眺めたり、チョコレートはもうやらない、と話題をかえたり、講義にやってきた学者を困らせたり、写真撮影で「普通のおじさん」風にポーズをとったり……、と、「現人神」ではなく単なる人間としての、普通の肉体をもった人間としてのあり方だけを、延々と連続させる。天皇には「日常」しかないのである。戦争があろうが、戦争がおわろうが、その「日常」は一貫しているのである。
 こんな奇妙な世界、摩訶不思議な世界があっていいのだろうか。
 ラストで天皇は皇后とたわむれる。そして、皇太子たちが待っている大広間へといそいそと行ってしまう。途中で、「玉音放送」に立ち会った技術者が自害したと知らされる。そのとき別の侍従は止めたのか、と質問する。侍従は「いいえ」と答える。それに対して天皇は「あ、そう」とだけ言って、大広間へ皇后と手をつないで行ってしまう。
 自分の家族、自分の日常への連続にはこだわるが、他者の非連続に対しては、一瞬は気にかけるが、それを連続して考えようとしない。
 天皇は人間であって、人間ではない。普通の肉体の感情を持っていて、同時に普通の人間の感情が欠けている。いや、とういよりも、普通の人間よりももっともっと生々しく人間なのだろう。普通、ひとは、それが偽善と批判されようと、誰かが死んだと知らされれば「あ、そう」という具合には話題を転換できない。もっと立ち止まってしまう。ふいに訪れたものに対して、自分の連続性を維持するために、あれこれと思い悩む。天皇には、そういう連続性がない。欠落にひるむ連続性がない。
 明治天皇の歌を引用しながら天皇が「平和」について思いめぐらすシーンがあるが、これは天皇の本当のこころなのか。そうではなく、国民の平和について常に考慮するというのが天皇の「日常の仕事」だから、ただそれをしているだけなのではないのか。

 この強烈な天皇批判--それに拮抗しうる天皇批判を、きちんと日本語で語れるか。そう問いかけられているような気持ちになった。

 イッセー尾形は、スクーロフの強烈な天皇批判を見事に肉体化していた。すべてを「日常」にしてしまっていた。もともと日常にひそむいかがわしさ、いやらしさ、それと同時に存在する悲哀さを肉体化してきた役者だが、この映画では、その日常的肉体の特権的ともいうべき演技が冴え渡っている。何もかもが天皇の肉体の中で日常となり、連続していく。「敗戦」(玉音放送)というような画期的なものは欠落して平気である。東京大空襲にさえ、天皇が愛着を感じている魚が出てくる。それは悪夢としてだが、悪夢のなかにも、天皇の日常が日常そのままにあらわれるのである。
 「日常」、その連続性をどこまでも連続的に延長することで人間の本質を浮き彫りにするイッセー尾形の演技があって、はじめて成立する天皇批判である。

コメント (2)
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山之内まつ子『小匙1/2の空』

2006-09-25 23:00:15 | 詩集
 山之内まつ子『小匙1/2の空』(ジャプラン)。
 ことばの動き方、特に「省略」に特徴がある。たとえば「アピタイト(Ⅱ)」の2連目の2行。

冷凍庫に吊られていた
みごとに省略された家畜

 「省略された家畜」とは皮をはがれ、内臓を処理され、肉と骨だけになった牛や豚のことであろう。切り分ければ、そのまま店頭に並べられる状態になる肉塊のことであろう。こういうことは私が説明しなくても、つまり「省略」しても、誰にでもわかることがらである。
 こうしたことばの処理が山之内は非常にうまい。強引なことば運びがない。だれにでもわかる(想像できる)範囲で、ことばを省略し、同時に飛躍させる。

 「省略」(私は、「省略」を山之内の「キイワード」だと考えている)とは、単になにかを省いているだけではない。特に山之内の「省略」は単になにかを省いたものではない。「省略」は「飛躍」を含んでいる。いや、「飛躍」するために「省略」がおこなわれている。そこに特徴がある。そして、その「飛躍」を大きく見せるために、一種の「過剰」が同時におこなわれる。それが山之内のことばの特徴だと思う。
 
冷凍庫に吊られていた
みごとに省略された家畜

 という2行では、家畜をし、皮をはぎ、内臓を捨てるといった作業が文字通り「省略」されている。そして、その「省略」した作業、人間と牛や豚との直接的な関係を「過剰」に伝えるために「家畜」ということばが選ばれている。
 山之内が「みごとに省略された家畜」と表現したものを、普通は「きれいに解体処理された牛(豚)」と言うだろうと思う。山之内は普通は「牛(豚)」と言うものを「家畜」と言う。ことばに対する感覚は人それぞれだから私と違った風に感じる人がいるかもしれないが、私は「牛(豚)」ということばよりも「家畜」の方に生々しい動物のにおいを感じる。山之内は「家畜」ということばで、そこに生きもののにおいを「過剰」に表現していると思う。「牛(豚)」ということば以上に、それを育てているときの、面倒くささというか、人間の側も汚れてしまう雰囲気が農耕に伝わってくる。そしてこの「過剰」さは、それに先立つ「省略」ということばによって、いっそう強められている。人間が直接、し、皮を剥いだり、内臓を捨てたりしているのに、そういう血まみれの作業のありようはなかったかのように「省略」されている。一方で人間の肉体が汚れる(直接他者とかかわる)部分が省略され、他方で人間の肉体が汚れるという関係が濃密に(過剰に)暗示される。
 この「省略」と「過剰」のバランスが、山之内のことばにおいては、とてもスピードがある。そして安定している。そのため、とても安心して読むことができる。そして、そこに描かれる「省略」と「過剰」は基本的には「頭脳」で判断することばなのだが、どこか肉体を刺激する。人間の肉体の汚れる感じを呼び覚ます--その汚れに対する嫌悪と安心を呼び覚ます。山之内のことばには肉体の裏付けがある、という印象が残り、「省略」と「過剰」がつくりだす言語宇宙へスムーズに入っていける。

 「ストーン」のなかにも印象的な行がある。2連目の第1行

このてのひらは最近 石を投げたがる

 「石を投げたがる」のはもちろん「てのひら」ではないだろう。基本的に「てのひら」の所有者、人間の方である。人間の精神、感情、頭脳である。ところが、それを山之内は逆に書く。肉体の動きたがるうずうずしたもの、そのことばにならないものを追いかけて「投げたがる」という感情が生まれる。精神が生まれる。まず肉体が立ち上がり、そのあとから脳がやってくる。
 明晰な頭脳である前に、不透明な肉体を生きている--という感じがあって、はじめて、この行の「省略」と「過剰」が納得できる。
 このとき山之内の感情(精神・脳)がどんな風に動いたかは全部「省略」され、かわりに肉体の動きだけが「過剰」に描かれる。てのひらが石を投げたがることなどないのに、まるでてのひらに感情があるかのように描かれる。てのひらに感情が、そして意志が「過剰」に付与されているのである。



 比喩とは「省略」と「過剰」の相互作用によって成り立つ。ある存在のある部分が「省略」され、別の部分が「過剰」に描かれるとき、それはその存在を離れ、比喩になり、象徴になる。
 そうしたことがらを意識した上で「シード」を読むと、そこに描かれているものがよくわかるし、また、山之内の言語処理の安定感(これは「省略」と「過剰」のバランス、距離感が崩れない、という意味である)もよくわかると思う。
 ここには、なにかに対する怒り--そこから燃え上がる火。そしてそれが肉体に作用する様子が、火という比喩から出発し、歴史や音楽を揺り動かして、ひとりの人間を生成していく感じが的確に描かれている。

枯れ草から火の手があがる
わたしは高熱で枕に沈んでいる
地下に眠っている歴史が音符に変換され
ピアニッシモ/フォルテッシモで交互にわたしを叩く
火の種は思いのままに乱診しているだろう
わたしはひたいに類焼を感じとる
ここから遠い空き地が火事だ
半ばモーローと来る幻視
火の種とわたしの躯が
仲のよい双子のように宙に並ぶ
焼けてしまえば美しい地勢たちだ
と見物人らがそろってつぶやく
           (谷内注・9行目の「躯」は原文では正字体)



 山之内の詩でひとつだけ私が気になるのは、比喩の「省略」と「過剰」のバランスのよさの一方で、その比喩がなんとなく古くさいことである。「シード」が特徴的だけれど、怒り→火→高熱といったような比喩の連続は山之内がことばにする以前からすでに存在していて、そうした安定した比喩に依存している感じが残ることだ。
 この安定感は、それはそれでいいのだけれど、もっと違ったことば、まだ誰も比喩にしていない世界へとことばを広げていってもらいたいという気持ちがつのる。

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