詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

車谷長吉、新藤凉魚、高橋泣魚「地球一周航海三吟歌仙 赤道越ゆるの巻

2006-09-15 23:39:38 | 詩集
 車谷長吉、新藤凉魚、高橋泣魚「地球一周航海三吟歌仙 赤道越ゆるの巻」
 進藤涼子、高橋順子の連詩『地球一周航海ものがたり』(思潮社)に付録(?)の形で収録されている。車谷長吉の句が飛び抜けておもしろい。わがままだからである。
 名残の表の4句。

目ェ噛んで死ねとおかんに言はれたる   泣
寝ころんで見るテレビのシーン      涼
隣室で南無阿弥陀仏となへけり      長
老いの恋路や灰となるまで        泣

 「死」「南無阿弥陀仏」では句が逆戻りしてしまう。ひきずられて「灰」まででてきてしまう。歌仙としては、たぶん、よくない部分なのだろうけれど、そのよくない部分に3人の人間性のようなものが伺え、楽しい。
 破綻の原因は、実は、これに先立つ「裏」の11句目、春・花の定座で車谷が

世界虫花爛漫に帰国する  (谷内注・「虫」は正確には「虫」が3個重なった漢字)

と読んだことに始まる。歌仙が折り返さないうちに、そして世界一周の旅がおわらないうちに「帰国」してしまった。車谷としては「帰国する」の「する」に帰途へ向かう現在の姿を託したのかもしれないが、現在形・過去形のあいまいな日本語では、この「帰国する」を「帰国した」と理解するのが普通だろう。
 新藤と高橋が「歌仙」というひとつの世界をめざしてことばを動かしているのに対して、車谷は「歌仙」を気にしていない。いま、そこにあることば、現在しか気にしていない。「場」を気にしていない。
 「場」とは「歌仙」にあっては「空気」である。「間」である。人と人、句と句の距離である。距離がつくりだす広がりである。しかし車谷にとっては「場」とは自分がいるかいないかだけのことなのだと思う。自分がいる。そこが「場」なのである。距離を優先させるために自分を隠す、他人を立てるというようなことには関心がない。そんなことはほかの2人にまかせておけばいい、ということかもしれない。
 車谷の句が、新藤と高橋の世界を叩ききる。そのときあらわれる世界の断面に向き合って、もういちど新藤と高橋が世界をゆっくりと積み上げる。それをまた車谷が叩ききる。その動きがなんともいえず不思議で楽しい。

 車谷が

隣室で南無阿弥陀仏となへけり

と「けり」という切れ字までつかってしまって世界を断ち切ってしまったために、高橋はしどろもどろで

老いの恋路や灰となるまで

と詠んだのだろう。この句の運び具合は「歌仙」というより車谷・高橋の「私小説」そのものを見るようで、そしてそのおもしろさが車谷のわがままが巻き起こしているということまで照らしだしているようで、なんとも興味深い。
 もっとも私は二人の知らないのだから、そういうことまで想像させてくれて楽しい、と言い換えるべきなのだが……。

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