古谷鏡子「ものがたり」(「六分儀」27)。
「物語をつくりたいとねがっている」という行で始まるこの作品は、「物語」について、「物語」というときの「もの」について、次のように定義している。
物語なのだから なにかを語らなければならない おおきな声で
ものとは物ではない なにか かたちのない不確かなもの
もののあはれ ものがなしくものさびしくときにはもの笑いの種になり
朝 朝の光がまぶしい 散乱する光のなかの鳥たちはかえってこなかった
夜の底のほうでなにごとが起きたのか あっけなくかれらは巣を放棄する
この定義は私もそうだと思う。同時に、その「もの」は「こと」から生まれてくるとも思う。古谷は「なにごとが起きたのか」という表現のなかで「こと」に出会っている。しかし、それは意識されていない。そのために「もの」が立ち上がってこない。
「こと」がきちんと書かれていれば、その「こと」が中途半端であっても「もの」はくっきりと立ち上がり、中途半端は「余韻」にかわる。
遠い朝 目覚めるまえのずっとずっとむこう
深いところに生きている 夜 きつい花の香りがみちてくるとき
手さぐりで 女は 花の香りを編みこむように物語の発端をさがしている
これは先に引用した行に先立つことばだが、こんなふうにいきなり「もの」を探すから「ものがたり」は生まれないのだ、と思ってしまう。
「こと」を語っていけば、それは自然に「ことがたり」ではなく「ものがたり」になる。「こと」をないがしろにしてはいけないのだと思う。
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同じ号の樋口伸子「ペコちゃんと親友」。古谷が「もの」と呼んでいたものを樋口は「気配」と呼んでいる。
博多区中洲三丁目のかど
を曲がるときはご用心ください
声のない笑いの波動に出会うから
気配ですよ けはい
ペコちゃんの
街角に「ペコちゃん人形」がある。それは「物」があるのではなく、「ある」という「こと」なのである。「ある」ことと「ない」ことを比較すればいいかもしれない。「ある」ということによって気配が生まれてくる。そこから何かが始まる。ペコちゃん人形がそこに存在するという「こと」によって意識が動く、精神が動く、感情が動く。そこから物語も詩も始まる。
この街がいく度も再開発で変わる前
歓楽街の入口の路面電車が走る大通りに
映画館と喫茶店とバンビと洋裁店と
寿司屋と飲み屋とレコード店と本屋と
デパートの上には虎と大蛇と熱帯魚
小さな観覧車と稲荷神社と鳩が
幸せにひしめきあって
わにわにわに 暑苦しい笑いのお面
大橋の上には物乞いの兄と妹
あ 兄さんと幼いわたし
だったかもしれない一瞬だけ
電車が存在する「こと」、さまざまな店が存在する「こと」--そうした「こと」は「物」に頼らないと表現できない。「物」に頼りながら書き、そうし書いたことが「物」ではなくて、「こと」に変わったと、そこから「ものがたり」も「詩」も始まる。
わにわにわに
この不思議な笑いの描写。それは「もの」ではない。「こと」でもない。「こと」になりきれる前のなまなましい「詩」である。「もののあわれ」にも「ものがなしさ」にも縁がない。人の意識、感情を逆撫でするかのように、ただそこに存在する。だからこそ、その奇妙な「詩」をくぐりぬけると、人は自分を忘れてしまう。
大橋の上には物乞いの兄と妹
あ 兄さんと幼いわたし
だったかもしれない一瞬だけ
この「一瞬」をもう一度さまざまな「こと」、たとえば家族、家、街の「できごと」のなかで再構成すれば「ものがたり」になる。そうではなくて「わにわにわに」から始まる不気味さを、ただその不気味さのまま実体化しようとしていけば「詩」がさらに強い形で立ち上がる。
「できごと」には順序がある。緊密な関係がある。そうした時間・空間を無視して、ただ「わにわにわに」につながる「こと」だけを、一瞬という時間のうちへ引き寄せると「詩」になる。
もう一人の双生児みたいな男の子
夜ふけに二人手をつないで
散歩していたのを知っている
仲よくわにわにわに
その笑顔がこわかったよ
あれは誰?
「ポコちゃん」の発見は「わにわにわに」という笑いのなかで「できごと」として立ち上がってくる。「こわい」からこそ忘れたかったのに、「こわい」からこそ引き寄せられていく。その矛盾のなかに「ものがたり」もあれば「詩」もある。
樋口のこの作品は「わにわにわに」という「もの」(気配、けはい)を古い路面電車や映画館、喫茶店、レコード屋、さらには見せ物小屋めいたデパートの屋上という「事実」(実際に存在するもの)を描くことで手触りのあるものに変えている。「もの」に手触りを与えるという文学の基本をきちんと知っていて、それを実践している安心感が、この作品にはある。