詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山岡遊「第一回『ヴィクトリアマイル』に捧ぐ」

2006-09-05 23:23:19 | 詩集
 山岡遊「第一回『ヴィクトリアマイル』に捧ぐ」(「犯」29)。
 タイトルは「第一回『ヴィクトリアマイル』に捧ぐ」だが、同時に「アレン・ギンズバーグに捧ぐ」といった感じの詩である。山岡は競馬場にいて、アレン・ギンズバーグを思っている。その前半が美しい。

走り梅雨に
アレン・ギンズバーグを偲ぶ
158ページからの詩「アメリカ」は
わたしが生まれる
ちょうど四日前に
バークリーで書かれたらしい
あれから五十年
吐しゃするにふさわしい歴史と弁疏
まるで陰間の撒き散らす
透明な精液のようだった
わたしは今日
新しく創設されたレース
第一回『ヴィクトリアマイル』の連単馬券を
ポケットに入れ
東京競馬場の二階席を徘徊している

 美しいけれど、ちょっとつまずく。「陰間の撒き散らす/透明な精液」が山岡の実感なのかどうか私にはわかりかねた。実感ならいいのだけれど、どうもことばだけのように思える。肉体が感じられない。
 「陰間」はもう一度出てくる。

アメリカはまるで
大興行団体WWEプロレスの
常軌を逸した巨漢レスラー、マーク・ヘンリーの下半身と
冷徹な殺し屋と呼ばれるHHHの上半身に
スクリーンから飛び出したダーティハリーの顔をのせ
チャールトンヘストンの
銃で出来た両手をトレンチコートのポケットに隠し
マイケルジャクソンの腰つきでやってくる
私こそ日本 日本こそ私 老いた陰間

 日本が陰間というとき、アメリカは何だろうか。弱々しい少年を犯す巨漢の男色家ということになるのだろう。巨漢レスラー以降の描写はそれをあらわしているのだろう。(マイケル・ジャクソンがそうした巨漢の部類に入るとは私は思わないが……。)
 この構図はかなり図式的である。巨漢を描きながら肉体が不在である。「陰間の撒き散らす/透明な精液」に向き合う「濃厚な精液」がない。あるいは性交がない。肉体としての接触がない。
 ここからは悲しみも愛憎も切なさも生まれない。

 ギンズバーグと山岡、アメリカと日本--その関係が、「陰間の撒き散らす/透明な精液」というような、切実な比喩を媒体にしてつながらない。肉体が精神によってないがしろにされている。そこに不満を覚えた。
 肉体にはもっと丁寧に向き合ってもらいたい。

コメント
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