詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

映画「マッチポイント」

2006-09-06 11:52:57 | 詩集
監督 ウディ・アレン 出演 スカーレット・ヨハンソン、ジョナサン・リース・マイヤーズ

 この映画で一番美しいのはオペラのアリア(テノール)とともに流れるノイズである。CDではなくLP、そのアナログのノイズがとても温かい。ノイズがあるからこそ、そのノイズを越えてやってくるテノールが、こころの声として聞こえる。
 人間の生活はノイズに満ちている。ノイズに邪魔されて、本当のこころの声が出せない、聞こえないというのではない。
 たとえばジョナサン・リース・マイヤーズ。上流階級の生活を手放したくないというノイズのためにスカーレット・ヨハンソンとの愛の日々を成就できないというのではない。あるいはスカーレット・ヨハンソンへの愛欲というノイズのために上流階級の生活が破綻してしまうというのではない。どちらかがノイズであり、どちらかが本心というのではない。それは同時に存在する。
 ひとの「声」は瞬間瞬間に別のもの、矛盾するものとして表にでてきてしまう。どちらが出てくるかは、普通のひとには制御できない。それはこの映画の「テーマ」のようにして語られるテニスでのネットの上で弾んだボールのようなものだ。運がよければ相手のコートに落ち、運が悪ければ自分のコートに落ちる。自分のしたことなのに、自分では制御できず、一種の「運」任せである。
 そして「上流社会」とは、さまざまな「運」というものを見てきて(たとえば、音楽や芸術、スポーツに触れることで)、知らず知らずに「運」とはどういうものか、どんなふうにして働くかを、体得した人々のことである。(普通の人々は、さまざまな運の働きを傍観できるだけの時間的余裕がない。)
 そういう意味では、主人公のジョナサン・リース・マイヤーズは「運」を体得することで上流社会の一員となるのだが、その上流社会そのものも、最後にはノイズとして立ち上がってくる。あ、ほんとうに求めていたのは、これではなかったかもしれない、という寂しい表情として浮かびあがってくる。
 皮肉たっぷりのオチに、あらためてウディ・アレンの天才を感じた。
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永島卓『永島卓詩集』(その5)

2006-09-06 11:28:54 | 詩集
 永島卓『永島卓詩集』(砂子屋書房版「現代詩人文庫」)。(その5)
 『なによりも水が欲しいと叫べば』(1984年)。
 「新川橋」「水門橋」「鼬橋」……と橋が次々にタイトルになって登場する。すべて実在の橋なのだと思う。橋の下の水は「油ヶ淵」に通じているらしい。碧南市へは私は行ったことがないが、おびただしい橋を永島のことばにしたがって渡るとき、とても不思議な気持ちになる。橋の一つ一つは別個なものなのに、必ずそこで永島に出会うので、どれもこれもが区別がつかなくなる。その区別のつかない濃密さのなかで、私は酔っぱらってしまう。ことばのうねりに。ここにあるのは橋ではなく、永島の肉体である。ことばをうねらせる永島の肉体である。
 「明治橋」の書き出しの2行。

風景が老いるように油ヶ淵の人称にまつわるわたしの幻
 想はどこまでも捨てきれぬ残党としてのみ成立する橋
 を囲みながら少しずつ腐敗していた

たえまなく跫音が去ってゆくとき歳月とともに孤立する
 わたしの橋はだれに告げることもなく累積した感情の
 債務を背負い風土の陰で息づくものたちを見つめてい
 た

 このうねる文体は、主語・述語・修飾節というふうに分析しても、何かがわかるわけではないと思う。1行目は「わたしの幻想は」(主語)「腐敗していた」(述語)と分析できるかもしれない。2行目は「わたしの橋は」(主語)「見つめていた」(述語)と分析できるかもしれない。だが、そう分析したところで、いったいどうなるわけでもない。「明治橋」の何がわかるわけでもない。そこからどんな風景が見えるのか。たとえば市役所が見えるのか、鉄橋が見えるのか、学校が見えるのか。「橋」を書きながら、実は橋そのもの、その橋の意味(碧南市にとってその橋が地理的にどういう意味を持っているか、あるいは歴史的にどういう意味を持っているか)は無視されている。
 ここに書かれているのは「橋」ではないのだ。
 1行目、2行目の主語を「わたしの幻想は」「わたしの橋は」と私は定義してみたが、本当の主語は「幻想」「橋」ではなく、そのことばを修飾する「わたしの」の「わたし」なのである。この2行には「わたしの」という表現はは1回ずつしか登場しないが、本当は無数に「わたしの」が隠されているのだ。

(わたしの)風景が老いるように(わたしの)油ヶ淵の(わたしの)人称にまつわるわたしの幻想はどこまでも捨てきれぬ(わたしの)残党としてのみ成立する(わたしの)橋を囲みながら少しずつ腐敗していた

 ここに省略されている「わたし」は少しずつ違っている。つまり、「わたし」とはいつでも一人であるけれど、常に一人以上「わたしたち」という存在であり、ある一瞬一瞬において「わたしたち」を構成する世界は違う。「風景が老いる」と感じる「わたし(たち)」、「残党」という意識を持つ「わたし(たち)」……。それぞれに違っているけれど、そのどれもが「わたし」にとっては、「わたしの」肉体から切り離すことができないものである。「わたしの」肉体のなかにうごめき、ことばになろうとしている。ことばになろうとしてなりきれなず、すべてがからみあい、粘着質をつくっている。「わたし」とからみあうというより、書かれていない「わたし(たち)」とからみあい、強い粘着力で結びついている。そのために一直線にことばは動かない。必ず、うねる。
 そのうねりのなかで、これは「わたし(たち)」とは矛盾したいい方になってしまうが、永島は「わたし(たち)」から「わたし」を引き剥がし、「わたし」そのものになろうとする。「わたし(たち)」を生きながら、そのなかで「わたし」とは何なのか問い、「わたし」を引き剥がすことで、同時に「わたし(たち)」を照らしだそうとする。

 「わたし(たち)」を無視して「わたし」と単独で(孤立して)、ことばを動かすことができなれば、永島はもっともっと簡単にことばを動かすことができるだろう。「うねり」のある文体ではなく、だれにでも主語・述語がめいかくにわかる、「意味」の明確な文章を書くことができるだろう。
 だが、永島は、そういうことをしたくないのだと思う。
 「わたし」は常に「わたし(たち)」である。「わたし」は碧南市に住んでいる。そこには無数のひとの生活があり、その生活の積み重なりと永島自身がどこかで重なっている。「見えない橋」が永島と無数のひとをつないでいる。そのつながりのなかに永島は生きている。そのことを無視して「意味」を明確にしても何にもならない。
 ことばは誰かに通じればいいというものではない。ことばはいっしょに生きているひと、触れ合うひととわたしを結ばなければならない。「ひとみさん」(「ひとみさんこらえるとゆうことは」の登場する人物)に語って、それが通じなければ、ことばではないのである。「ひとみさん」につたえるためには、ひとみさんの肉体が吸収できることばでなければならない。肌と肌を重ねるとき、無言で通じる何かがあるが、その無言の力に似たものを取り込むために、永島は無数の「わたし(たち)」をくぐりながら「わたし」を差し出すのである。肉体としてのことばを差し出すのである。

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