詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明+広田泰「僕たちの未来について」

2006-09-16 16:39:43 | 詩集
 豊原清明+広田泰「僕たちの未来について」(「ショタショタすこびっち」7)。
 「ショタショタすこびっち」は手作りの冊子である。イラスト、写真、原稿用紙に書いた詩をコピーしたものである。コピーであるけれど、手の感覚が伝わってくる。原稿用紙には修正の跡も垣間見える。
 「僕たちの未来について」は2連ずつ、交互に書いたと思われる8連の作品である。ここに引用すると手作りの味が半減するが、引用する。

不眠の夜光船が
夜の海原の静けさに眠る
「ぼくは……」と
ぼくは寝床で つぶやく

「絶望なんて、ウソ八百さ」と
窓辺のフクロウが
ぼくに目くばせする
未明

ま青な色をした 海のような
地平をくらって
生へどばっと血で溢れ…

悪夢で見ていた
夢の光を見つけて
ぼくはフクロウを 連れ。

旅連れの フクロウは語る
「コンビニの中の赤ポストから
 宇宙へ
 銀河系へ!! どばっ と!!」

悪夢を
コンビニの駐車場で
おにぎり食って
追いはらい……

ぼくは何とか生きている
明日、好きな女と会う
手に じわっ と 汗をかく

ぼくたちの未来は
夜中と朝焼けの境い目にある。
今日も 若白髪、抜く。「生きろよ」

 広田の書いたと思われる4行ずつの2連が豊原の書いた3行ずつ2連によって、ことばから肉体へと開放されていく。広田の書く海も宇宙も広田にとっては現実なのだろうけれど、まだ、どこか「ことば」にすぎないというか、「ことば」になってしまっている。「頭」のなかで落ち着いている。
 それが豊原に引き継がれると、一気に肉体になる。
 「不眠の夜光船が/夜の海原の静けさに眠る」という夢が(悪夢が)、「悪夢で見ていた/ぼくの光を見つけて」と言いなおされるとき、私が感じるのは(私に見えるのは)、暗い海に浮かんでいる船ではなく、その船を見つける目、肉眼である。悪夢とわかっていて目覚めることができず、脳と目のあいだを動き回る神経の生理のようなものが、私の体のなかで動き回る。覚醒される。
 その生々しい感覚を豊原は自分自身で言い切ってしまわない。「ぼくはフクロウを 連れ。」とことばを開いたまま広田に引き渡している。
 豊原と広田がどういう交流をしているかわからないが、そこに強い信頼関係があることがわかる。きのう触れた車谷の句の断ち切りが高橋への信頼で成り立っているように、この豊原の、開いたままの肉体の提示は、広田への信頼があってこそはじめて可能なものだろう。
 豊原のことばを引き継いで、広田は再び「頭」のなかへ帰るけれど、そこには豊原の肉体が侵入してきているので、もう「頭」だけの世界ではいられなくなる。

悪夢を
コンビニの駐車場で
おにぎり食って
追いはらい……

は、それまでの広田のことばと明らかに異質だ。悪夢で不眠の時間をすごした「ぼく」が悪夢を「おにぎりを食って/追いはら」うなんて、ああ、なんと若い体だ、若い肉体だと感嘆せずにはいられない。コンビニへ駆けつけて、おにぎりを買って、そのまま駐車場でかぶりつきたくなるではないか。
 健康な肉体は健康であることを語ることに恥ずかしさを知らない。健康であることに対する無意識の自慢がある。それが私の肉体のなかに残っている「若さ」のようなものを刺激する。

明日、好きな女と会う
手に じわっ と 汗をかく

今日も 若白髪、抜く。

 この剛直な柔らかさ、あるいは柔らかな強靱さ(矛盾した表現だが、そうとしか言いようがない)は、ことばなのか、肉体なのか、わからない。ことばと肉体が融合して、そこに、つまり目の前にある。そういうものを見ることができるのは、とても幸せだ。



 最近、豊原のことばは少し閉塞的というか自己完結的になってきていると感じていたが、広田とことばを交換することで、豊かに広がってきた。ことばの交換は「交感」であり「交歓」でもあるのだろう。
 春から夏にかけて私は梅田智江と「往復詩」をこころみたが、あ、「往復詩」ではなく「連詩」の方がおもしろかったかもしれない、常に他者に対して開くことをこころがける詩でなければ意味がなかったかもしれないともふと感じた。

 「往復詩」について書いたついでに。
 梅田智江+谷内修三の往復詩集『外を見るひと』が月内に出ます。発行部数が少ないので読みたい方はメールでお申し込みください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする