瀬崎祐「情事」ほか(「風都市」16、2007年冬)。
瀬崎祐「情事」は書き出しが非常に魅力的である。
「もう水に伝染したわよ」が何のことかわからない。そして、このわからなさが「物語」へと関心をひっぱっていきながら、同時に物語から逸脱し、詩でありつづける根拠のようなものだと感じた。
「水」がどう出現し、伝染した結果としてどんなふうにかわっていくのか。ちょっとわくわくする書き出しである。
2連目までは、それがつづいている。
「水」は川となってどこかへ流れていく。「伝染」してしまったものは、川下へ流れるだけであろうか。あるいは流れに逆らって源へと逆流していくだろうか。そのとき、「伝染」はどんなふうに広がり、そこからどんな破壊が、あるいは破滅が、そして破壊・破滅をとおして、そこから何が誕生するだろうか。どんなことばの冒険がはじまるだろうか。
しかし、期待は裏切られる。3連目で、突然「水」が消えてしまう。「水」が消えれば「伝染」も消えてしまう。「皮疹」ももちろん消えてしまう。肉体が消えてしまう。そのかわり「大きな農家」の主、つまり彼女の「父親」という「制度」が出てきて、「情事」は「制度」にのみこまれて、消えてしまう。
「皮疹」「伝染」「水」という三つの肉体を持続できなくなって、「情事」そのものが消えてしまっている。とても残念である。せっかく「水」を書いたのだから、どこまでもどこまでも、小さな隙間を見つけ出して流れつづけてほしかった。そして、その細部から「伝染」が広がり、全体が「病気」になってしまうような詩を読ませてほしかった。
出だしがおもしろいだけに、残念という気持ちが強く残る。
*
川野圭子「日常」は読み進むにつれて、ことばと肉体が交錯し、ことばと思っていたものがだんだん肉体になってきて、「情事」を描いているわけではないのに、なんだか川野の裸を見ているようで、あるいは川野とセックスでもしているような感じに誘い込まれ、生々しくておもしろい。
タイトルが「日常」なのに、描かれているのは「宇宙旅行」である。夢である。そして、そういうありえない夢なのに、それがたしかに「日常」だと感じるのは、川野のことばを動かしているものが肉体と非常に重なり合っているからである。肉体の感覚が「日常」を引き寄せるのである。
最終連。
「じわじわと膝を折り曲げて 足首を引き寄せ」。このリアルな肉体を動かすときの描写がいい。描かれているのは川野の肉体なのに、ことばを読んでいるだけで、自分で自分の膝を折り曲げて足首を引き寄せているような気持ちになってくる。川野の肉体と私の肉体がぴったり重なって動く。「情事」という印象はここから生まれる。他人の肉体の動きを自分の動きとして感じるのは、セックスの一番の醍醐味である。そして、こういう肉体の感覚は、たしかに「日常」なのだ。「日常」だからこそ、私たちはそれを共有する。
宇宙旅行なのに「日常」というタイトル--しかし、この詩を最後まで読むと、これは「日常」以外のタイトルであっては困るという気持ちになる。
「情事」というのは「物語」ではなく、たぶん「日常」なのだ。
「情事」を描いたものに「情事」を感じず、「日常」を描いたものに「情事」を感じてしまう。その差は、たぶん、肉体をどこまで「物語」のなかで維持しつづけているか、いないかにかかっている。肉体を手放した瞬間、すべての「情事」は消える。逆に肉体さえ手放さなければ何を描いても「情事」になりうる。「日常」はあらゆる瞬間において「情事」になりうる危険(?)な誘惑として広がっているのだ。
川野圭子の作品を読むのは、私にとっては、たぶん初めての経験である。川野圭子という詩人は私には記憶にない。しかし、きょうからしっかりと記憶に残った。とてもおもしろい詩人だと思う。
瀬崎祐「情事」は書き出しが非常に魅力的である。
彼女の実家は大きな農家だ。家人が出払った昼下がりに情欲がつのり、庭に面した座敷の障子を閉めて、彼女と二人で布団の上に横たわる。薄い胸をはだけると、乳頭のように見えていたのは小さな皮疹であった。もう水に伝染したわよ、かすれた声で告げる彼女の顔は、いつのまにか皮疹だらけになっている。
「もう水に伝染したわよ」が何のことかわからない。そして、このわからなさが「物語」へと関心をひっぱっていきながら、同時に物語から逸脱し、詩でありつづける根拠のようなものだと感じた。
「水」がどう出現し、伝染した結果としてどんなふうにかわっていくのか。ちょっとわくわくする書き出しである。
2連目までは、それがつづいている。
布団のなかの暗闇には絶え間ない川音が充ちている。そういえば、彼女の家系は川からやってきたのだった。
「水」は川となってどこかへ流れていく。「伝染」してしまったものは、川下へ流れるだけであろうか。あるいは流れに逆らって源へと逆流していくだろうか。そのとき、「伝染」はどんなふうに広がり、そこからどんな破壊が、あるいは破滅が、そして破壊・破滅をとおして、そこから何が誕生するだろうか。どんなことばの冒険がはじまるだろうか。
しかし、期待は裏切られる。3連目で、突然「水」が消えてしまう。「水」が消えれば「伝染」も消えてしまう。「皮疹」ももちろん消えてしまう。肉体が消えてしまう。そのかわり「大きな農家」の主、つまり彼女の「父親」という「制度」が出てきて、「情事」は「制度」にのみこまれて、消えてしまう。
「皮疹」「伝染」「水」という三つの肉体を持続できなくなって、「情事」そのものが消えてしまっている。とても残念である。せっかく「水」を書いたのだから、どこまでもどこまでも、小さな隙間を見つけ出して流れつづけてほしかった。そして、その細部から「伝染」が広がり、全体が「病気」になってしまうような詩を読ませてほしかった。
出だしがおもしろいだけに、残念という気持ちが強く残る。
*
川野圭子「日常」は読み進むにつれて、ことばと肉体が交錯し、ことばと思っていたものがだんだん肉体になってきて、「情事」を描いているわけではないのに、なんだか川野の裸を見ているようで、あるいは川野とセックスでもしているような感じに誘い込まれ、生々しくておもしろい。
タイトルが「日常」なのに、描かれているのは「宇宙旅行」である。夢である。そして、そういうありえない夢なのに、それがたしかに「日常」だと感じるのは、川野のことばを動かしているものが肉体と非常に重なり合っているからである。肉体の感覚が「日常」を引き寄せるのである。
最終連。
お客はまばらで 皆シートに座っている。
私もシートまで行きたいのに 下半身が伸びて 這ったままだ。
じわじわと膝を折り曲げて 足首を引き寄せ
やっとの思いで立ち上がることができた。
立って歩くって良いものよねー。
と前に座っている青年に話しかけたら
つるぴかの眉目をピクッと動かしたか動かさなかったか。
宇宙人だと思った。
「じわじわと膝を折り曲げて 足首を引き寄せ」。このリアルな肉体を動かすときの描写がいい。描かれているのは川野の肉体なのに、ことばを読んでいるだけで、自分で自分の膝を折り曲げて足首を引き寄せているような気持ちになってくる。川野の肉体と私の肉体がぴったり重なって動く。「情事」という印象はここから生まれる。他人の肉体の動きを自分の動きとして感じるのは、セックスの一番の醍醐味である。そして、こういう肉体の感覚は、たしかに「日常」なのだ。「日常」だからこそ、私たちはそれを共有する。
宇宙旅行なのに「日常」というタイトル--しかし、この詩を最後まで読むと、これは「日常」以外のタイトルであっては困るという気持ちになる。
「情事」というのは「物語」ではなく、たぶん「日常」なのだ。
「情事」を描いたものに「情事」を感じず、「日常」を描いたものに「情事」を感じてしまう。その差は、たぶん、肉体をどこまで「物語」のなかで維持しつづけているか、いないかにかかっている。肉体を手放した瞬間、すべての「情事」は消える。逆に肉体さえ手放さなければ何を描いても「情事」になりうる。「日常」はあらゆる瞬間において「情事」になりうる危険(?)な誘惑として広がっているのだ。
川野圭子の作品を読むのは、私にとっては、たぶん初めての経験である。川野圭子という詩人は私には記憶にない。しかし、きょうからしっかりと記憶に残った。とてもおもしろい詩人だと思う。