詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

瀬崎祐「情事」ほか

2007-02-06 22:14:32 | 詩(雑誌・同人誌)
 瀬崎祐「情事」ほか(「風都市」16、2007年冬)。
 瀬崎祐「情事」は書き出しが非常に魅力的である。

彼女の実家は大きな農家だ。家人が出払った昼下がりに情欲がつのり、庭に面した座敷の障子を閉めて、彼女と二人で布団の上に横たわる。薄い胸をはだけると、乳頭のように見えていたのは小さな皮疹であった。もう水に伝染したわよ、かすれた声で告げる彼女の顔は、いつのまにか皮疹だらけになっている。

 「もう水に伝染したわよ」が何のことかわからない。そして、このわからなさが「物語」へと関心をひっぱっていきながら、同時に物語から逸脱し、詩でありつづける根拠のようなものだと感じた。
 「水」がどう出現し、伝染した結果としてどんなふうにかわっていくのか。ちょっとわくわくする書き出しである。
 2連目までは、それがつづいている。

布団のなかの暗闇には絶え間ない川音が充ちている。そういえば、彼女の家系は川からやってきたのだった。

 「水」は川となってどこかへ流れていく。「伝染」してしまったものは、川下へ流れるだけであろうか。あるいは流れに逆らって源へと逆流していくだろうか。そのとき、「伝染」はどんなふうに広がり、そこからどんな破壊が、あるいは破滅が、そして破壊・破滅をとおして、そこから何が誕生するだろうか。どんなことばの冒険がはじまるだろうか。
 しかし、期待は裏切られる。3連目で、突然「水」が消えてしまう。「水」が消えれば「伝染」も消えてしまう。「皮疹」ももちろん消えてしまう。肉体が消えてしまう。そのかわり「大きな農家」の主、つまり彼女の「父親」という「制度」が出てきて、「情事」は「制度」にのみこまれて、消えてしまう。
 「皮疹」「伝染」「水」という三つの肉体を持続できなくなって、「情事」そのものが消えてしまっている。とても残念である。せっかく「水」を書いたのだから、どこまでもどこまでも、小さな隙間を見つけ出して流れつづけてほしかった。そして、その細部から「伝染」が広がり、全体が「病気」になってしまうような詩を読ませてほしかった。
 出だしがおもしろいだけに、残念という気持ちが強く残る。



 川野圭子「日常」は読み進むにつれて、ことばと肉体が交錯し、ことばと思っていたものがだんだん肉体になってきて、「情事」を描いているわけではないのに、なんだか川野の裸を見ているようで、あるいは川野とセックスでもしているような感じに誘い込まれ、生々しくておもしろい。
 タイトルが「日常」なのに、描かれているのは「宇宙旅行」である。夢である。そして、そういうありえない夢なのに、それがたしかに「日常」だと感じるのは、川野のことばを動かしているものが肉体と非常に重なり合っているからである。肉体の感覚が「日常」を引き寄せるのである。
 最終連。

お客はまばらで 皆シートに座っている。
私もシートまで行きたいのに 下半身が伸びて 這ったままだ。
じわじわと膝を折り曲げて 足首を引き寄せ
やっとの思いで立ち上がることができた。
 立って歩くって良いものよねー。
と前に座っている青年に話しかけたら
つるぴかの眉目をピクッと動かしたか動かさなかったか。
宇宙人だと思った。

 「じわじわと膝を折り曲げて 足首を引き寄せ」。このリアルな肉体を動かすときの描写がいい。描かれているのは川野の肉体なのに、ことばを読んでいるだけで、自分で自分の膝を折り曲げて足首を引き寄せているような気持ちになってくる。川野の肉体と私の肉体がぴったり重なって動く。「情事」という印象はここから生まれる。他人の肉体の動きを自分の動きとして感じるのは、セックスの一番の醍醐味である。そして、こういう肉体の感覚は、たしかに「日常」なのだ。「日常」だからこそ、私たちはそれを共有する。
 宇宙旅行なのに「日常」というタイトル--しかし、この詩を最後まで読むと、これは「日常」以外のタイトルであっては困るという気持ちになる。

 「情事」というのは「物語」ではなく、たぶん「日常」なのだ。
 「情事」を描いたものに「情事」を感じず、「日常」を描いたものに「情事」を感じてしまう。その差は、たぶん、肉体をどこまで「物語」のなかで維持しつづけているか、いないかにかかっている。肉体を手放した瞬間、すべての「情事」は消える。逆に肉体さえ手放さなければ何を描いても「情事」になりうる。「日常」はあらゆる瞬間において「情事」になりうる危険(?)な誘惑として広がっているのだ。

 川野圭子の作品を読むのは、私にとっては、たぶん初めての経験である。川野圭子という詩人は私には記憶にない。しかし、きょうからしっかりと記憶に残った。とてもおもしろい詩人だと思う。

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オリヴィエ・マルシャル監督「あるいは裏切りという名の犬」

2007-02-06 01:24:41 | 映画
監督 オリヴィエ・マルシャル 出演 ダニエル・オートゥイユ 、ジェラール・ドパルデュー 、アンドレ・デュソリエ 、ヴァレリア・ゴリノ 、ロシュディ・ゼム 、ダニエル・デュヴァル

 フランス映画を見ていて一番奇妙に感じるのは距離感である。役者と役の距離感、役者と役者の距離感が、べっりとくっついている感じがする。映画なのにストーリーではなく、常に役者そのものを見ている感じがつきまとう。役者の肉体が必要以上に役を乗り越えて前面に出てくる。
 ダニエル・オートゥイユとジェラール・ドパルデューはともに鼻と目に特徴がある。
 ダニエル・オートゥイユ の鼻は左右が極端に違っていて、しかも大きい。目はなんだか濡れていて、いつも自分の内部を、あるいは親密な人間の内部を見つめている。内部が犯されること、踏みにじられることを、いつも心配している。その手触りのような感じが不思議だ。目を見ていると、ダニエル・オートゥイユに触れる感じがする。
 ジェラール・ドパルデューの鼻の頭は割れている。そして大きい。目は、内部をのぞかれることを拒絶し、そして他人の内部へも入っていかない。まるで人間に内部というものなどないかのように他人を見つめる。ただ外部だけをなめまわし、平気で内面を拒絶する。そこにも手触りがある。払いのけたいような、いやな感じがある。それはそれで、ジェラール・ドパルデューに触れている感じがする。
  そして、その人間性というのが、どうも触覚的なのである。視力というのは離れていて(目と対象の間に距離があって)初めて成立するものだが、二人の目は、触覚のように肉体に絡みついてくる。--二人の目は、もちろん演技なのだろうけれど、その演技に乱れがないために、それがそのまま二人の人間性のようにして迫ってくる。
 たぶん、この触覚的な視線のためなのだと思うが、この映画にはハードボイルドという感じがない。そしてストーリーを映像を媒介にして見ているという感じもしない。はらはらどきどきという感じがまったくなく、生々しい肌触りだけがある。その生々しさに、思わず触ったものを握りしめたり、逆に、ぎょっとして手をひっこめたりするような肉体の反応がつきまとう。ストーリー手はなく、その瞬間瞬間の手触りの変化に引き込まれ、揺さぶられるのである。
 この手の映画をフランス語でフィルム・ノワールという。黒い映画。黒いは「暗黒街」というような意味合いだが、そのノワールから私は別のことを感じた。この映画を見たあと、その印象が強くなった。
 黒--暗闇。そこでは視力は何もとらえない。暗闇では人間は手さぐりである。手で触って、それが何かを確かめる。それがそのまま映画になる。それがフィルム・ノワールだ。
 暗闇の中で、手は思いがけないものに触る。たとえばダニエル・オートゥイユの「信頼」という手触りに。「信頼」を何があっても守り抜く。その確かさ、強固な拳の感触に安心する。握りしめるということは、それがたとえ自分を傷つけるものであっても手放さないということだ。
 また逆に、ジェラール・ドパルデューの「裏切り」に。「手のひらをかえす」という日本語があるが、それはダニエル・オートゥイユの握りしめる手とはまったく逆だ。開かれた手は無防備のように見えて、自分をけっして傷つけず、他者をぱっとほうりだす強暴さをもっている。その強暴さに、ぞくっとする。
 ハリウッドの「ハード・ボイルド」あるいは「ギャング」映画には、はらはらどきどきがあるかもしれない。フランス映画のフィルム・ノワールには、はらはらどきどきのかわりに、ほっとする安心感と、それとは逆のぞくっとする恐怖感がある。どちらも手触りである。それは目では見えない。暗闇の中で、手さぐりで、触ったときに感じるだけのものである。その感じ--それを目でみることは、ふつうはできない。その目で見えない手触りをこの映画は再現している。二人の役者は再現している。
 強烈である。
コメント (3)
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