北爪満喜「表面張力、並べて」ほか(「モーアシビ」第8号、2007年01月20日発行)。
北爪満喜「表面張力、並べて」は草の茎に雨の雫がつらなっている様子を描いている。表面張力によってできた雫。その写真もそえられている。こうした作品は、どうしても「意味」になる。北爪の場合も例外ではない。
こんな具合に「意味」がことばを動かしていく詩を私は好きではない。なんだか「学校」の宿題みたいな感じがする。「すごいなぁ 耐えている」という小学生の言いそうなことばを「しっかりしてよと/耐えている雫の表面張力が言う」と言い直すのも、ちょっとあざとい技法のように感じてしまう。
ところが。
ここで、この詩が好きになった。「目の奥の雫」。この肉体の感じ、外にあるもの、見たもの(草の雫)を自分の肉体のなかに取り込む感じがいい。「目の奥」に取り込んだ瞬間、北爪の肉体そのものが「雫」と一体になる。というか、「雫」になってしまう。
北爪の肉体の内部と外部が逆転してしまう。
この逆転をくっきりとあらわすのが、「この目の奥の雫も」の「この」、「あの草の雫のように」の「あの」、である。
ふつう日本語では、自分の近くにあるものを「この」で指し、遠くにあるものを「あの」で指す。
北爪は、今、草の原にいて雫を見ていて、きのうのことを思いだしているのだから、きのうの記憶、「鼻の奥がツンとして目が潤んできそうに」なったときの「目の奥の雫」は「あの」目の奥の雫であり、それが「この」草の雫のように……と書くのがふつうの日本語である。
ところが北爪は、それを逆に書く。というより、書いてしまう。「鼻の奥がツン」と感じた瞬間を思いだしたときから、その肉体の感覚が、現実のありようをゆさぶり、変形させてしまうのだ。リアルな肉体の記憶が前面に出てきて、それが「この」という近さで存在し、目の前にあるものを「あの」という遠さに遠ざける。
これは、おもしろい。とてもおもしろい。
ここに書かれた「この」と「あの」の逆転によって、私は突然北爪が大好きになってしまった。今まで私は北爪をどちらかといえば批判的に批評してきたかもしれない。たぶん、この詩に書かれているような「この」「あの」の逆転、その肉体感覚を見落としていて、よく理解できなかったのだろうと反省した。
このすばらしい逆転のあと、北爪のことばはとても美しく動く。
美しいなあ。ちょっと美しすぎるかもしれない。美しく「仕立て上」がりすぎているかもしれない。しかし、それはたぶん、ここに書かれたことが、北爪の肉体が何度も何度も夢みてきたことだからかもしれない。
「この」「あの」の逆転をとおりぬけたあとでは、その夢は、絶対に見なければならない夢のように思えるのである。
*
浅井拓也「稜線のラクダ」は奇妙である。
この「ラクダ」って何? 浅井は何の説明もしない。ただ「あまりに美しく あまりに悲しすぎる」と書く。この単純さが、北爪の詩を読んだあとでは、不思議なことにリアルに感じられる。稜線。突然あらわれた夕焼け。そこに似合うのは何だろうか。ラクダ以外にない。--これは、遠い肉体の、遠い目の記憶が突然あらわれたのだろう。肉体は、或る日、突然、目の前に復活してくることがある。その復活に、理由は、ない。あるけれども、その理由など人間の「頭」を超えている。そこに人間の不思議さがある。
--これはもちろん北爪の詩を読んだからそう感じるのであって、読む順序が逆だったら、そう感じたかどうかわからないのだが……。
北爪満喜「表面張力、並べて」は草の茎に雨の雫がつらなっている様子を描いている。表面張力によってできた雫。その写真もそえられている。こうした作品は、どうしても「意味」になる。北爪の場合も例外ではない。
しゃがんで草に目を近づけてゆくと
円らな雫がきりりと並んで
表面張力
すごいなぁ 耐えている
一粒の 水のなかには
空も地も映し込まれて
覗き込む私も 映し込まれて
しっかりしてよと
耐えている雫の表面張力が言う
こんな具合に「意味」がことばを動かしていく詩を私は好きではない。なんだか「学校」の宿題みたいな感じがする。「すごいなぁ 耐えている」という小学生の言いそうなことばを「しっかりしてよと/耐えている雫の表面張力が言う」と言い直すのも、ちょっとあざとい技法のように感じてしまう。
ところが。
きのうテレビを見ていたとき
「それでは あなたのいま一番大事なものを思い浮かべてください」
といわれたとき
思いがけず浮かんできた顔に
鼻の奥がツンとして目が潤んできそうになって
あわてた
この目の奥の雫も
あの草の雫のように
目の奥で
目の奥のなにもかもを映し込んでいるのかも知れない
ここで、この詩が好きになった。「目の奥の雫」。この肉体の感じ、外にあるもの、見たもの(草の雫)を自分の肉体のなかに取り込む感じがいい。「目の奥」に取り込んだ瞬間、北爪の肉体そのものが「雫」と一体になる。というか、「雫」になってしまう。
北爪の肉体の内部と外部が逆転してしまう。
この逆転をくっきりとあらわすのが、「この目の奥の雫も」の「この」、「あの草の雫のように」の「あの」、である。
ふつう日本語では、自分の近くにあるものを「この」で指し、遠くにあるものを「あの」で指す。
北爪は、今、草の原にいて雫を見ていて、きのうのことを思いだしているのだから、きのうの記憶、「鼻の奥がツンとして目が潤んできそうに」なったときの「目の奥の雫」は「あの」目の奥の雫であり、それが「この」草の雫のように……と書くのがふつうの日本語である。
ところが北爪は、それを逆に書く。というより、書いてしまう。「鼻の奥がツン」と感じた瞬間を思いだしたときから、その肉体の感覚が、現実のありようをゆさぶり、変形させてしまうのだ。リアルな肉体の記憶が前面に出てきて、それが「この」という近さで存在し、目の前にあるものを「あの」という遠さに遠ざける。
これは、おもしろい。とてもおもしろい。
ここに書かれた「この」と「あの」の逆転によって、私は突然北爪が大好きになってしまった。今まで私は北爪をどちらかといえば批判的に批評してきたかもしれない。たぶん、この詩に書かれているような「この」「あの」の逆転、その肉体感覚を見落としていて、よく理解できなかったのだろうと反省した。
このすばらしい逆転のあと、北爪のことばはとても美しく動く。
やりきれないことをきりりと包んで
きりりと
表面張力で
いま見上げた空なんかも 映して
掃除をしたり洗濯をしたり
なにごともないような一日を
しずかな一日を
仕立て上げているのかも知れない
美しいなあ。ちょっと美しすぎるかもしれない。美しく「仕立て上」がりすぎているかもしれない。しかし、それはたぶん、ここに書かれたことが、北爪の肉体が何度も何度も夢みてきたことだからかもしれない。
「この」「あの」の逆転をとおりぬけたあとでは、その夢は、絶対に見なければならない夢のように思えるのである。
*
浅井拓也「稜線のラクダ」は奇妙である。
一日中 しとしとと降り続いた雨がはたと止んでいる
ガラス越しに稜線が見える
夕焼けに染まった稜線
砂漠の上をラクダがとおる
この「ラクダ」って何? 浅井は何の説明もしない。ただ「あまりに美しく あまりに悲しすぎる」と書く。この単純さが、北爪の詩を読んだあとでは、不思議なことにリアルに感じられる。稜線。突然あらわれた夕焼け。そこに似合うのは何だろうか。ラクダ以外にない。--これは、遠い肉体の、遠い目の記憶が突然あらわれたのだろう。肉体は、或る日、突然、目の前に復活してくることがある。その復活に、理由は、ない。あるけれども、その理由など人間の「頭」を超えている。そこに人間の不思議さがある。
--これはもちろん北爪の詩を読んだからそう感じるのであって、読む順序が逆だったら、そう感じたかどうかわからないのだが……。