監督 ビル・コンドン 出演 ジェニファー・ハドソン 、 ビヨンセ・ノウルズ 、 ジェイミー・フォックス 、 エディー・マーフィ
ジェニファー・ハドソンが非常にすばらしい。ジェニファー・ハドソンのための映画といってもいい。声がパワフルで、ありったけの力で迫ってくる。感情というのは繊細なものであるけれど、その繊細さを伝えるために声が繊細であらねばならないということはない。むしろ逆に、力のかぎり叫ぶことでしか伝えられない繊細さがある。悲しみがある。嘆きがある。苦悩がある。怒りがある。愛がある。感情とは、もともとひとつではないのだ。いくつもの要素が重なり合ってうねっている。そういうものを「繊細」に表現することなどできない。ありったけの力で体の奥からしぼりださなければ、こころは傷ついてしまう。ころが傷つき、立ち直れなくなってしまったら生きていけない。だから、こころを解放するために力のかぎり声をしぼりだすのである。
歌を奪われ、こころが傷つくだけではなく、肉体そのものが傷ついていく。はつらつとしていた目が沈み、苦悩する。豊かな声を生み出していた肉体はただの肥満した体になる。ところが、その肉体が歌を取り戻したとき、再びはつらつと輝く。太っているのはたしかに太っているのだが、目が、その太った姿をとらえない。忘れてしまう。目が、声に奪われてしまうのである。声は目には見えない。見えないはずだけれど、目でもジェニファー・ハドソンの声を聞いている。同時に、喉や舌や口蓋でも、ジェニファー・ハドソンの声を聞いている。私自身は、ジェニファー・ハドソンのような声は出せないが、その出せない声を、知らないうちに私の喉、舌、口蓋がなぞっているのである。肉体がまるごと、ジェニファー・ハドソンの声のなかに引き込まれてしまう。もう、耳も、目も、喉も、まったく区別がつかなくなる。一種の陶酔感覚におそわれる。酔ってしまうと、ぎょろ目も厚い唇も、それがぎょろ目であること、厚い唇であるとは感じられなくなる。ただ、生きている人間がいる、ということだけを感じる。生きている感情が、今、ここに輝いているということを感じる。感情には、ぎょろ目も厚い唇も何もない。あるのは真実の感情と取り繕った感情の差だけである。ジェニファー・ハドソンが歌を歌うとき、そこには真実の感情がある。だから、そこにある肉体もまた真実なのである。ジェニファー・ハドソンが歌うとき、そこには真実しか存在しない。
一方、ビヨンセ・ノウルズはちょっとかわいそうな役である。ミュージックシーンの変化そのままに、彼女は「見える」シンガーを演じている。観客は、映画の中でも、そして映画の外でも(つまり映画の観客も)、ビヨンセ・ノウルズの歌を聴くというより見ている。視覚から陶酔しはじめる。ジェニファー・ハドソンが歌うとき、歌がクライマックスに近付くほど彼女が美人に見えてくるのに対し、ビヨンセ・ノウルズは歌いはじめも歌い終わりも同じ美人のままなのである。美人は美人のままで感動的ではあるのだけれど、見ている間に人間がどんどん美人になっていくのというのはもっと感動的である。ほれぼれしてしまう。ジェニファー・ハドソンが歌うたびに美人になっていくのは、ジェニファー・ハドソンは歌のなかで真実を発見していくからだ。どんな「美」も真実にはかなわないということかもしれない。
ジェニファー・ハドソンにただただ感動した。
ジェニファー・ハドソンが非常にすばらしい。ジェニファー・ハドソンのための映画といってもいい。声がパワフルで、ありったけの力で迫ってくる。感情というのは繊細なものであるけれど、その繊細さを伝えるために声が繊細であらねばならないということはない。むしろ逆に、力のかぎり叫ぶことでしか伝えられない繊細さがある。悲しみがある。嘆きがある。苦悩がある。怒りがある。愛がある。感情とは、もともとひとつではないのだ。いくつもの要素が重なり合ってうねっている。そういうものを「繊細」に表現することなどできない。ありったけの力で体の奥からしぼりださなければ、こころは傷ついてしまう。ころが傷つき、立ち直れなくなってしまったら生きていけない。だから、こころを解放するために力のかぎり声をしぼりだすのである。
歌を奪われ、こころが傷つくだけではなく、肉体そのものが傷ついていく。はつらつとしていた目が沈み、苦悩する。豊かな声を生み出していた肉体はただの肥満した体になる。ところが、その肉体が歌を取り戻したとき、再びはつらつと輝く。太っているのはたしかに太っているのだが、目が、その太った姿をとらえない。忘れてしまう。目が、声に奪われてしまうのである。声は目には見えない。見えないはずだけれど、目でもジェニファー・ハドソンの声を聞いている。同時に、喉や舌や口蓋でも、ジェニファー・ハドソンの声を聞いている。私自身は、ジェニファー・ハドソンのような声は出せないが、その出せない声を、知らないうちに私の喉、舌、口蓋がなぞっているのである。肉体がまるごと、ジェニファー・ハドソンの声のなかに引き込まれてしまう。もう、耳も、目も、喉も、まったく区別がつかなくなる。一種の陶酔感覚におそわれる。酔ってしまうと、ぎょろ目も厚い唇も、それがぎょろ目であること、厚い唇であるとは感じられなくなる。ただ、生きている人間がいる、ということだけを感じる。生きている感情が、今、ここに輝いているということを感じる。感情には、ぎょろ目も厚い唇も何もない。あるのは真実の感情と取り繕った感情の差だけである。ジェニファー・ハドソンが歌を歌うとき、そこには真実の感情がある。だから、そこにある肉体もまた真実なのである。ジェニファー・ハドソンが歌うとき、そこには真実しか存在しない。
一方、ビヨンセ・ノウルズはちょっとかわいそうな役である。ミュージックシーンの変化そのままに、彼女は「見える」シンガーを演じている。観客は、映画の中でも、そして映画の外でも(つまり映画の観客も)、ビヨンセ・ノウルズの歌を聴くというより見ている。視覚から陶酔しはじめる。ジェニファー・ハドソンが歌うとき、歌がクライマックスに近付くほど彼女が美人に見えてくるのに対し、ビヨンセ・ノウルズは歌いはじめも歌い終わりも同じ美人のままなのである。美人は美人のままで感動的ではあるのだけれど、見ている間に人間がどんどん美人になっていくのというのはもっと感動的である。ほれぼれしてしまう。ジェニファー・ハドソンが歌うたびに美人になっていくのは、ジェニファー・ハドソンは歌のなかで真実を発見していくからだ。どんな「美」も真実にはかなわないということかもしれない。
ジェニファー・ハドソンにただただ感動した。