詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ビル・コンドン監督「ドリームガールズ」

2007-02-19 22:22:46 | 映画
監督 ビル・コンドン 出演 ジェニファー・ハドソン 、 ビヨンセ・ノウルズ 、 ジェイミー・フォックス 、 エディー・マーフィ

 ジェニファー・ハドソンが非常にすばらしい。ジェニファー・ハドソンのための映画といってもいい。声がパワフルで、ありったけの力で迫ってくる。感情というのは繊細なものであるけれど、その繊細さを伝えるために声が繊細であらねばならないということはない。むしろ逆に、力のかぎり叫ぶことでしか伝えられない繊細さがある。悲しみがある。嘆きがある。苦悩がある。怒りがある。愛がある。感情とは、もともとひとつではないのだ。いくつもの要素が重なり合ってうねっている。そういうものを「繊細」に表現することなどできない。ありったけの力で体の奥からしぼりださなければ、こころは傷ついてしまう。ころが傷つき、立ち直れなくなってしまったら生きていけない。だから、こころを解放するために力のかぎり声をしぼりだすのである。
 歌を奪われ、こころが傷つくだけではなく、肉体そのものが傷ついていく。はつらつとしていた目が沈み、苦悩する。豊かな声を生み出していた肉体はただの肥満した体になる。ところが、その肉体が歌を取り戻したとき、再びはつらつと輝く。太っているのはたしかに太っているのだが、目が、その太った姿をとらえない。忘れてしまう。目が、声に奪われてしまうのである。声は目には見えない。見えないはずだけれど、目でもジェニファー・ハドソンの声を聞いている。同時に、喉や舌や口蓋でも、ジェニファー・ハドソンの声を聞いている。私自身は、ジェニファー・ハドソンのような声は出せないが、その出せない声を、知らないうちに私の喉、舌、口蓋がなぞっているのである。肉体がまるごと、ジェニファー・ハドソンの声のなかに引き込まれてしまう。もう、耳も、目も、喉も、まったく区別がつかなくなる。一種の陶酔感覚におそわれる。酔ってしまうと、ぎょろ目も厚い唇も、それがぎょろ目であること、厚い唇であるとは感じられなくなる。ただ、生きている人間がいる、ということだけを感じる。生きている感情が、今、ここに輝いているということを感じる。感情には、ぎょろ目も厚い唇も何もない。あるのは真実の感情と取り繕った感情の差だけである。ジェニファー・ハドソンが歌を歌うとき、そこには真実の感情がある。だから、そこにある肉体もまた真実なのである。ジェニファー・ハドソンが歌うとき、そこには真実しか存在しない。
 一方、ビヨンセ・ノウルズはちょっとかわいそうな役である。ミュージックシーンの変化そのままに、彼女は「見える」シンガーを演じている。観客は、映画の中でも、そして映画の外でも(つまり映画の観客も)、ビヨンセ・ノウルズの歌を聴くというより見ている。視覚から陶酔しはじめる。ジェニファー・ハドソンが歌うとき、歌がクライマックスに近付くほど彼女が美人に見えてくるのに対し、ビヨンセ・ノウルズは歌いはじめも歌い終わりも同じ美人のままなのである。美人は美人のままで感動的ではあるのだけれど、見ている間に人間がどんどん美人になっていくのというのはもっと感動的である。ほれぼれしてしまう。ジェニファー・ハドソンが歌うたびに美人になっていくのは、ジェニファー・ハドソンは歌のなかで真実を発見していくからだ。どんな「美」も真実にはかなわないということかもしれない。
 ジェニファー・ハドソンにただただ感動した。

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清岡卓行論のためのメモ(26)

2007-02-19 21:45:24 | 詩集
 清岡卓行『パリの5月に』(思潮社、1991年10月20日発行)。
 「藤田嗣治の自画像」はタイトルに反して「自画像」について書かれた詩ではない。「自画像」(画家の姿)が登場しない絵について書かれたものである。画家の姿はそこにはないが、画家が描かれているよりも画家が描かれている--と矛盾的な言語で清岡はその絵について書いている。

しかし かれは
パリの古びた城門あたりの深沈とした風景
生活を彩る必需品や嗜好品という親密なる生物
そうしたものを視つめたいくつかの画面にこそ
おのれの姿は描かないが
おのれの心の真実をどこまでも映した
自画像の傑作を残しているのではないのか?

 清岡が芸術から読み取ろうとしているのは作者の「心の真実」である。

*

 「最後のフーガ」はランボーを描いている。清岡が見たランボーの「心の真実」とはなんだったろうか。
 清岡にとってランボーは、まず足と目の詩人である。

眼にうながされた足。
足にみがかれた眼。

 そのランボーが右足を失った。そのとき、眼は何を見たのだろうか。清岡は、ランボーの最後の旅をたどりながら、そうしたことを考えている。肉眼が見たものを次々に数え上げながら、清岡は次のように書く。

手術を受けたマルセーユの病院から 妹に宛てて
「結婚よさらば、家庭よさらば、未来よさらばだ!」
と 悲しみを抑えられずに
しかし優しい谺を待つかのように書いたのだった。
おお そのように屈折する回廊の暗がりにこそ
しいたげられた意志は みずから
せつなく燐光しなかったか?

あるいは

今きみは 肉体の苦痛のさなかに
愛のすさまじさを 隠しているのではないか?

 表面にあらわれた言語、その奥にあることばにならない言語。それを清岡は探している。それを探し当てるために、清岡は、表面にあらわれた言語をたどりながら、その表面にあらわれた言語をひとつひとつ捨てていくのだ。
 この長い詩は、清岡が、ランボーのことばと旅をたどりながら、それを捨て去り、ランボーの「意志」あるいは「愛」を探し当てようとする旅なのである。
 そして、次のようなことばとして結晶する。

ランボー
きみ自身もはや きみが奏で
異域の空に砕け散った すべての
狂おしいフーガを覚えていないかもしれない。
きみの異境への憧れには
快楽と同時に物憂い苦行の匂いがある。

 「快楽と同時に物憂い苦行の匂い」。快楽「と」苦行。「と」を強調する「同時に」。これは形をかえた清岡である。ランボーのことばを捨て去り、最後に残った「と」、「同時に」ということば。そのなかで、清岡はランボーと一体になるのである。
 この「快楽と同時に物憂い苦行の匂い」を清岡はいくつものことばに置き換えている。

それは
家庭と放浪のとだえることのない対位法。
自己実現と自己放棄のあえかな双曲線。
反キリストふうな荒寥への 反文学ふうな探検。
まるで疾患を探しに行くような 過熱を好む健康の矛盾。
疎外の極大化が自由であるという理念倒れの逆説。

 まだまだつづくのだが、「矛盾」ということばが示しているように、そこに描かれるのは「矛盾」の集積である。あるいは「逆説」の集積である。「矛盾」「逆説」と「と」によって結びつけられるとき、併存するのではなく、対立する形で存在する。「円き広場」の道の「両端」のように存在する。
 清岡は、そういうものを見ているのだ。
 ランボーは「円き広場」の放射状の道の両端を「と」によって結びつけるようなことばを発し続けたのである。「と」に立って見つめるとき、その両端は左右か、前後か、どちらであるにしろ、必ず両方へ方向に開かれたまま存在する。肉体はひとつである。それはどちらの方向にしか進むことはできない。しかし、肉体が右へ進みながら意識は肉体が選ばなかった左を意識し続けることができる。というより、たとえば肉体が前へ進みながら意識は後ろへ後退し続けるというような肉体と精神の矛盾によって、世界は広がり、その広がりのなかで、人間は眩暈を覚える。放心する。そして、その眩暈と放心のなかで、世界を一気に把握してしまう。
 このときとらえた世界は、ことばにすればかならず「矛盾」する。ふたつの方向、あるいは複数の方向に、常に開かれて存在するからである。


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