川野圭子『かいつぶりの家』(思潮社、2005年09月30日発行)。
前半部分に掲載されている短い詩がとてもおもしろい。不条理なことがらというか、現実の日常ではありえないことがらが書かれているのだが、なぜか、不条理という印象がない。空想という感じもしないし、奇をてらっているという感じもしない。むしろ日常にぴったりくっついている感じがする。ありえないことなのに、「わかる、わかる」と言いたくなる感じがする。
ことばのリズムが自然だからである。口語の、口からでまかせというと変だけれど、話しことばの「勢い」というか、「のり」というか、そういうものが「論理」を乗り越えてあふれているからである。日常の会話は「論理」というのもを無視しているわけではないが、「論理」に縛られるよりも、「それをいっちゃあ、おしめえよ」みたいな感じで動くときがある。「論理」よりも、なにか「論理」ではすくいとれない生な命を大切にするということが日常では、あるいは日常の会話では起きるが、そうした感じを、川野のことばは自然にかもしだしている。
「にわとりと」。その1連目。
「二羽のにわとり」は何かの比喩である。誰それの戯画化したものである、というようなことは考えれば考えられるのだが、そういう「意味」というか「論理」とは関係なしに、「吹きっさらしの屋根の上で/たった二羽で 鳳凰の真似して踏ん張っとったけえ/はあ くたびれて 寒うて寒うて」という口調が、その「誰それ」を超えて動く。「誰それ」も大事なのだろうけれど、「誰それ」よりも、その口調のなかにある「癖」のようなものが、人間の命そのものを感じさせる。「真似」ということばからの連想ではないのだが、人の物真似において、それがそっくり、と感じるのは、そこにその人の「論理」を感じるからではなく、「癖」を感じるからである。「癖」というのは「論理」と違って、他のことばでは置き換えられない。そのまま、丸飲みにして受け入れるしかないものである。「真似」によって表現されたものを受け入れるということは、他者をまるごと受け入れることである。他人をまるごと受け入れる「大きさ」が川野のことばにはあるのだ。
詩はつづく。
「思う」。このことばは何気ないようで、とても深い。
「思う」にはいろんな意味がある。「思考」ということばがあるくらいだから「考え」ともつよく通じることばである。この詩の「思う」は、しかし「考える」とは微妙に違う。「思う」は「心」という文字が含まれているので、私などは「思う」と「考える」を区別するとき、知らず知らず「こころで思う」「頭で考える」と区別するが、川野は「頭の片隅で思う」と書いている。川野は「考える」のではなく、あくまで「思う」のである。頭と言う肉体を、対象(にわとり)に重ねるのである。こころを重ねるように。
そのときのことば。それは、やはり口語である。「にわとりはこんことになると/尻下がりいうて 長ごうはもたんのじゃが」。
口語のおもしろさは、そのことばに生活が深く入り込んでいることである。ことばはもともと共同体のなかで共有され、つかわれるものだが、「口語」の場合は、その「共有」の度合いが非常に生活に密着している。そのことばがつかわれるとき、そのことばにともにある生活が浮かび上がる。
「にわとりはこんことになると/尻下がりいうて 長ごうはもたんのじゃが」。これは川野が「頭」で思ったことばだが、そのことばは川野だけの思いで成り立っているのではない。川野はにわとりを何羽も何羽も見てきた。病気のにわとりを見てきたし、それが死ぬのも見てきた。同時に、そういうにわとりを見て、川野のまわりの人がどういうふうに言うのかを見聞きしてきた。ここには、そういう共同体としての記憶がある。ひとりでは経験できない「時間」の幅がある。幾世代にもわたる共同体のなかで、繰り返される経験によって、伝えられてきた「命」のありように関することばの集積がある。いわば「神話」がある。川野が書いているの口語は、そういう「神話」の断片なのである。
川野の作品は、寓話、比喩として読むよりも「神話」として読むべきだと思う。「神話」として読むとき、そこに描かれている人間が「比喩」が「戯画」を超えて、いきいきと躍動する。
たとえば「レタス幻想」。レタスを頭蓋骨(荼毘にふしたあとの骨)と見立てて書いているとも読める作品だ。腹が減ったし、レタスが自分を食べてもいいというので旅館の軒下の洗い場で洗いはじめるのだが……。その3連目。
自分の旅館の軒下でレタスを洗うな、というのであれば、「こんなことならもう旅館は止めてしまいたい」というのは非論理的な怒りの表現であろう。しかし、人間の怒りというのは論理的なことばどおりには展開しない。そこに思いもよらぬ逸脱がある。脇道へそれることで感情を噴出させる。そういうことがある。怒りが、怒りの対象を批判することから外れて、自分の思いを「ぐち」として語りはじめるというような逸脱--そういうことを私たちは「経験」として知っている。そうした「経験」としての「神話」がここには描かれている。「論理」からはみだしてしまう「命の神話」がここには描かれている。
川野は、「論理」からはみだしてしまう「命」「心」「思い」を日常の神話にすくい上げる名手である。
前半部分に掲載されている短い詩がとてもおもしろい。不条理なことがらというか、現実の日常ではありえないことがらが書かれているのだが、なぜか、不条理という印象がない。空想という感じもしないし、奇をてらっているという感じもしない。むしろ日常にぴったりくっついている感じがする。ありえないことなのに、「わかる、わかる」と言いたくなる感じがする。
ことばのリズムが自然だからである。口語の、口からでまかせというと変だけれど、話しことばの「勢い」というか、「のり」というか、そういうものが「論理」を乗り越えてあふれているからである。日常の会話は「論理」というのもを無視しているわけではないが、「論理」に縛られるよりも、「それをいっちゃあ、おしめえよ」みたいな感じで動くときがある。「論理」よりも、なにか「論理」ではすくいとれない生な命を大切にするということが日常では、あるいは日常の会話では起きるが、そうした感じを、川野のことばは自然にかもしだしている。
「にわとりと」。その1連目。
にわとりが二羽やってきた
一羽は元気が良いのだが もう一羽は
どうも調子がわりい
という
吹きっさらしの屋根の上で
たった二羽で 鳳凰の真似して踏ん張っとったけえ
はあ くたびれて 寒うて寒うて
ともいった
「二羽のにわとり」は何かの比喩である。誰それの戯画化したものである、というようなことは考えれば考えられるのだが、そういう「意味」というか「論理」とは関係なしに、「吹きっさらしの屋根の上で/たった二羽で 鳳凰の真似して踏ん張っとったけえ/はあ くたびれて 寒うて寒うて」という口調が、その「誰それ」を超えて動く。「誰それ」も大事なのだろうけれど、「誰それ」よりも、その口調のなかにある「癖」のようなものが、人間の命そのものを感じさせる。「真似」ということばからの連想ではないのだが、人の物真似において、それがそっくり、と感じるのは、そこにその人の「論理」を感じるからではなく、「癖」を感じるからである。「癖」というのは「論理」と違って、他のことばでは置き換えられない。そのまま、丸飲みにして受け入れるしかないものである。「真似」によって表現されたものを受け入れるということは、他者をまるごと受け入れることである。他人をまるごと受け入れる「大きさ」が川野のことばにはあるのだ。
詩はつづく。
わたしの行く方に ウロウロついてまわるので よく見ると
とさかは青ざめて 尾羽も手羽先もつぎはぎだ
外便所に行くと 薄暗い隅の方にうずくまっている
板張りの上に ポチリポチリと
何やら水っぽくて白いものを落としている
ここんとこ ずうっと腹具合が悪うて
といった
にわとりはこんことになると
尻下がりいうて 長ごうはもたんのじゃが
と頭の片隅で思う
「思う」。このことばは何気ないようで、とても深い。
「思う」にはいろんな意味がある。「思考」ということばがあるくらいだから「考え」ともつよく通じることばである。この詩の「思う」は、しかし「考える」とは微妙に違う。「思う」は「心」という文字が含まれているので、私などは「思う」と「考える」を区別するとき、知らず知らず「こころで思う」「頭で考える」と区別するが、川野は「頭の片隅で思う」と書いている。川野は「考える」のではなく、あくまで「思う」のである。頭と言う肉体を、対象(にわとり)に重ねるのである。こころを重ねるように。
そのときのことば。それは、やはり口語である。「にわとりはこんことになると/尻下がりいうて 長ごうはもたんのじゃが」。
口語のおもしろさは、そのことばに生活が深く入り込んでいることである。ことばはもともと共同体のなかで共有され、つかわれるものだが、「口語」の場合は、その「共有」の度合いが非常に生活に密着している。そのことばがつかわれるとき、そのことばにともにある生活が浮かび上がる。
「にわとりはこんことになると/尻下がりいうて 長ごうはもたんのじゃが」。これは川野が「頭」で思ったことばだが、そのことばは川野だけの思いで成り立っているのではない。川野はにわとりを何羽も何羽も見てきた。病気のにわとりを見てきたし、それが死ぬのも見てきた。同時に、そういうにわとりを見て、川野のまわりの人がどういうふうに言うのかを見聞きしてきた。ここには、そういう共同体としての記憶がある。ひとりでは経験できない「時間」の幅がある。幾世代にもわたる共同体のなかで、繰り返される経験によって、伝えられてきた「命」のありように関することばの集積がある。いわば「神話」がある。川野が書いているの口語は、そういう「神話」の断片なのである。
川野の作品は、寓話、比喩として読むよりも「神話」として読むべきだと思う。「神話」として読むとき、そこに描かれている人間が「比喩」が「戯画」を超えて、いきいきと躍動する。
たとえば「レタス幻想」。レタスを頭蓋骨(荼毘にふしたあとの骨)と見立てて書いているとも読める作品だ。腹が減ったし、レタスが自分を食べてもいいというので旅館の軒下の洗い場で洗いはじめるのだが……。その3連目。
いい加減で止めればいいのに
どうしても もう一回洗わなければと
しつこくバケツに水をはっていると
あるじが出てきて怒った
こんなことならもう旅館は止めてしまいたい
などと ぐちぐちと止めどなかった
自分の旅館の軒下でレタスを洗うな、というのであれば、「こんなことならもう旅館は止めてしまいたい」というのは非論理的な怒りの表現であろう。しかし、人間の怒りというのは論理的なことばどおりには展開しない。そこに思いもよらぬ逸脱がある。脇道へそれることで感情を噴出させる。そういうことがある。怒りが、怒りの対象を批判することから外れて、自分の思いを「ぐち」として語りはじめるというような逸脱--そういうことを私たちは「経験」として知っている。そうした「経験」としての「神話」がここには描かれている。「論理」からはみだしてしまう「命の神話」がここには描かれている。
川野は、「論理」からはみだしてしまう「命」「心」「思い」を日常の神話にすくい上げる名手である。