詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

武田肇『詩史または本の精神』(その2)

2007-02-23 07:50:15 | 詩集
 武田肇『詩史または本の精神』(銅林社、2007年04月01日発行、非売品)。
 「*」「……」が武田の「詩」である、と書いただけでは、誰も武田の作品を読まなくなってしまうかもしれない。補足しておく。
 「*」「……」が「隠されたことば」と同じものであることは、すでに見てきた。というより、隠すことによって、見せる、隠しているものを強調し、明らかにする、という手法を見てきた。「*」「……」と書かれたことばは常に対になっている。この対であることが、武田にとっての作品の「意味」である。詩が書かれなければならない理由である。
 ことばはすでに書かれてしまっている。武田の知っていることばで、書かれてこなかったことばは存在しない。武田が書いていることばで、武田自身が読んだこと、聞いたことのないことばというものは存在しない。すべては武田ではなく、「詩」「本」にオリジナルがある。他人、世界のなかにオリジナルがある。
 武田が採用した「*」「……」という「伏せ字」の表記、その構造も、もしかしたらどこかに起源があるかもしれない。
 オリジナルはどこにあるのか。武田が詩を書く理由、書かなければならない理由がどこにあるのか。

 ことばはすでに書かれてしまっている。ところが、すべてのことばが武田によって読まれてしまっているということはないし、また、あらゆる人が書かれたことば、すでに存在することばをすべて読んでしまっているということでもない。人はあることばを読み、あることばを読まない。ことばはすべて書かれてしまっているが、どのことばを読んだか、どう読んだかは人によって違う。そこに、武田の入り込む余地がある。武田がオリジナルを発揮する場がある。
 武田が書くことばは武田が読んだものである。ことばを中心にして、すでに書かれたことばと武田が対峙する。その対峙の構造が「詩」である。
 「……」が先行する行、そして次の来る行の長さと正確に対峙していることは22日の日記にすでに書いた。この正確な対峙が武田にとって「詩」である。「……」が武田にとっての「詩」である、とはそういう意味である。

 すでに書かれてしまっていることば、そして武田が読んでしまったことばのなからか、あることばを選び出し、そのことばでひとつの世界を構築する。そのことは別のことばで言えば、すでに書かれてしまったことばで、まだ武田が読んでいないことば、それを組み立ててつくりあげることができる世界の可能性を、武田は「隠してしまう」ことである。武田があることばをつくって世界を構築するとき、そのことばをつかって構築されるはずだった別の世界が見えなくなる。ことばは常に、何かをあらわすと同時に、何かを隠す。そして、それはあらわすことと隠すことが常に対峙することで世界そのものとなる。
 対峙をつくりだす存在としての武田。それこそが「詩」なのである。

聖なるジャンヌは猥らなジャンヌの投影であろう

 という行が42ページに出てくる。この「聖なる」「猥らな」という対極のことばの向きあいが象徴的だが、どんなことばも対峙するのである。
 この行には武田のことばの運動を象徴するような「投影」という表現もある。
 「*」「……」は書かれたことばの投影であり、書かれたことばは「*」「……」の投影である。それが対峙して「世界」を立体的にする。奥深くなる。豊かになる。
 かかれたことばが世界なのか。隠されたことばが世界なのか。互いに投影しあっているのが世界なのか。互いの投影を認識するのが世界なのか。この疑問に対する答えは出ないだろう。--そして、この答えの出ない疑問ということが、武田の、「*」「……」「投影」とは別の、非常に重要なことば、「キーワード」を浮かび上がらせる。

月は望で終るのか朔で終るのか。(109ページ)

空が青いのか 雲が白いのか
問うている 問われている    (119ページ)

 「か」。疑問をあらわすことば。「問う」ということにつながることば。

 武田はことばを問うているのである。流通していることば。それはなぜ流通しているのか。「詩」はことばに対して、常に、そのことばでいいのか、と問うことなのである。「*」「……」はほんとうはどう書かれるべきなのか。書かれたことばはほんとうにそのことばでよかったのか。それとは違った「*」「……」ではないのか。
 こうした問いは、テキストを読み直すことがそのまま「詩」であるということをも告げている。
 テキストを読むとき、私たちはテキストのことばに私を投影しているのか。それともテキストのことばが私たちになにごとかを投影してきているのか。そういう疑問を持つことのなかに「詩」がある。
 そういう疑問を活性化させるために、武田は「*」「……」という表記を用いるのである。


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博多座「二月花形歌舞伎」

2007-02-23 00:19:18 | その他(音楽、小説etc)
 博多座「二月花形歌舞伎」。昼の部。市川海老蔵「高時」、尾上菊之助「春興鏡獅子」、尾上松緑「蘭平物狂」。
 次代の歌舞伎界を支えるといわれる3人。尾上菊之助「春興鏡獅子」が一番おもしろかった。特に女小姓・弥生が獅子にとりつかれていく場面がつやっぽい。若さがそのまま輝きになって、せつない。獅子にとりつかれ、自分の肉体なのに自分で制御できない、そのアンバランス、無理強いされて動く肉体が、若さゆえのしなやかさを引き出している。蝶にさそわれ獅子が目覚めるときの、不規則な躍動。蝶に誘われるように花道を走るそのスピードの滑らかさ。そうした場面に眼を奪われた。獅子の精の舞は、弥生の印象が強すぎたせいか、勇壮というよりは、軽い感じがした。肉体を酷使している感じがない。歌舞伎の魅力というのはいろいろあるのだろうけれど、普通の人ができない動き、無理な姿勢、無理な動きがつくりだす不思議な色気もそのひとつだと思う。それが感じられなかった。
 これは市川海老蔵、尾上松緑にも言える。「高時」の最後、異形の者が高時をなぶる場面など、オリンピックの床運動(言い過ぎだろうか)のような感じがする。尾上松緑「蘭平物狂」の花道での梯子乗りも軽々としていて立ち回りもサーカスの曲芸のような印象がする。ほーっ、というため息がでる感じにはならない。
 歌舞伎に限らないだろうけれど、芝居というのは、やはり役者の肉体を見るところ、見せ物なのだと思った。若いと何をしても、苦しまない。肉体の若さが、動きの苦しみを弾き飛ばしてしまう。肉体が、動き、苦しみ、その苦しみが、観客の肉体の苦しみを浄化するのが芝居なんだろう、などと考えた。
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