詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

青山七恵「ひとり日和(びより)」

2007-02-18 15:13:10 | その他(音楽、小説etc)
 青山七恵ひとり日和(びより)」(「文藝春秋」2007年03月号)。
 若いフリーターの女性の感覚をそのまま文体にした小説である。「小説」というより「日記」を読んでいる感じがする。登場人物が、「陽平」「吟子さん」「ヤブヅカさん」「ホースケさん」「藤田君」「イトちゃん」と敬称(?)や漢字表記の差を残したまま文章になっている。その敬称や漢字かカタカナかということのなかに、主人公と相手との関係の濃密さ、大切と感じているかどうかが漂っている。行間にそういう「感じ」を漂わせることを狙って書いている小説なのだろう。
 一か所、とても気に入った部分がある。

 夕食のあとすぐに藤田君は帰って行った。玄関先でわたしが頼んだとおりに、ホームの一番後ろまで歩いてきて手を振ってくれる。こんな夜がこれから何度もあるだろう、と感じさせる別れ方だった。手を振っていると、足の裏から何か温かいものが満ちてくるような、いい気持ちがする。隣で手を振っている吟子さんでさえ、不思議といとおしく感じる。

 特に「手を振っていると、足の裏から何か温かいものが満ちてくるような、いい気持ちがする。」が好きだ。ことばにならない安心感、幸福感のようなものが肉体にどんなふうに広がっているかを丁寧に描いている。ここでは「感じ」を漂わせるのではなく、しっかりと肉体のなかに掴んでいる。
 そして、この肉体の内部へ深く入っていく視線が、主人公の孤独を浮き彫りにしている。「自分」というものを受け止めるのは結局自分しかいないのだということを、そういうことばをつかわずに、静かに、しかししっかりと浮かび上がらせる。

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清岡卓行論のためのメモ(25)

2007-02-18 14:12:24 | 詩集
 清岡卓行パリの五月に』(思潮社、1991年10月20日発行)。
 「シャルル・ド・ゴール広場」。清岡はシャルル・ド・ゴール広場を歩きながら「円き広場」を思い出す。シャルル・ド・ゴール広場には12条の道路が放射されているのに対し円き広場は10条だったことなど、最初は違いだけが印象に残った。

 こんなふうに、相違点ばかりが気になるといったぐあいに、眼前のシャルル・ド・ゴール広場のなんらかの光景にたいし、大広場においてはそれと対照的に異っていた光景を、つぎつぎと頭のなかに思い浮かべたのであった。

 ところが……。

 しかし、やがて、わたしの背筋に感動が走った。それは、大きな円周を描くようにして歩きながら、シャルル・ド・ゴール広場を半周ほど巡ったころである。
 わたしは時計回りとは逆の回りかたをしていたから、歩く方向がきわめて微かな度合いであるが、絶えず左のほうへと転じられていた。足首や足の裏にときにごくわずかな違和が感じられるその歩きかたに、体全体がようやくなじんだころ、少年の日に大広場をやはり大きな円周を描くようにしてよく歩き巡っていたことが、ありありと思いだされてきたのである。
 おお、この歩行感覚は、まったく同じではないか!
 六十代のわたしと十代のわたしが不意に重なった。
 そのときである、わたしがパリの土を愛しはじめたのは。

 シャルル・ド・ゴール広場と円き広場は「外形」が似ているにもかかわらず、最初は重なり合わない。清岡は視覚的な描写が多いが視覚人間ではない。清岡の肉体感覚は視覚が基本ではない。もっと肉体の奥深い部分が清岡の認識、意識、感覚を支えている。
 円周を描いて歩く--その歩くときの肉体の全体の変化。そういうものを清岡は深く意識している。
 円周を描いて歩く、その歩き方が「体全体にようやくなじんだころ」、清岡は円き広場そのものを思い出すのではなく、その広場を歩いた十代の自分自身を思い出す。十代の肉体感覚を思い出す。最初に重なり合うのは、「六十代のわたしと十代のわたし」である。そのあとでシャルル・ド・ゴール広場は円き広場が、清岡の体のなかで(体全体のなかで)重なり合うのである。
 シャルル・ド・ゴール広場の外形と円き広場の外形ではなく、そこを円周を描いて歩く六十代の肉体と十代の肉体が重なり合う。その肉体の感覚、足首や足裏の感覚のなかでふたつの広場が重なり合う。いま、ここにある肉体(ひとつのもの)のなかに、十代の肉体と、十代の肉体があるいた円き広場が蘇り、その蘇りのなかでシャルル・ド・ゴール広場がリアルに感じられる。
 この瞬間を清岡は「愛」ということばで表現している。
 愛とは、自己と他者が一体化してしまうことを究極の世界として夢みるものだが、「愛」のなかで、清岡の六十代の肉体と十代の肉体が一致し、シャルル・ド・ゴール広場と円き広場が一致する。
 「愛」とは「と」によって複数のものが固く結びつくことである。融合し、ひとつになることである。

 この「愛」に先立つ部分、「相違点」を気にしている部分には、清岡の文体(あるいは感性)の特徴をしるしづける重要なことばがある。「頭」。相違点を清岡は「頭のなかに思い浮かべた」。それに対して一致点を見出したのは「肉体(足首や足のうらにときにわずかな違和が感じられるその歩きかた)」である。清岡は「頭」で一致点を発見するのではなく、「肉体」で一致点を発見する。そして「頭」で発見したものではなく、「肉体」で発見したものを、清岡は愛するのである。
 「頭」から「肉体」へ。その移行。移行するまでの「頭」の描き出すことばの数々。それは、やはり捨てるためのことばなのである。「頭」で見出していることば、発見していることばはすべて捨てる。清岡は、シャルル・ド・ゴール広場と円き広場との相違点をとてもこまかく描写しているが、それはすべて捨てるためのことばである。すべてを捨てないことには「頭」は生き続け、「肉体」を解放してくれないのである。「頭」で描くことができるすべてのことばを捨て去ったとき、「頭」に一瞬の空白がやってくる。そして「肉体」の「感じ」が蘇る。
 放心、驚き、眩暈……さまざまなことばで清岡は「頭」が空白になり、「肉体」だけが世界のなかへほうり出される瞬間を描いている。その瞬間に酔っている。その瞬間を「美」と呼んでいた。いま、その「美」が「愛」と一致した。清岡にとっては「美」と「愛」は彼の肉体のなかで一致するのである。「頭」のなかではなく、「肉体」のなかで。
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