詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐伯多美子「睡眠の軌跡」

2007-02-12 20:54:09 | 詩(雑誌・同人誌)
 佐伯多美子「睡眠の軌跡」(「カラ」3、2007年02月01日発行)。
 佐伯多美子「睡眠の軌跡」は「民」という女性が精神科の閉鎖病棟で暮らす様子を描いている。入院して数か月後、中庭に出ることを許される。そのときの描写に感動した。作品の最後の部分である。

数ヵ月後はじめて医師から許可が下りたとき、民は思わず裸足になって足の裏から伝わってくる冷たい感触を新鮮な感動を覚えながら、しばらく、じっと立っていた。そこは、塀と病棟で仕切られ、鍵が掛けられ、監視の目のなかの限られた空間であったが、深い眠りから、虚空からの幽かな覚醒でもあった。それは、不思議な生を呼び覚ますなつかしい感動だった。凍りついていた血脈が体温を感じながら、また、身体中を流れだしているのを感じている。感じる、という、感覚が蘇りはじめ、生きている、と思えた。

 整理された文章とは言えないかもしれない。ぎごちない。しかし、そこに「味」がある。手触りがある。特に「 凍りついていた血脈が体温を感じながら、また、身体中を流れだしているのを感じている。」という文章がすばらしい。「……を感じながら、……を感じている。」はぎごちないを通り越して、「へたくそ」(失礼)という印象があるのだけれど、その「へたくそ」な部分に真実があり、その真実に引き込まれていく。
 私は何を感じたのだろうか。
 「……を感じながら、……を感じている。」という「感じる」という動詞の繰り返しに、肉体の立体性、肉体が厚みをもっているということを感じたのだ。「感じる」ということばの繰り返しが浮かび上がらせる世界が、立体感にとって不可欠なものと感じた。
 そこに佐伯の発見した真実がある。
 血液が体温を感じ、その流れていく動きを体全体が感じる。それは2つが同時に、しかも対等に存在するものである。この2つが同時に、対等に存在するということは「感じる」という同じことばで繰り返すしかないのである。ほかのことばをつかって「感じる」ということばの重複を避けたとき、2つが同時に、対等に存在するという印象、2つは切り離せないものであるという印象が薄れてしまうかもしれない。「感じる」ということばの重なりが、そのまま肉と血液、血液と骨……というようなさまざまな肉体の構成要素が重なり合って、絡み合って人間をつくりだしているということをリアルに伝えるのである。
 最後の文章も整理されているとは言えないかもしれない。「感じる、という、感覚が蘇りはじめ、生きている、と思えた。」ここでも「感じる」と「感覚」ということばの重複がある。この繰り返しは、「……を感じながら、……を感じている。」と同じように、ある一瞬を内側と外側から立体的に表現したものである。重なり合ったものを内側と外側、あるいは表と裏から表現したものである。そして、それはけっして切り離すことができない。2つが同時に存在し、重なり合うことで存在する「感じ」なのである。一方が欠けたら「感じ」にならないのである。
 2つが同時--それが佐伯の発見した真実である。
 1つではだめである。2つが(あるいは複数が)同時にからみあって人間をつくっている。それは切り離せない。分離できない。「頭」では整理できない。それが人間である。ところが、そうではない世界もあるのだ。
 精神科病院の隔離病棟。その描写、それに対する考察。

手が届きそうにみえてあっち側とこっち側は大きなふたつの力、鍵と鉄格子という目の前にある力と、まるで、危険物を扱うような隔離という法律と差別という見えにくい力で遮断されている。

 「ふたつの力」、それが「隔離」「遮断」として存在するとき、人間は生きているとは言えない。
 この描写、考察は、精神科病院の隔離病棟に関するものであって、人間の肉体に関することがらではないが、どこかで人間の肉体と二重写しになっている。「比喩」になっている。「隔離」「遮断」が、人間をさらに破壊しているのである。
 この「隔離」「遮断」--人間の内部の重なり合って共存するものを引き剥がす力、それからの回復の手がかりが「裸足」であったとこは、この作品のひとつの重要なテーマであると思う。
 肉体と大地。その間に、何の障害物もなく、直接触れる。足が大地に触れているのか、大地が足に触れているのか。足が大地に触れ、同時に大地が足に触れるのだ。2つは共存している。重なり合って、見分けがつかなくなる。そこから「生きる」ということがはじまる。



 私は人間が他のものと融合して、その瞬間に世界がかわるという感覚の作品が好きだが、その理由は、佐伯の「思想」(真実)からとらえ直せば、「私」と「他者」が重なり合い、共存する世界ということなのかもしれない。「私」と「他者」がそれぞれの形を保ちながら、それでいて混じり合って、生まれ変わる……。
 そういう瞬間のことを、佐伯は、ここでは描いているのかもしれなとも思った。


コメント
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