監督 阪本順治 出演 風吹ジュン、加藤治子、三田佳子
もし、この作品が女性監督の手で撮られていたら……。こういう仮定はよくないことなのかもしれないけれど、どうしてもそう思ってしまう。
風吹ジュンを中心にした同級生4人組の関係がすっきりしすぎている。いがみ合いや、なだめすかしがあるのだけれど、演技が演技のまま、個人の生々しさまで深まって行かない。4人のとき、それぞれが「役」をやっているだけ、「関係」を演じているだけで、役者そのものが見えてこない。「役」が現在だとすれば、役者は過去である。「現在」をつくりあげている「過去」が、「役」を突き破ってあふれてくる、「役者」そのものが「役」を破って暴れないことには、「現在」がとても薄っぺらく見える。風吹ジュンの同級生を演じた3人、藤田弓子、今陽子、由紀さおりは「過去」をみせることをためらっているのかもしれない。
それに比較すると、加藤治子はおもしろい。「役」を演じているのだけれど、加藤治子ってこういう女なんだ、と思わず勘違いしてしまう。ほんとうと嘘の境目を瞬時のうちにあっちへ行ったりこっちへ来たり。というより、ほんとうのことこそ嘘じゃないのかと思わせるように語ることでより本物になるという「役」そのものを実際に演じて見せる。「過去」をあざといくらいに噴出させて、「現在」をひっかきまわし、そのひっかきまわしてで肉体そのものをくっきりと浮かび上がらせる。「過去」も「現在」も肉体の中で同居しているという感じがとてもいい。芝居というのは「現在」ではなく、「現在」に噴出してくる「過去」を見せるものなんだなあ、ということを実感させる。そして、そういうふうに「過去」を見せつけることで「現在」を活性化させているからこそ、そこに「未来」があらわれると劇的に変化する。風吹ジュンの聞き役をやりながら、風呂場へ新しい獲物(?)らしき女が入っていくと、急に生き生きとしてそれを追いかける。風吹ジュンへの同情が瞬時にして消え、ただ獲物をねらい続ける「過去」がそのまま「未来」となって動く。いやあ、うまいなあ。「女優なんだもの、嘘つきと誤解されなきゃ女優やっている資格はないわ」とでもいうような感じだ。映画にすぎない、嘘なんだとわかっていながら引き込まれるのは、そういう瞬間である。
三田佳子も同じように「現在」を演じながら常に「過去」を噴出させる。加藤治子の「役」が、ほとんど「本性」そのままに「過去」を噴出させるのに対し、三田佳子は「過去」をいったん「頭」で整理し、感情を隠しながら「過去」を噴出させるのである。加藤との対比によって、とても強烈に迫ってくる。足の爪のペディキュアは単なる「化粧」にすぎないのに、ペディキュアをしているときとしていないときの変化は、まるで三田佳子の人生そのもののように迫ってくる。肉体の苦しみそのもののように迫ってくる。ペディキュアまで演技をしているのである。
風吹ジュンは損な「役」どころである。もともと「過去」がない「役」である。「過去」がないゆえに、「現在」を自分でつくりかえていくことができない、したがって「未来」へ突き進めない。加藤治子と出会い、「過去」というものが人間の力をつくるものであるということを知り、三田佳子と出会うことで「過去」をひとつひとつ拾い上げて行く。なかなかたいへんである。しかも、彼女をとりまく3人が、あったようななかったような、つまり「過去」とは言えない「思い出」のなかへ風吹ジュンをひっぱりこむので、「現在」はますます見えにくくなる。よくがんばって芝居をしているなあ、とちょっとだけ感心する。
これがもし女性監督だったら、藤田弓子、今陽子、由紀さおりのやった「役」をもう少し違った掘り下げ方ができたのではないのか。そうすることで風吹ジュンが「現在」を少しずつ「過去」にしていく仮定をもう少し豊かにふくらませることができたのではないのか。それとも加藤治子、三田佳子が風吹ジュンに与えた影響を浮き彫りにするために3人を凡庸にしたなのかなあ。
もっとおもしろくなるはずなのに、となぜか思ってしまう映画だった。
もし、この作品が女性監督の手で撮られていたら……。こういう仮定はよくないことなのかもしれないけれど、どうしてもそう思ってしまう。
風吹ジュンを中心にした同級生4人組の関係がすっきりしすぎている。いがみ合いや、なだめすかしがあるのだけれど、演技が演技のまま、個人の生々しさまで深まって行かない。4人のとき、それぞれが「役」をやっているだけ、「関係」を演じているだけで、役者そのものが見えてこない。「役」が現在だとすれば、役者は過去である。「現在」をつくりあげている「過去」が、「役」を突き破ってあふれてくる、「役者」そのものが「役」を破って暴れないことには、「現在」がとても薄っぺらく見える。風吹ジュンの同級生を演じた3人、藤田弓子、今陽子、由紀さおりは「過去」をみせることをためらっているのかもしれない。
それに比較すると、加藤治子はおもしろい。「役」を演じているのだけれど、加藤治子ってこういう女なんだ、と思わず勘違いしてしまう。ほんとうと嘘の境目を瞬時のうちにあっちへ行ったりこっちへ来たり。というより、ほんとうのことこそ嘘じゃないのかと思わせるように語ることでより本物になるという「役」そのものを実際に演じて見せる。「過去」をあざといくらいに噴出させて、「現在」をひっかきまわし、そのひっかきまわしてで肉体そのものをくっきりと浮かび上がらせる。「過去」も「現在」も肉体の中で同居しているという感じがとてもいい。芝居というのは「現在」ではなく、「現在」に噴出してくる「過去」を見せるものなんだなあ、ということを実感させる。そして、そういうふうに「過去」を見せつけることで「現在」を活性化させているからこそ、そこに「未来」があらわれると劇的に変化する。風吹ジュンの聞き役をやりながら、風呂場へ新しい獲物(?)らしき女が入っていくと、急に生き生きとしてそれを追いかける。風吹ジュンへの同情が瞬時にして消え、ただ獲物をねらい続ける「過去」がそのまま「未来」となって動く。いやあ、うまいなあ。「女優なんだもの、嘘つきと誤解されなきゃ女優やっている資格はないわ」とでもいうような感じだ。映画にすぎない、嘘なんだとわかっていながら引き込まれるのは、そういう瞬間である。
三田佳子も同じように「現在」を演じながら常に「過去」を噴出させる。加藤治子の「役」が、ほとんど「本性」そのままに「過去」を噴出させるのに対し、三田佳子は「過去」をいったん「頭」で整理し、感情を隠しながら「過去」を噴出させるのである。加藤との対比によって、とても強烈に迫ってくる。足の爪のペディキュアは単なる「化粧」にすぎないのに、ペディキュアをしているときとしていないときの変化は、まるで三田佳子の人生そのもののように迫ってくる。肉体の苦しみそのもののように迫ってくる。ペディキュアまで演技をしているのである。
風吹ジュンは損な「役」どころである。もともと「過去」がない「役」である。「過去」がないゆえに、「現在」を自分でつくりかえていくことができない、したがって「未来」へ突き進めない。加藤治子と出会い、「過去」というものが人間の力をつくるものであるということを知り、三田佳子と出会うことで「過去」をひとつひとつ拾い上げて行く。なかなかたいへんである。しかも、彼女をとりまく3人が、あったようななかったような、つまり「過去」とは言えない「思い出」のなかへ風吹ジュンをひっぱりこむので、「現在」はますます見えにくくなる。よくがんばって芝居をしているなあ、とちょっとだけ感心する。
これがもし女性監督だったら、藤田弓子、今陽子、由紀さおりのやった「役」をもう少し違った掘り下げ方ができたのではないのか。そうすることで風吹ジュンが「現在」を少しずつ「過去」にしていく仮定をもう少し豊かにふくらませることができたのではないのか。それとも加藤治子、三田佳子が風吹ジュンに与えた影響を浮き彫りにするために3人を凡庸にしたなのかなあ。
もっとおもしろくなるはずなのに、となぜか思ってしまう映画だった。