詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阪本順治監督「魂萌え!」

2007-02-08 20:43:10 | 映画
監督 阪本順治 出演 風吹ジュン、加藤治子、三田佳子

 もし、この作品が女性監督の手で撮られていたら……。こういう仮定はよくないことなのかもしれないけれど、どうしてもそう思ってしまう。
 風吹ジュンを中心にした同級生4人組の関係がすっきりしすぎている。いがみ合いや、なだめすかしがあるのだけれど、演技が演技のまま、個人の生々しさまで深まって行かない。4人のとき、それぞれが「役」をやっているだけ、「関係」を演じているだけで、役者そのものが見えてこない。「役」が現在だとすれば、役者は過去である。「現在」をつくりあげている「過去」が、「役」を突き破ってあふれてくる、「役者」そのものが「役」を破って暴れないことには、「現在」がとても薄っぺらく見える。風吹ジュンの同級生を演じた3人、藤田弓子、今陽子、由紀さおりは「過去」をみせることをためらっているのかもしれない。
 それに比較すると、加藤治子はおもしろい。「役」を演じているのだけれど、加藤治子ってこういう女なんだ、と思わず勘違いしてしまう。ほんとうと嘘の境目を瞬時のうちにあっちへ行ったりこっちへ来たり。というより、ほんとうのことこそ嘘じゃないのかと思わせるように語ることでより本物になるという「役」そのものを実際に演じて見せる。「過去」をあざといくらいに噴出させて、「現在」をひっかきまわし、そのひっかきまわしてで肉体そのものをくっきりと浮かび上がらせる。「過去」も「現在」も肉体の中で同居しているという感じがとてもいい。芝居というのは「現在」ではなく、「現在」に噴出してくる「過去」を見せるものなんだなあ、ということを実感させる。そして、そういうふうに「過去」を見せつけることで「現在」を活性化させているからこそ、そこに「未来」があらわれると劇的に変化する。風吹ジュンの聞き役をやりながら、風呂場へ新しい獲物(?)らしき女が入っていくと、急に生き生きとしてそれを追いかける。風吹ジュンへの同情が瞬時にして消え、ただ獲物をねらい続ける「過去」がそのまま「未来」となって動く。いやあ、うまいなあ。「女優なんだもの、嘘つきと誤解されなきゃ女優やっている資格はないわ」とでもいうような感じだ。映画にすぎない、嘘なんだとわかっていながら引き込まれるのは、そういう瞬間である。
 三田佳子も同じように「現在」を演じながら常に「過去」を噴出させる。加藤治子の「役」が、ほとんど「本性」そのままに「過去」を噴出させるのに対し、三田佳子は「過去」をいったん「頭」で整理し、感情を隠しながら「過去」を噴出させるのである。加藤との対比によって、とても強烈に迫ってくる。足の爪のペディキュアは単なる「化粧」にすぎないのに、ペディキュアをしているときとしていないときの変化は、まるで三田佳子の人生そのもののように迫ってくる。肉体の苦しみそのもののように迫ってくる。ペディキュアまで演技をしているのである。
 風吹ジュンは損な「役」どころである。もともと「過去」がない「役」である。「過去」がないゆえに、「現在」を自分でつくりかえていくことができない、したがって「未来」へ突き進めない。加藤治子と出会い、「過去」というものが人間の力をつくるものであるということを知り、三田佳子と出会うことで「過去」をひとつひとつ拾い上げて行く。なかなかたいへんである。しかも、彼女をとりまく3人が、あったようななかったような、つまり「過去」とは言えない「思い出」のなかへ風吹ジュンをひっぱりこむので、「現在」はますます見えにくくなる。よくがんばって芝居をしているなあ、とちょっとだけ感心する。
 これがもし女性監督だったら、藤田弓子、今陽子、由紀さおりのやった「役」をもう少し違った掘り下げ方ができたのではないのか。そうすることで風吹ジュンが「現在」を少しずつ「過去」にしていく仮定をもう少し豊かにふくらませることができたのではないのか。それとも加藤治子、三田佳子が風吹ジュンに与えた影響を浮き彫りにするために3人を凡庸にしたなのかなあ。
 もっとおもしろくなるはずなのに、となぜか思ってしまう映画だった。

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清岡卓行論のためのメモ(20)

2007-02-08 07:58:17 | 詩集
 『通り過ぎる女たち』(思潮社、1995年11月25日発行)。
 「円き広場」はさまざまな形であらわれる。たとえば「ある日光浴」。パリ、セーヌの岸辺。若い女性がふたり日光浴をしている。

なぜなら人間の生活にとって本源的な
土地と水流と空気の三つが同時に接する一線に
二人の娘はほとんど触れているから。
大昔に集落があったというパリのまんなかで。

 複数のものが「同時に接する一線」。それは「円き広場」を貫く道である。この作品からもうひとつ重要なことばを拾い上げるとしたら「まんなか」である。「円き広場」にはかならず「まんなか」、つまり中心がある。そして、その中心が「と」である。「土地と水流と空気」のなかの「と」。「と」という中心から広がる無限大の広がり。宇宙。それを常に清岡は夢みている。
 清岡の見ているものが単に水平方向だけではなく、立体を含めた「円」、つまり「球」であることは、いま引用した「土地と水流と空気」という「一線」のなかに、「空気」という立体方向のものが含まれていることからもわかる。
 そうしたことがより鮮明にわかる作品として、「冬の樹の下の美女」の次の連がある。

樹が存在する位置の不動
幹が意志する上昇への垂直
その内部にふくらむ年輪の持続
いつもすべてがそろうわけではないが
枝に葉や花や実が現れる移ろい
そして 根が広く深く下降して行く暗闇。

 「樹」のなかで接する「一線」。そこに垂直に伸びる幹があり、水平に広がる年輪がある。そして、そこには上昇と同時に「下降」もある。
 この「下降」はもちろん清岡卓行の夢想である。「樹」そのものに「下降して行く暗闇」があるということは、植物学的に誰も観察していないだろう。
 ここに「詩」がある。存在しないもの。存在しないものを、あたかも存在するかのように出現させてしまうことばの力。それが「詩」である。そして、この「詩」をじっくりと眺めるならば、そこからまたひとつ清岡の「嗜好」(これは「思考」に通じ、したがって「思想」にも通じる)ものが見えてくる。
 「根が広く深く下降して」ということばのなかの「広く深く」という広がり。清岡のことばは凝縮した一点ではなく、ある一点からどこまでも広く深く(あるいは高く)動いて行く運動を特徴とする。
 こうした運動のために必要なのは「中心」である。「と」である。何か「と」何か。それを「一線」として形成するための中心としての「と」。

 「中心」ということばから連想するものに、「太陽」がある。清岡は太陽が非常に好きである。何度も何度も作品に出てくる。この詩集のなかにも、次のような行がある。

  太陽に酔うこと
  それはそのままで
  人生への愛である。  (「地球のうえで」)

 「ある日光浴」でにおいても太陽を満喫する女性が描かれていた。太陽を満喫しているからこそ、清岡は彼女たちを作品に描いたのである。
 もうひとつ「太陽」、そして「一線」(あるいは一直線)とつながる作品。「謎の裸女」。その最終連。

賑やかさがもどった自由なマーケットの日本人たちの逆境を
女の後ろ姿は嘲笑すると同時に激励するかのように
坂の頂上で無一物の裸の垂直を夕日にひときわ輝かせる。
謎の女が坂の向こうに沈んで行ったその後の明るさのまだ残る青い空。

 敗戦後の大連。その街のマーケットにあらわれた裸の女がマーケットをまっすぐに引き裂き坂を上る。その頂上で夕日と重なる。その美しさ。
 この作品には、また「嘲笑すると同時に激励」ということばがあるが、こうした矛盾を一点に集中させ、そこから全宇宙へ「美」を放射する--というのが清岡の「詩」である。「裸の女」は実際に裸の女であると同時に、世界の中心の「と」なのである。



 少し逆戻りして……。「冬の樹の下の美女」のなかの「根が広く深く下降して行く暗闇」という行について。「暗闇」について。
 清岡は「太陽」が好きである。しかし同時に「暗闇」を忘れない。暗闇があるからこそ太陽が輝くし、太陽が輝くからこそ暗闇も意味を持つ。「謎の裸女」も「闇」であり同時に「太陽」のような存在だった。汚れた裸の体、何も身につけいない女は、いわば「暗闇」のような大連の日本人の状態を象徴しているかもしれない。それが毅然として街中を歩いていく。そのとき「暗闇」は「暗闇」ではなくなる。何か輝かしいもの、表面は汚れても内部はけっして汚れていない--その汚れのなさ、無垢さ、輝く美を感じさせる。だからこそ、それは夕日の輝きと一直線でつながるのである。

 美と汚れ。その一直線のつながりは、再生とむすびついているかもしれない。詩集中、私がもっとも美しいと感じる作品は「嬰児ではなく」である。そこに描かれているのは若い娘である。夢のなかで彼女は襁褓(おしめ)をつけている。そう気がついたあとの夢の描写がとても美しい。

どうして襁褓(おしめ)なのだろう?
そう訝ったとき
宙に浮く 無色透明の 見えない右手
だれのものかわからない右手が
襁褓の背中のほうの端をつかみ
静かにそれを剥ぎとっていった。
おお そのあとに現われたのは
赤ちゃんのように
たんぽぽの花の黄色い便を
肛門のまわりにべったりつけた
お尻であった。
かれは驚愕した。
なんという汚さ!
さあ早く 生温いお湯で
よく洗い落としてやり
そのあとに石鹸の白い泡をいっぱいつけ
もう一度 生ぬるいお湯で
よくよく洗ってやらなければ!
すっかり綺麗に洗ってしまえば
今度は逆に
眩しいほどの白さで
ふっくら輝く
すばらしく美しいお尻があらわれるだろう!

 汚れと美が一瞬にして逆転する。逆転するのは、それが「一線」に結びついているからである。そして、この美の奥には、人間の肉体への限りない信頼がある。
 便で汚れた若い娘の裸--それを夢みるのは人間の「暗闇」だろうか。そして、それを洗ってきれいにすれば「美」があらわれるというのも人間の「暗闇」だろうか。--それはよくわからないが、真新しい輝く尻の美しさ、それを美しいと感じる肉体の真実。そういうものが清岡の詩をとても健康なものにしていると思う。


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