詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ノア・バームバック監督「イカとクジラ」

2007-02-28 22:26:44 | 映画
監督 ノア・バームバック 出演 ジェフ・ダニエルズ、ローラ・リニー、ジェス・アイゼンバーグ、オーウェン・クライン

 スノッブな味が満載。
 映像としては、夫が別居した妻を訪ね、玄関口で会話するシーンにスノッブの特徴がよくあらわれている。夫、妻の顔が会話にあわせてアップになるが、スクリーンの中央に顔が映るわけではない。夫を映しているとき、その左側に通りが映る。奥行きとして、通りと向かいの通りの家が映る。妻の場合はドアから部屋の奥がほんの少し見える。どちらも真っ正面から何かに向き合うというよりも、すこし視点をずらしている。ずらすことで衝突を緩和している。
 傑作なのは、そういう正面衝突を避けることが積み重なって、やっぱり正面衝突してしまうことである。夫と妻は、ふたりとも作家なのだが、互いの書いているものが心底好きなわけではない。そのことをうまく伝えられず、視点をずらす。そのことが積み重なって、ずらし続けたものが正面にまでずれてきてしまって、別居している。その別居に、ふたりの子供と猫が巻き込まれる。
 ここからどうやって立ち直る?
 長男の視点から世界を見ていくと、その手がかりがわかる。
 長男は父親のいうことを鵜呑みにしている。スノッブをそのまま引き継いで、自分の声(自分の感じ方)を失っている。その象徴的なできごととしてピンクフロイドの曲を盗作するということが起きる。自分の声ではなく、他人の声で、すべてを語ってしまうのである。ガールフレンドとのセックスでも自分のほんとうの声を発することができない。失敗(?)したあとも自分の声を発することができない。
 長男は、この映画の最後の最後になって、自分が父親のことばで世界を見ていたことに気がつく。病院に緊急入院した父が息子に対して「おまえは昔は自分の感じたことを自分のことばで語ることができた子供だった」というようなことを言う。そのとき、はっと気がつく。映画のタイトルとなっている「イカとクジラ」、自然史博物館の展示--それがこわくて指の間からしか見ることができなかった、という記憶が長男にはある。それはほんとうに彼の記憶なのか?
 これに先立って、盗作問題を起こしたことをきっかけに長男はセラピーを受ける。そのとき、「イカとクジラ」の話をする。自然史博物館でイカとクジラが戦っている展示を見た。怖かった。そのことを夜、母と風呂のなかで話した。この話に対して、セラピストは「父親は? きみの話に父親が出てこないのは?」と問う。長男は答えられなかった。父がそのときどこにいたのか思いだせないのだった。
 この答えられなかった理由が、最後の最後になって、明かされる。長男は自分の体験を語っているのではないのだ。父に聞かせられた体験を自分の体験として語ってきたのである。イカとクジラの戦いが怖かったという思い出さえ、父の「物語」である。
 長男はいつでも父の「物語」を自分の声として語る。小説の感想(批評)は父親の受け売りだ。実感していないから、カフカの作品を「カフカ的だ」と批評して、父親のガールフレンドに、「だってカフカの作品よ」とたしなめられたりもする。
 最後の最後。長男は父から看護婦に枕をもってきてくれるよう頼んでくれ、と言われる。金髪の看護婦に、と指定される。しかし、長男は、はじめて(おそらく)父を裏切る。教えられた金髪の看護婦には頼まず、廊下ですれちがった看護婦に枕の件を頼む。父親からの自立である。そして、自然史博物館へ「イカとクジラ」を見に行く。ほんとうにイカとクジラは戦っているのか。
 そして、そこで長男は、「イカとクジラ」の「物語」が父の「物語」だったことを確認する。母親と風呂で話したことは、父の「物語」だった。父がそのとき長男の記憶から消えていたのは、父の「物語」を自分の「物語」として語ったからである。父がいては彼自身が消えてしまう。無意識的に彼は自分と父を同一人物として体現していたのである。そのことに、長男は、やっと気づく。
 これはひとりの息子が父親の影響(ことば--というのも、父親が「小説家」だからであるが)から脱皮する過程を、スノッブそのものの視点で描いた作品である。
 こういう映画を好きになる人は少ないだろうなあ、と思う。登場人物はみんな生々しくない。どこか気取って、とっかかりがない。映像も、網膜に直接焼きついてくるというような刺激的なものはない。そんなにじっと見つめないでくれとでも言っているかのように視線を避けたような、そのくせ直視を避けることでのみ生じる批評の冷たい感じを漂わせる。くすくすというような、どうでもいいような(?)笑いを漂わせる。笑うことで何か開放的になるというのではない、むしろ冷やかな感じになってしまう笑いを漂わせる。こういう作品を好きになってしまうということは、それがそのままスノッブになるということかもしれない。ご用心、ご用心、ご用心。
 --と言いながら、私は、この脚本、そしてこの映画のナチュラルを装った映像というものがかなり好きである。スノッブに染まっているのかなあ。(と、少し反省してみた。)。また、この映画には私の大好きな大好きなケビン・クラインの息子、オーウェン・クラインが出ている。食事中にナッツを鼻の穴に入れたり、憂さ晴らしにビールを飲んだり、オナニーだけでは満足できず精液を図書館の本になすりつけたりするという、かなり危ない少年を演じているのだが、ケビン・クラインそのままの、びっくりするくらいナチュラルな演技だ。どんな役者に育つんだろうか。とても楽しみだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小松弘愛「てんぽうな」再読

2007-02-28 11:25:22 | 詩(雑誌・同人誌)
 小松弘愛「てんぽうな」再読(「兆」133、02月05日発行)。
 きのう27日に書いた小松弘愛「てんぽうな」の感想は、「無鉄砲な」ということばにひきずられすぎたかもしれない。「てんぽうな」は「鉄砲な」(無鉄砲な)とは無関係なことばかもしれない。語源は「鉄砲」にはないかもしれない。「天法な」かもしれない、と突然思った。こんなことばがほんとうにあるかどうかも知らないのだが。
 実は、きのう、人参が空を飛ぶ夢を見た。というか、途中から、人参になって空を飛んでいる夢を見た。私はまず青空を見上げ、つまり「天」を見上げた。「てんぽうな」の「てん」が「天」につながっていることを突然感じた。真っ青な空、「天」までぬけるような青空に浮かんだ人参。それを次の見た瞬間、人参になって、空を飛びはじめた。目の前には私をさえぎるものは何もない。広い広い空間。前後左右、上下、どこもかしこも自由に動き回れる。「天」は自由の場である。
 詩を読み返してみた。

そういえば
わたしは空を飛ぶ夢を一度も見たことがない
夢でも飛べない男
このコンプレックスのせいか
去年の春
新聞で見た広告がまだ記憶に残っている

あれは
たしか「キューピーマヨネーズ」だった
カラー版の全面広告の上の方に
一本の 葉っぱをつけた人参が浮かんでいた
下には一群のビルが建ち並んでいたので
あの人参は空を飛んでいたことになる
「てんぽうな」ことをする人参だ

 私は急にこの詩が好きになった。「てんぽうな」を「天法な」と読み替えることは「誤読」かもしれない。「誤読」に違いない--そう思いながらも、その「誤読」の世界で思いっきり遊びたくなったのである。
 空を飛ぶ人参。その広告を私は見たことがない。だからこれからの「想像」もまた小松の描いている「現実」とは無関係なもかもしれないが、私が想像したものをそのまま書く。
 人参は立っている。つまり緑の葉っぱを上にして直立して空に浮かんでいる。小松は空を飛ぶ夢を見たことがないそうだが、私は何度も何度も見る。そのとき私はいつも直立している。
 直立して空を飛ぶシーンはパゾリーニの映画にあった。またバシュラールも直立して飛ぶ夢、足首のところに羽根が生えている夢について書いている。このふたつのことがらは私を勇気づけた。私は多くの人がいうように飛行機や鳥のように両手を広げて飛んでいる夢は見たことがない。いつも直立して、どちらかというと金縛り状態で、でたらめに宙を動き回る。遠くに山が見え、ビルが見え、下を見ると街や野原や海が見えるので飛んでいるのだと気づく。
 同じように人参も立ったまま飛んでいるのだと思った。
 その広告でマヨネーズ会社が何を狙ったか私にはわからないが、その唐突な映像から、私は、きのう27日に書いた「ナンセンス」ということばを思いだしたのである。
 空を飛ぶ人参はナンセンスである。50メートルの煙突に登ることもナンセンスである。しかしそのナンセンスが人間を引きつける。日常から人間を引き離す。そのとき、なんといえばいいのだろうか、解放された気分になる。笑いたい。なんでもいいから声を出したい。ことばにならないもの、ただ体のなかに眠っている声を外へほうりだしたい。自由になりたい。実際、ナンセンスな笑いのただなかで、私は完全な自由を感じる。
 「てんぽうな」が「天法な」だと仮定する。その「天」は「天真爛漫」の「天」でもあある。「天真爛漫」とは「天の法」にのみしたがって(つまり、現実の、日常の決まりなど無視して)行動することである。完全な自由こそ「天の法」である……。
 50メートルの煙突によじのぼる。それは天真爛漫な行動ではないだろうか。「無鉄砲な」「思いきった」ということばは、その「天真爛漫」に吸収されはしないだろうか。

わたしは
「煙突中学」に通いながら
あの煙突に登ってみたいなどと
「てんぽうな」ことは考えもしなかった
「無鉄砲な」ことをする気力もなかった
「思いきった」ことをする覇気がなかった

これを

あの煙突に登ってみたいなどと
「てんぽうな」ことは考えもしなかった
「天真爛漫な」ことをする無邪気さがなかった
「天の法」そのままにこうどうすること、日常の決まりを無視する覇気がなかった

と書き換えて読みたくなったのである。いや、知らず知らずに、そういうふうに書き換えて読んでいる自分を発見したのである。

 そしてまた、私は次のようなことも、勢いにまかせて考える。「てんぽうな」ということばは「鉄砲」伝来以前からあることばかもしれない。そうであるなら「鉄砲な」ということばを想像し、「無鉄砲な」ということばと比較した27日の読み方こそ誤読であり、「天法な」と読み替えたきょうの感想の方が「土佐弁」の本質に迫っているのではないだろうか。
 小松さん、「てんぽうな」を「無鉄砲な」「思いきった」と標準語化(?)した部分は考えなおしてみませんか、と、そんなことまでいいたくなってしまった。「無鉄砲な」の「無」を生かしたまま「無邪気な」という標準語で「てんぽうな」を説明する方が、空飛ぶ人参というナンセンスに結びつくように感じるのです。

 (以上は、もちろん「土佐弁」のことなどまったく知らない人間の「妄想」なのですが……。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする