監督 ノア・バームバック 出演 ジェフ・ダニエルズ、ローラ・リニー、ジェス・アイゼンバーグ、オーウェン・クライン
スノッブな味が満載。
映像としては、夫が別居した妻を訪ね、玄関口で会話するシーンにスノッブの特徴がよくあらわれている。夫、妻の顔が会話にあわせてアップになるが、スクリーンの中央に顔が映るわけではない。夫を映しているとき、その左側に通りが映る。奥行きとして、通りと向かいの通りの家が映る。妻の場合はドアから部屋の奥がほんの少し見える。どちらも真っ正面から何かに向き合うというよりも、すこし視点をずらしている。ずらすことで衝突を緩和している。
傑作なのは、そういう正面衝突を避けることが積み重なって、やっぱり正面衝突してしまうことである。夫と妻は、ふたりとも作家なのだが、互いの書いているものが心底好きなわけではない。そのことをうまく伝えられず、視点をずらす。そのことが積み重なって、ずらし続けたものが正面にまでずれてきてしまって、別居している。その別居に、ふたりの子供と猫が巻き込まれる。
ここからどうやって立ち直る?
長男の視点から世界を見ていくと、その手がかりがわかる。
長男は父親のいうことを鵜呑みにしている。スノッブをそのまま引き継いで、自分の声(自分の感じ方)を失っている。その象徴的なできごととしてピンクフロイドの曲を盗作するということが起きる。自分の声ではなく、他人の声で、すべてを語ってしまうのである。ガールフレンドとのセックスでも自分のほんとうの声を発することができない。失敗(?)したあとも自分の声を発することができない。
長男は、この映画の最後の最後になって、自分が父親のことばで世界を見ていたことに気がつく。病院に緊急入院した父が息子に対して「おまえは昔は自分の感じたことを自分のことばで語ることができた子供だった」というようなことを言う。そのとき、はっと気がつく。映画のタイトルとなっている「イカとクジラ」、自然史博物館の展示--それがこわくて指の間からしか見ることができなかった、という記憶が長男にはある。それはほんとうに彼の記憶なのか?
これに先立って、盗作問題を起こしたことをきっかけに長男はセラピーを受ける。そのとき、「イカとクジラ」の話をする。自然史博物館でイカとクジラが戦っている展示を見た。怖かった。そのことを夜、母と風呂のなかで話した。この話に対して、セラピストは「父親は? きみの話に父親が出てこないのは?」と問う。長男は答えられなかった。父がそのときどこにいたのか思いだせないのだった。
この答えられなかった理由が、最後の最後になって、明かされる。長男は自分の体験を語っているのではないのだ。父に聞かせられた体験を自分の体験として語ってきたのである。イカとクジラの戦いが怖かったという思い出さえ、父の「物語」である。
長男はいつでも父の「物語」を自分の声として語る。小説の感想(批評)は父親の受け売りだ。実感していないから、カフカの作品を「カフカ的だ」と批評して、父親のガールフレンドに、「だってカフカの作品よ」とたしなめられたりもする。
最後の最後。長男は父から看護婦に枕をもってきてくれるよう頼んでくれ、と言われる。金髪の看護婦に、と指定される。しかし、長男は、はじめて(おそらく)父を裏切る。教えられた金髪の看護婦には頼まず、廊下ですれちがった看護婦に枕の件を頼む。父親からの自立である。そして、自然史博物館へ「イカとクジラ」を見に行く。ほんとうにイカとクジラは戦っているのか。
そして、そこで長男は、「イカとクジラ」の「物語」が父の「物語」だったことを確認する。母親と風呂で話したことは、父の「物語」だった。父がそのとき長男の記憶から消えていたのは、父の「物語」を自分の「物語」として語ったからである。父がいては彼自身が消えてしまう。無意識的に彼は自分と父を同一人物として体現していたのである。そのことに、長男は、やっと気づく。
これはひとりの息子が父親の影響(ことば--というのも、父親が「小説家」だからであるが)から脱皮する過程を、スノッブそのものの視点で描いた作品である。
こういう映画を好きになる人は少ないだろうなあ、と思う。登場人物はみんな生々しくない。どこか気取って、とっかかりがない。映像も、網膜に直接焼きついてくるというような刺激的なものはない。そんなにじっと見つめないでくれとでも言っているかのように視線を避けたような、そのくせ直視を避けることでのみ生じる批評の冷たい感じを漂わせる。くすくすというような、どうでもいいような(?)笑いを漂わせる。笑うことで何か開放的になるというのではない、むしろ冷やかな感じになってしまう笑いを漂わせる。こういう作品を好きになってしまうということは、それがそのままスノッブになるということかもしれない。ご用心、ご用心、ご用心。
--と言いながら、私は、この脚本、そしてこの映画のナチュラルを装った映像というものがかなり好きである。スノッブに染まっているのかなあ。(と、少し反省してみた。)。また、この映画には私の大好きな大好きなケビン・クラインの息子、オーウェン・クラインが出ている。食事中にナッツを鼻の穴に入れたり、憂さ晴らしにビールを飲んだり、オナニーだけでは満足できず精液を図書館の本になすりつけたりするという、かなり危ない少年を演じているのだが、ケビン・クラインそのままの、びっくりするくらいナチュラルな演技だ。どんな役者に育つんだろうか。とても楽しみだ。
スノッブな味が満載。
映像としては、夫が別居した妻を訪ね、玄関口で会話するシーンにスノッブの特徴がよくあらわれている。夫、妻の顔が会話にあわせてアップになるが、スクリーンの中央に顔が映るわけではない。夫を映しているとき、その左側に通りが映る。奥行きとして、通りと向かいの通りの家が映る。妻の場合はドアから部屋の奥がほんの少し見える。どちらも真っ正面から何かに向き合うというよりも、すこし視点をずらしている。ずらすことで衝突を緩和している。
傑作なのは、そういう正面衝突を避けることが積み重なって、やっぱり正面衝突してしまうことである。夫と妻は、ふたりとも作家なのだが、互いの書いているものが心底好きなわけではない。そのことをうまく伝えられず、視点をずらす。そのことが積み重なって、ずらし続けたものが正面にまでずれてきてしまって、別居している。その別居に、ふたりの子供と猫が巻き込まれる。
ここからどうやって立ち直る?
長男の視点から世界を見ていくと、その手がかりがわかる。
長男は父親のいうことを鵜呑みにしている。スノッブをそのまま引き継いで、自分の声(自分の感じ方)を失っている。その象徴的なできごととしてピンクフロイドの曲を盗作するということが起きる。自分の声ではなく、他人の声で、すべてを語ってしまうのである。ガールフレンドとのセックスでも自分のほんとうの声を発することができない。失敗(?)したあとも自分の声を発することができない。
長男は、この映画の最後の最後になって、自分が父親のことばで世界を見ていたことに気がつく。病院に緊急入院した父が息子に対して「おまえは昔は自分の感じたことを自分のことばで語ることができた子供だった」というようなことを言う。そのとき、はっと気がつく。映画のタイトルとなっている「イカとクジラ」、自然史博物館の展示--それがこわくて指の間からしか見ることができなかった、という記憶が長男にはある。それはほんとうに彼の記憶なのか?
これに先立って、盗作問題を起こしたことをきっかけに長男はセラピーを受ける。そのとき、「イカとクジラ」の話をする。自然史博物館でイカとクジラが戦っている展示を見た。怖かった。そのことを夜、母と風呂のなかで話した。この話に対して、セラピストは「父親は? きみの話に父親が出てこないのは?」と問う。長男は答えられなかった。父がそのときどこにいたのか思いだせないのだった。
この答えられなかった理由が、最後の最後になって、明かされる。長男は自分の体験を語っているのではないのだ。父に聞かせられた体験を自分の体験として語ってきたのである。イカとクジラの戦いが怖かったという思い出さえ、父の「物語」である。
長男はいつでも父の「物語」を自分の声として語る。小説の感想(批評)は父親の受け売りだ。実感していないから、カフカの作品を「カフカ的だ」と批評して、父親のガールフレンドに、「だってカフカの作品よ」とたしなめられたりもする。
最後の最後。長男は父から看護婦に枕をもってきてくれるよう頼んでくれ、と言われる。金髪の看護婦に、と指定される。しかし、長男は、はじめて(おそらく)父を裏切る。教えられた金髪の看護婦には頼まず、廊下ですれちがった看護婦に枕の件を頼む。父親からの自立である。そして、自然史博物館へ「イカとクジラ」を見に行く。ほんとうにイカとクジラは戦っているのか。
そして、そこで長男は、「イカとクジラ」の「物語」が父の「物語」だったことを確認する。母親と風呂で話したことは、父の「物語」だった。父がそのとき長男の記憶から消えていたのは、父の「物語」を自分の「物語」として語ったからである。父がいては彼自身が消えてしまう。無意識的に彼は自分と父を同一人物として体現していたのである。そのことに、長男は、やっと気づく。
これはひとりの息子が父親の影響(ことば--というのも、父親が「小説家」だからであるが)から脱皮する過程を、スノッブそのものの視点で描いた作品である。
こういう映画を好きになる人は少ないだろうなあ、と思う。登場人物はみんな生々しくない。どこか気取って、とっかかりがない。映像も、網膜に直接焼きついてくるというような刺激的なものはない。そんなにじっと見つめないでくれとでも言っているかのように視線を避けたような、そのくせ直視を避けることでのみ生じる批評の冷たい感じを漂わせる。くすくすというような、どうでもいいような(?)笑いを漂わせる。笑うことで何か開放的になるというのではない、むしろ冷やかな感じになってしまう笑いを漂わせる。こういう作品を好きになってしまうということは、それがそのままスノッブになるということかもしれない。ご用心、ご用心、ご用心。
--と言いながら、私は、この脚本、そしてこの映画のナチュラルを装った映像というものがかなり好きである。スノッブに染まっているのかなあ。(と、少し反省してみた。)。また、この映画には私の大好きな大好きなケビン・クラインの息子、オーウェン・クラインが出ている。食事中にナッツを鼻の穴に入れたり、憂さ晴らしにビールを飲んだり、オナニーだけでは満足できず精液を図書館の本になすりつけたりするという、かなり危ない少年を演じているのだが、ケビン・クラインそのままの、びっくりするくらいナチュラルな演技だ。どんな役者に育つんだろうか。とても楽しみだ。