『一瞬
』(思潮社
、2002年08月20日発行)。
巻頭の「ある眩暈(くるめき)」に「一瞬」ということばはない。しかし、隠されている。
「驚き」「戦き」「眩暈」。それは「一瞬」と同義である。そして、それは「意識以前」の感覚である。「意識するまえの」の「まえ」。それが一瞬だ。意識化されたもの--それはいわば「固定化」されたものである。意識化されるまえ、固定化されるまえ。そして「固定化」されていないかゆえに、それは「驚き」「戦き」「眩暈」のなかを駆け抜ける。どう呼んでも同じなのである。「驚き」「戦き」「眩暈」は同じことを言い換えているのである。「一瞬」を言い換えているのである。
この作品は短いが、清岡の特徴が非常によくでている。清岡の特徴が凝縮している。たとえば、
この二つの「兆し」。それがひとつではないということ。「兆し」と「兆し」の間には非常に広い次元が広がっている。たえず対立するもの、この詩では「敗れる」と「逃れる」が両極をつくり、その両極の間が広いということが清岡のことばの運動の特徴である。無限に広がる広がりのなかで、清岡のことばは「意識」の道筋をつくりあげるのである。意識の道筋ができたとき、それは「円き広場」につながる。
清岡の意識の特徴は、先に書いた「固定化」に関することがらと矛盾して感じられるかもしれないが、けっして固定しないことだ。道筋ができることで、その道を通って何度でもその道を往復することができる、というのが清岡の目指している道筋である。より深く驚き、戦き、眩暈するために意識化しようとするのである。意識化できたとき、はじめて自在な運動がはじまると言い換えた方がいいかもしれない。
この詩には、もう一つ見逃してはいけない重要なことばがある。「敵」。それを「美」と清岡は呼んでいる。「敵」は「醜」ではなく、「美」。なぜか。清岡の意識、それまで安定していた意識をつくりかえるからである。新しい「美」を受け入れるためには、それまでの「美」は否定され、新しい意識の構造が必要だからである。自分を再構成し直さなければならない。「私」は再生紙直さなければならない。つまり、いったん死ななければならない。どんな形であれ、自己に死をもたらすものは敵である。
そして、いったん死があるからこそ、再生もある。
私の書いていることは矛盾に満ちている。だが、そういう矛盾の形でしか書けないものが、清岡の美なのである。矛盾は、ある一瞬だけ矛盾ではなくなる。「驚き」「戦き」「眩暈」。その一瞬は、すべての意識は空白になる。ゆえに、その瞬間は「矛盾」は存在しない。
巻頭の「ある眩暈(くるめき)」に「一瞬」ということばはない。しかし、隠されている。
それが美
であると意識するまえの
かすかな驚きが好きだ。
風景だろうと
音楽だろうと
はたまた人間の素顔だろうと
初めて接した敵が美
であると意識するまえの
ひそかな戦(おのの)きが好きだ。
やがては自分が無残に
敗れる兆しか。
それともそこから必死に
逃れる兆しか。
それほど孤独でおろかな
それほど神秘でほのかな
眩暈(くるめき)が好きだ。
「驚き」「戦き」「眩暈」。それは「一瞬」と同義である。そして、それは「意識以前」の感覚である。「意識するまえの」の「まえ」。それが一瞬だ。意識化されたもの--それはいわば「固定化」されたものである。意識化されるまえ、固定化されるまえ。そして「固定化」されていないかゆえに、それは「驚き」「戦き」「眩暈」のなかを駆け抜ける。どう呼んでも同じなのである。「驚き」「戦き」「眩暈」は同じことを言い換えているのである。「一瞬」を言い換えているのである。
この作品は短いが、清岡の特徴が非常によくでている。清岡の特徴が凝縮している。たとえば、
やがては自分が無残に
敗れる兆しか。
それともそこから必死に
逃れる兆しか。
この二つの「兆し」。それがひとつではないということ。「兆し」と「兆し」の間には非常に広い次元が広がっている。たえず対立するもの、この詩では「敗れる」と「逃れる」が両極をつくり、その両極の間が広いということが清岡のことばの運動の特徴である。無限に広がる広がりのなかで、清岡のことばは「意識」の道筋をつくりあげるのである。意識の道筋ができたとき、それは「円き広場」につながる。
清岡の意識の特徴は、先に書いた「固定化」に関することがらと矛盾して感じられるかもしれないが、けっして固定しないことだ。道筋ができることで、その道を通って何度でもその道を往復することができる、というのが清岡の目指している道筋である。より深く驚き、戦き、眩暈するために意識化しようとするのである。意識化できたとき、はじめて自在な運動がはじまると言い換えた方がいいかもしれない。
この詩には、もう一つ見逃してはいけない重要なことばがある。「敵」。それを「美」と清岡は呼んでいる。「敵」は「醜」ではなく、「美」。なぜか。清岡の意識、それまで安定していた意識をつくりかえるからである。新しい「美」を受け入れるためには、それまでの「美」は否定され、新しい意識の構造が必要だからである。自分を再構成し直さなければならない。「私」は再生紙直さなければならない。つまり、いったん死ななければならない。どんな形であれ、自己に死をもたらすものは敵である。
そして、いったん死があるからこそ、再生もある。
私の書いていることは矛盾に満ちている。だが、そういう矛盾の形でしか書けないものが、清岡の美なのである。矛盾は、ある一瞬だけ矛盾ではなくなる。「驚き」「戦き」「眩暈」。その一瞬は、すべての意識は空白になる。ゆえに、その瞬間は「矛盾」は存在しない。