詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

武田肇『詩史または本の精神』(その3)

2007-02-24 21:14:24 | 詩集
 武田肇『詩史または本の精神』(その3)(銅林社、2007年04月01日発行、非売品)。
 22日、23日、奇妙なことを書き続けたので、視点をかえて……。私が武田の作品で好きな部分。それはたとえば、

たとえばやはらかい幼女の頭部に いま
ヘアピンの強い弾性が働いているふしぎさ
相反する性質を互いに差引いて消滅させている世界が遠方にきっと在るのだろう
                         (68ページ)

 ことばのリズムが好きだ。リズムをつくりだしていることばの「感触」の差異。たとえば「やはらかい」と「文語」表記のなかの、文字どおりの「やわらかさ」と強固な伝統。「やはらかい」と対照的な「頭部」ということば。「頭」あるいは「あたま」ではなく「頭部」というときの聴覚(音)と視覚の差異。印象のぶつかりあい。
 おなじように、「ヘアピン」と「弾性」、「弾性」と「働いている」の衝突。なぜ、「弾性」が「作用している」ではない? さらには「ふしぎさ」という表記。「不思議」となぜ書かない?
 そして、先行する2行の、なにやら妖しい肉感(ヘアピンを描いているにもかかわらず、少女の肉体を連想させる、一種のいやらしさ)と対照的な3行目の、頭でゆっくり考えないと意味が理解できないようなことばの衝突。
 こうしたことは、ひとつひとつ、ことばをどう書くかということを吟味していては書けない。本能的にことばを選び取り、積み重ねることでしか書けない。そういう本能を鍛えるためには、本をたくさん読まなければならない。読んだことばの蓄積が、ひとつひとつのことばの選択、表記の選択となって、自然にあらわれてしまうのだ。(武田は感じを正字体で書いているが、これも彼の読書の質を明らかにしている。)
 ことばの選択、表記の選択が、そのまま武田の読書量を伝えるものになっている。ことばの選択、表記が、完全に武田の肉体になってしまっている。そういう安心感が、とてもすばらしい。
 先の引用につづく部分(68、69ページ)も美しい。

消えかかる物たちの中でも 最小の
それはその時一本の留具にすぎないのであったが
濃度なのでもあった
(幼女の(頭部
という夕空の端のがけっぷちで激しく曲っていたのだから
あるいは消えかかる物たちはその物をべつのものによって語り始めるための
激流でもあるのだから

 「夕空の端のがけっぷちで激しく曲っていた」というのは70年代の「現代詩」のようなつややかなことばの運動だが、「古い」とは感じず、ああ、こういうつややかさはいいなあ、なつかしいなあ、と久々に感じてしまった。

ここまでおまえはすべてに成功する、すなわち誰にも見られず(あきる野
の(野辺
の(七辻
にしゃがんで鱧中の穴を地中に接続(アース)する
穴は動詞だ
ここから(雨間
へと街界を越える、こんこんとねむる町
(雨間(アマメ)
ソックスはまぶしげにずりさがり地中を寂(さび)しむ
                          (22ページ)
  (谷内注・ルビを括弧で表記したため、原典とは表記が違っています。また武田は漢字を正字で表記しています。)

 「穴は動詞だ」という有無を言わさぬ断定が楽しい。また引用した部分の最後の「ソックス」から始まる行の「さ行」「ば行」(ま行--「ば」「ま」のわたり)ゆらぎが「寂しむ」できゅっとしまる音の楽しさ。
 武田は目も耳も(そして、たぶん唇も、舌も、歯も)とてもいい詩人なのだ。

コメント
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