豊原清明個人詩誌「白黒目」4(2007年02月03日発行)。
俳句と詩が掲載されている。俳句がおもしろい。
どの句も、清原の肉体が、そこに描かれているものを全部のみこんでしまっているような、肉体と対象の区別が消えてしまっているような、ふしぎな融合を感じる。「子雀」と「赤ん坊」を対等にみる視線。やわらたいいのちの原形(?)のすこやかさ。「焼野原」と「ガンジス河」の衝突が引き起こす広がり。「ずしんと落下する」というまっすぐさ。そういうもののなかに、清原が、溶けて、すっぽりと入り込んでいる。あるいは、そういうものがすっぽり豊原の肉体のなかに入り込んで、豊原の肉体を豊原ではないものにしてしまっている。
やわらかな精神と「眠りたい」「我生きん」という欲望(?)のストレートな響き。豊原は、私がけっしてつかみきれないものをつかんでいる。それがうらやましい。
*
豊原は何かに形を与えようとしない。豊原自身が、何かになってしまう。それも、とてもやわらかく、透明なものに。そういう印象は、詩においても同じである。「詩大山へ至る道」の1連目。
「自由詩派の師」と「僕」との対話だが、たとえば、この1連目の最後の行。その行のふしぎな鮮烈さ。それがなぜ鮮烈かといえば、そのことばが誰のことばかわからないからである。「師」が言ったのか。「僕」が答えたのか。どちらでもあり、どちらでもない。「師」と「僕」とのことばが合流して、あふれたのである。
豊原と豊原以外のものが出会うとき、そのふたつは近づき、一体化して、豊原でも豊原以外のものでもなく、まったく新しい人間として生まれ変わる。その新鮮ないのちの輝き。それが豊原のことばの美しさだ。
そして、豊原が一体化するのは、実は、「師」のことばではない。「師」のことばのなかにある自然と、あるいは宇宙と一体化して、新しい人間として生まれ変わるのである。この作品は、そういうことも感じさせてくれる。
「師」と「僕」との対話は次のようにつづいてゆく。
との問いに、「僕」はどう向き合ったか。途中省略して、最終連。
「師」であろうがなかろうが、そんなことは関係ない。決闘もたましいも関係ない。豊原は、そういう人間の「意志」(意識)とは関係のない「自然」そのものを呼吸する。「自然」を呼吸し、胸いっぱいに吸い込み、そこから吐き出す息とともに「自然」のなかへ自在に広がって行く。
自然と人間の一体化。それはそのまま「俳句」である。(「俳句」の門外漢の私はそう考える。)
この最終連の美しさは、そういう「呼吸」の美しさである。
「コトリ」が「お早う」と語りかける。そのとき、ごくふつうの凡人は「お早う」と返事をして、目を覚ます。ところが清原は「お早う」とまるで人間のようにコトリが語りかけてくるとき、安心して眠ってしまうのである。この、一種、矛盾のような宇宙。そのいのちの輝き。「現代詩」なんか忘れてしまって、ただ無垢な人間になって眠る。その楽しさ。ああ、それが「詩」なんだなあ、と思う。
*
「夕方の色なき絵」という作品に、次の3行がある。
「ヒト」という「狭い器」。豊原は、そいうものと戦っている。「決闘」している。「現代詩」なんかとは決闘などしないのである。「ヒト」という「狭い器」のなかに入り込んでしまえば「クズ」である。器を叩き割って、「ヒト」を超越する。水があふれるように、自然の中へあふれだして行く。
豊原は「ヒト」になるのではない。「自然」(宇宙)になるのだ。
俳句と詩が掲載されている。俳句がおもしろい。
仙台や子雀と歩く赤ん坊
焼野原父よガンジス河見える
雷がずしんと落下する朝日
どの句も、清原の肉体が、そこに描かれているものを全部のみこんでしまっているような、肉体と対象の区別が消えてしまっているような、ふしぎな融合を感じる。「子雀」と「赤ん坊」を対等にみる視線。やわらたいいのちの原形(?)のすこやかさ。「焼野原」と「ガンジス河」の衝突が引き起こす広がり。「ずしんと落下する」というまっすぐさ。そういうもののなかに、清原が、溶けて、すっぽりと入り込んでいる。あるいは、そういうものがすっぽり豊原の肉体のなかに入り込んで、豊原の肉体を豊原ではないものにしてしまっている。
初猟や挫折を撃って眠りたい
冬眠や背を震へさせ我生きん
やわらかな精神と「眠りたい」「我生きん」という欲望(?)のストレートな響き。豊原は、私がけっしてつかみきれないものをつかんでいる。それがうらやましい。
*
豊原は何かに形を与えようとしない。豊原自身が、何かになってしまう。それも、とてもやわらかく、透明なものに。そういう印象は、詩においても同じである。「詩大山へ至る道」の1連目。
喉、乾かへんか?と
老いた自由詩派の師がつぶやいた
乾いていますが
この山道においては
水がないですよ。
ならば何万年前のニホンを
目を閉じて考えなさい
そこには、水がある
あふれんばかりの川のせせらぎ。
「自由詩派の師」と「僕」との対話だが、たとえば、この1連目の最後の行。その行のふしぎな鮮烈さ。それがなぜ鮮烈かといえば、そのことばが誰のことばかわからないからである。「師」が言ったのか。「僕」が答えたのか。どちらでもあり、どちらでもない。「師」と「僕」とのことばが合流して、あふれたのである。
豊原と豊原以外のものが出会うとき、そのふたつは近づき、一体化して、豊原でも豊原以外のものでもなく、まったく新しい人間として生まれ変わる。その新鮮ないのちの輝き。それが豊原のことばの美しさだ。
そして、豊原が一体化するのは、実は、「師」のことばではない。「師」のことばのなかにある自然と、あるいは宇宙と一体化して、新しい人間として生まれ変わるのである。この作品は、そういうことも感じさせてくれる。
「師」と「僕」との対話は次のようにつづいてゆく。
僕は永らく家に閉じこもっていたが
しかし自由詩の大山で
一生過ごすのは
良いですね。
否、詩大山の山頂には
現代詩派の
決闘が待っている
自由詩に活きて約六十年余りの
古株である私が
彼らと戦うのだ
君は彼らのたましいを
土に埋めるのが
仕事なのだが…。
出来るか?
との問いに、「僕」はどう向き合ったか。途中省略して、最終連。
たましいなんて埋められない
コトリがお早うと
語りかけてきて
白い山で段々眠たくなっちゃいます。
「師」であろうがなかろうが、そんなことは関係ない。決闘もたましいも関係ない。豊原は、そういう人間の「意志」(意識)とは関係のない「自然」そのものを呼吸する。「自然」を呼吸し、胸いっぱいに吸い込み、そこから吐き出す息とともに「自然」のなかへ自在に広がって行く。
自然と人間の一体化。それはそのまま「俳句」である。(「俳句」の門外漢の私はそう考える。)
この最終連の美しさは、そういう「呼吸」の美しさである。
「コトリ」が「お早う」と語りかける。そのとき、ごくふつうの凡人は「お早う」と返事をして、目を覚ます。ところが清原は「お早う」とまるで人間のようにコトリが語りかけてくるとき、安心して眠ってしまうのである。この、一種、矛盾のような宇宙。そのいのちの輝き。「現代詩」なんか忘れてしまって、ただ無垢な人間になって眠る。その楽しさ。ああ、それが「詩」なんだなあ、と思う。
*
「夕方の色なき絵」という作品に、次の3行がある。
ヒトという狭い器の中に
入り込んでしまった
或る、人間のクズである僕に対して。
「ヒト」という「狭い器」。豊原は、そいうものと戦っている。「決闘」している。「現代詩」なんかとは決闘などしないのである。「ヒト」という「狭い器」のなかに入り込んでしまえば「クズ」である。器を叩き割って、「ヒト」を超越する。水があふれるように、自然の中へあふれだして行く。
豊原は「ヒト」になるのではない。「自然」(宇宙)になるのだ。