清岡卓行『ふしぎな鏡の店』(思潮社、1989年08月01日発行)。
「あとがき」で清岡は「矛盾」ということばをつかっている。詩集に収録した作品の長さがバラバラになった理由について語った部分である。
「二つの方向への誘いを同時に覚え」る。--清岡の詩は、この詩集に限らず、いつでも二つの方向に動いている。求心と遠心。凝縮と拡張。それはくりかえしになるが「円き広場」の姿そのままである。「円き広場」は求心なのか、遠心なのか。それは求心であり、同時に遠心である。それは分離不可能なものである。分離不可能なものであるけれど、ことばはふたつの方向を指し示すことができる。「矛盾」は清岡にあるのではなく、ことばという存在自体にあるのかもしれない。
ことばは求心・遠心、凝縮・拡張というふたつの方向が同時に存在するとき、つまり矛盾するとき、「詩」になるのではないのか。
*
この詩集は「夢」を描いている。「夢」とは誰でもが体験するものだが、この夢とは、私たちは何によって見ているのだろうか。「目」で見ているのか。それとも「ことば」で見ているのか。表題作「ふしぎな鏡の店」を読むと、「ことば」で夢を見るのだ、という気持ちになる。さまざまな形の鏡を売っている店に入る。そこで「空中から見た/いびつな下降の形」をした鏡に出会い、ひかれる。そういう内容の5、6連目。
6連目の「鮮やかに示したかったのか/それとも隠したかったのか。」という対句のような構造はこれまでも見てきた清岡の作品に共通するものである。しめすこと「と」隠すこと。「と」を中心にした、対立した構造が、ここでは「それとも」ということばであらわされている。(「それとも」は「と」の変形である。「それとも」ということばも清岡の作品には頻繁につかわれている。)
この部分は、絶対に「目」で見ることはできない「夢」である。「論理」は「ことば」で追いかけるしかない。
求心・遠心、そこから引き起こされる眩暈、驚き、放心--それは肉体的な感覚であるけれど、その感覚を支えているのは、この作品であらわれた「ことば」の論理である。「ことば」が清岡の眩暈、驚き、放心を支えているのである。
清岡の作品が、美を追求して官能的であると同時に、清潔で、むだがないという印象があるのは、その世界が「ことば」によって支えられているからである。「ことば」の論理がいつでも作品の基本をつくっているからである。
とはいうものの、清岡の作品がほんとうに凄いのは、そういう「ことば」の論理に支えられながらも、その「ことば」の論理をねじまげるようにして、「ことば」が動いて行くからである。「基本」が「基本」のまま底辺で土台をつくるのではなく、そこから立ち上がり、立体的になって行く。
表だけ見つめて、鏡のデザインを「示したかったのか/それとも隠したかったのか」と考えていた「ことば」の世界が、もういちど目によって裏切られるようにふくらみはじめる。そして表だけではなく裏も鏡であることを知る。鏡がこのとき立体化する。平面ではなく、立体になる。だが、それは「やっぱり」ということばが明らかにするように、清岡にとっては予測されていたことなのである。すべて、無意識の中で知ってしまっている世界--それが夢である。
「ことば」の論理は肉体(脾臓)の快感へとのみこまれていく。この「快感」が「放心」に似ていることは、それが「倦怠」ということばで言いなおされていることからもわかる。
この作品の終わりの2連。
「あとがき」で清岡は「矛盾」ということばをつかっている。詩集に収録した作品の長さがバラバラになった理由について語った部分である。
もう一つの理由は、夢を描くとき私がある矛盾を抱いていたということです。凝縮や抽象の美しさのため作品が短くなる方法と、興味深い細部を豊かにするため作品が長くなる方向、そうした二つの方向への誘いを同時に覚えた私は、実際にはこの矛盾のなかのさまざまな位置を、そのときどきの気分で選んだわけです。
「二つの方向への誘いを同時に覚え」る。--清岡の詩は、この詩集に限らず、いつでも二つの方向に動いている。求心と遠心。凝縮と拡張。それはくりかえしになるが「円き広場」の姿そのままである。「円き広場」は求心なのか、遠心なのか。それは求心であり、同時に遠心である。それは分離不可能なものである。分離不可能なものであるけれど、ことばはふたつの方向を指し示すことができる。「矛盾」は清岡にあるのではなく、ことばという存在自体にあるのかもしれない。
ことばは求心・遠心、凝縮・拡張というふたつの方向が同時に存在するとき、つまり矛盾するとき、「詩」になるのではないのか。
*
この詩集は「夢」を描いている。「夢」とは誰でもが体験するものだが、この夢とは、私たちは何によって見ているのだろうか。「目」で見ているのか。それとも「ことば」で見ているのか。表題作「ふしぎな鏡の店」を読むと、「ことば」で夢を見るのだ、という気持ちになる。さまざまな形の鏡を売っている店に入る。そこで「空中から見た/いびつな下降の形」をした鏡に出会い、ひかれる。そういう内容の5、6連目。
--鏡のたわむれの中で
ひとは無限の表面にいる
夭折した評論家の言葉だ。
店の主人は ねかならぬその表面を
鏡の枠のさまざまに奇抜なデザインで
鮮やかに示したかったのか
それとも隠したかったのか。
6連目の「鮮やかに示したかったのか/それとも隠したかったのか。」という対句のような構造はこれまでも見てきた清岡の作品に共通するものである。しめすこと「と」隠すこと。「と」を中心にした、対立した構造が、ここでは「それとも」ということばであらわされている。(「それとも」は「と」の変形である。「それとも」ということばも清岡の作品には頻繁につかわれている。)
この部分は、絶対に「目」で見ることはできない「夢」である。「論理」は「ことば」で追いかけるしかない。
求心・遠心、そこから引き起こされる眩暈、驚き、放心--それは肉体的な感覚であるけれど、その感覚を支えているのは、この作品であらわれた「ことば」の論理である。「ことば」が清岡の眩暈、驚き、放心を支えているのである。
清岡の作品が、美を追求して官能的であると同時に、清潔で、むだがないという印象があるのは、その世界が「ことば」によって支えられているからである。「ことば」の論理がいつでも作品の基本をつくっているからである。
とはいうものの、清岡の作品がほんとうに凄いのは、そういう「ことば」の論理に支えられながらも、その「ことば」の論理をねじまげるようにして、「ことば」が動いて行くからである。「基本」が「基本」のまま底辺で土台をつくるのではなく、そこから立ち上がり、立体的になって行く。
不規則な魅力の火口の形をした
鏡の右端(みぎはし)を
わたしは右手の指でそっと突き
鎖で吊りさげられたその鏡を
ゆっくりと半回転させた。
--あっ 裏もやっぱり鏡なんですね!
わたしは思わず声をあげた。
表だけ見つめて、鏡のデザインを「示したかったのか/それとも隠したかったのか」と考えていた「ことば」の世界が、もういちど目によって裏切られるようにふくらみはじめる。そして表だけではなく裏も鏡であることを知る。鏡がこのとき立体化する。平面ではなく、立体になる。だが、それは「やっぱり」ということばが明らかにするように、清岡にとっては予測されていたことなのである。すべて、無意識の中で知ってしまっている世界--それが夢である。
左右は変わったが
同じ火口の形をした鏡。
わたしの頭はくらくらとし
脾臓のあたりに 深い快感が生じた。
「ことば」の論理は肉体(脾臓)の快感へとのみこまれていく。この「快感」が「放心」に似ていることは、それが「倦怠」ということばで言いなおされていることからもわかる。
この作品の終わりの2連。
火口の形でも ほかのどの形でもいい
背中合わせになった二枚の鏡の
澄みきって暴力的な諧謔が
わたしはやたらと欲しくなった。
しかし それを
自分の家のなかの日常の どんな場所で
どんな倦怠の鎖に吊るせばいいのか
まるで見当がつかない。