詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(23)

2007-02-16 11:37:40 | 詩集
 清岡卓行ふしぎな鏡の店』(思潮社、1989年08月01日発行)。
 「あとがき」で清岡は「矛盾」ということばをつかっている。詩集に収録した作品の長さがバラバラになった理由について語った部分である。

 もう一つの理由は、夢を描くとき私がある矛盾を抱いていたということです。凝縮や抽象の美しさのため作品が短くなる方法と、興味深い細部を豊かにするため作品が長くなる方向、そうした二つの方向への誘いを同時に覚えた私は、実際にはこの矛盾のなかのさまざまな位置を、そのときどきの気分で選んだわけです。

 「二つの方向への誘いを同時に覚え」る。--清岡の詩は、この詩集に限らず、いつでも二つの方向に動いている。求心と遠心。凝縮と拡張。それはくりかえしになるが「円き広場」の姿そのままである。「円き広場」は求心なのか、遠心なのか。それは求心であり、同時に遠心である。それは分離不可能なものである。分離不可能なものであるけれど、ことばはふたつの方向を指し示すことができる。「矛盾」は清岡にあるのではなく、ことばという存在自体にあるのかもしれない。
 ことばは求心・遠心、凝縮・拡張というふたつの方向が同時に存在するとき、つまり矛盾するとき、「詩」になるのではないのか。



 この詩集は「夢」を描いている。「夢」とは誰でもが体験するものだが、この夢とは、私たちは何によって見ているのだろうか。「目」で見ているのか。それとも「ことば」で見ているのか。表題作「ふしぎな鏡の店」を読むと、「ことば」で夢を見るのだ、という気持ちになる。さまざまな形の鏡を売っている店に入る。そこで「空中から見た/いびつな下降の形」をした鏡に出会い、ひかれる。そういう内容の5、6連目。

--鏡のたわむれの中で
  ひとは無限の表面にいる
夭折した評論家の言葉だ。

店の主人は ねかならぬその表面を
鏡の枠のさまざまに奇抜なデザインで
鮮やかに示したかったのか
それとも隠したかったのか。

 6連目の「鮮やかに示したかったのか/それとも隠したかったのか。」という対句のような構造はこれまでも見てきた清岡の作品に共通するものである。しめすこと「と」隠すこと。「と」を中心にした、対立した構造が、ここでは「それとも」ということばであらわされている。(「それとも」は「と」の変形である。「それとも」ということばも清岡の作品には頻繁につかわれている。)
 この部分は、絶対に「目」で見ることはできない「夢」である。「論理」は「ことば」で追いかけるしかない。
 求心・遠心、そこから引き起こされる眩暈、驚き、放心--それは肉体的な感覚であるけれど、その感覚を支えているのは、この作品であらわれた「ことば」の論理である。「ことば」が清岡の眩暈、驚き、放心を支えているのである。
 清岡の作品が、美を追求して官能的であると同時に、清潔で、むだがないという印象があるのは、その世界が「ことば」によって支えられているからである。「ことば」の論理がいつでも作品の基本をつくっているからである。
 とはいうものの、清岡の作品がほんとうに凄いのは、そういう「ことば」の論理に支えられながらも、その「ことば」の論理をねじまげるようにして、「ことば」が動いて行くからである。「基本」が「基本」のまま底辺で土台をつくるのではなく、そこから立ち上がり、立体的になって行く。

不規則な魅力の火口の形をした
鏡の右端(みぎはし)を
わたしは右手の指でそっと突き
鎖で吊りさげられたその鏡を
ゆっくりと半回転させた。

--あっ 裏もやっぱり鏡なんですね!
わたしは思わず声をあげた。

 表だけ見つめて、鏡のデザインを「示したかったのか/それとも隠したかったのか」と考えていた「ことば」の世界が、もういちど目によって裏切られるようにふくらみはじめる。そして表だけではなく裏も鏡であることを知る。鏡がこのとき立体化する。平面ではなく、立体になる。だが、それは「やっぱり」ということばが明らかにするように、清岡にとっては予測されていたことなのである。すべて、無意識の中で知ってしまっている世界--それが夢である。

左右は変わったが
同じ火口の形をした鏡。
わたしの頭はくらくらとし
脾臓のあたりに 深い快感が生じた。

 「ことば」の論理は肉体(脾臓)の快感へとのみこまれていく。この「快感」が「放心」に似ていることは、それが「倦怠」ということばで言いなおされていることからもわかる。
 この作品の終わりの2連。

火口の形でも ほかのどの形でもいい
背中合わせになった二枚の鏡の
澄みきって暴力的な諧謔が
わたしはやたらと欲しくなった。

しかし それを
自分の家のなかの日常の どんな場所で
どんな倦怠の鎖に吊るせばいいのか
まるで見当がつかない。


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ガブリエレ・ムッチーノ監督「幸せのちから」

2007-02-16 00:04:36 | 映画
監督 ガブリエレ・ムッチーノ 出演 ウィル・スミス

 おもしろい(といっても、楽しいという意味ではない)シーンが1つある。語りはじめるなら、このシーンから語りたいというだけのことである。
 主人公は売れない医療機器を販売している。その機器をヒッピーが「タイムマシーン」と呼んだために、息子がそう信じてしまう。その息子を相手に、「タイムマシーン」をつかって空想の旅へ出る。地下鉄の駅。目をつむる。「タイムマシーン」のボタンを押す。目を開ける。そこは恐竜時代。「大事な火を踏むな」「Tレックスがやってきた」「洞窟へ逃げよう」。そんなふうにしてトイレに逃げ込み夜を明かす。美しい夢のようなシーンだが、その美しさを、眠る息子を抱きながらウィル・スミスが涙を流すとき、その涙が叩き壊してしまう。
 このシーンは映画全体のテーマを象徴している。
 夢を見る無邪気な力。夢を見るとは、そこにないものをあるもののように実感する力である。こどもはそういう夢を実感する力が自分にあることを発見し、遊びに夢中になる。夢みる力を楽しむ。そういう力を賛美している。ただ、それがストレートに最後まで貫かれない。ねじれてゆく。
この映画の主人公は、この恐竜時代へのタイムトラベルのような、ほとんど不可能な夢を実現する。ホームレス生活をしながら、(しかも幼いこどもをかかえながら)、半年の無給の研修期間をクリアし、信託銀行に入社する。実話だそうだが、ほとんど奇跡である。夢みる力が、彼の人生をかえてしまう。その過程を描いているのだが、私はすなおには感動できないのである。ウィル・スミスの行動は、こどもが恐竜時代ごっこに夢中になった世界とは無縁なのである。そこには夢みる力を楽しむ姿はない。
 ウィル・スミスが演じる男は、たしかに幸せになる。成功する。つまり、金を稼げる職業につき、こどもと安心していっしょに暮らせる。だが、彼だけが幸せになったのではないのか。別の視点からいえば、そういう疑問が残るのである。
 たとえば「地上最速のインディアン」。アンソニー・ホプキンスはただスピード記録を塗り替えたくてバイクを走らせる。そのことに夢中になる。その夢中になる姿が、出会った人々を引き込んで行く。あの男、おもしろい。へええ、人間というのはこんなことができるんだ。成功というよりは、遊びの完成である。遊びを完成させるために、アンソニー・ホプキンスは一生懸命になる。夢は遊びのなかでこそ輝くのである。
 たとえば「ミス・リトル・サンシャイン」。末っ子娘が優勝を狙う「ミス・リトル・サンシャイン」コンテストは、それを真剣にとらえている人間も一部にいるけれど(そういう一部の人間が鮮やかに笑われている)、やはり遊びである。遊びだからこそ、その遊びを完全にやりとげさせるために家族がいっしょになって遊ぶ。そのとき、そこに幸せというものが、それを求めているわけではないけれど、美しい姿となってあらわれてくる。家族がいっしょになってむちゃくゃやっている。こんなむちゃくちゃ、だれか出来るかい? という楽しさがある。幸せがある。
 たとえば「酒井家のしあわせ」。父親は死んで行くのがわかっている。息子は親友にガールフレンドを奪われて失恋する。それでも幸せである。笑うべきことではないのに、なぜか笑ってしまう。それが幸せというものだ。幸せは成功とは違うのだ。(「地上最速のインディアン」はたまたま成功するけれど、それはたまたまである。成功しなくたって、ただ走るだけで、まわりの人間はみんな幸せになった。わあ、すごいと驚いた。記録の達成は付録である。)
 幸せとは、成功であろうが失敗であろうが、そういうこととは関係なく、いっしょになって何かをし、いっしょになって心を動かすこと。笑うこと。
 「タイムマシーン」のシーンでは、そういう一瞬があったのだ。しかし、ウィル・スミスは彼のことばが「嘘」であることを知っていた。こどもの注意をそらすために「タイムマシーンごっこ」をやったことを知っていた。--そこからは幸せは生まれない。ここに描かれているのは「幸せの力」ではない。
 20人の競争相手のなかからひとりだけ社員として採用されるというサクセスストーリーが象徴的だが、彼の幸せは他人といっしょに何かをするということではなく、勝ち残るということと同義なのである。「幸せのちから」というより「勝利のちから」がこの映画のタイトルであるべきだ。
 この「勝利のちから」を、こどもを利用して「幸せのちから」に見せかけている。立派な(?)職業につき、金を稼ぎ、こどもといっしょに暮らす幸せを手に入れたというふうにごまかしている。金に不自由せず、こどもといっしょにいることが「幸せ」ならば、彼が悪戦苦闘していた半年は、こどもといっしょにいたけれど、金がなかった「不幸な半年」になってしまう。そして、それは、こどもの、あのタイムマシーンで遊んだ一夜の喜びを否定してしまう。
 いやあな気持ちになる映画である。

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