藤維夫「鳥の考え方」(「SEED」11、2006年12月10日)。
1連目がとてもおもしろい。
「やはり鳥はこの主語の鳥にかえりたがるから」が象徴的だが、この作品には隠された主語がある。「私」である。その隠された「私」という主語と、もうひとつの形式としての主語「鳥」が微妙に交錯する。融合する。そして分離する。その動きがおもしろいのである。
この2行の主語は「鳥」に見える。しかし、「鳥」ではなく、「鳥」を見つめる「私」こそが主語である。鳥は「いきなり」は飛んでこない。「いきなり」と感じるのはあくまで「私」である。正確(?)には、
である。「私は見た(見ている)」がここでは省略されている。そして、省略しているということは、藤は強く意識している。意識した上で、「鳥」と「私」の違いを見つめなおす。
「いきなり」は鳥の感じとは違う。鳥の「考え方」とは違う。そして、そういう意識から「世界」を見つめなおす。
一方に「私」(藤井)の見方、考え方があり、他方に鳥の考え方がある。鳥の考え方はふつうは人間にはわからない。理解できない。それが飼っている鳥ならいくらかは考え方がわかるかもしれないが、「いきなり」あらわれた鳥(なんという種類かもわからない鳥)であるからには、考え方などわかるはずもない。そしてわかるはずもないからこそ、そこに自由に「私」(藤井)の考えを投影することができる。その投影された考えが鳥の考えと合致しているかどうかは誰にもわからない。そのことを藤井は利用している。
ときどき、「のを私は見た(感じた)」という行を挿入すると、藤井の書いている世界がよくわかる。
何のタイミング? 飛ぶタイミングである。再び飛ぶタイミングを鳥ははかっている。ほんとうにそうだろうか。誰もわからない。「のを私は見た」を省略すると、そのわからなさがいっそう強まる。だから、藤井は省略する。「見た、感じた」ではなく、断言してしまう。--そのとき、藤井は「私」から「鳥」になりかわっている。主語が交代してしまっている。つまり、鳥そのものになって、世界を見回す。
それが次の2行である。
ほんとうは、そういうい風景を意識している(見ている)のは藤井なのに、あたかも鳥が見ているように書いてしまう。そして、そんなふうに鳥になりきった瞬間に、鳥ではいられなくなる。今書いた2行が「私」(藤井)の見た風景に過ぎないことに気づかざるを得ない。ちょっと反省せざるを得なくなる。
このままつづけていってしまえば「抒情詩」になる。センチメンタルになる。「現代詩」ではなくなる。そういう踏みとどまりが次の行に凝縮する。
「もう山はすっかり赤く乱れてきている」のあとには「のを私は見ている」を補えるけれど、ここでは「のを私は見ている」を補えない。補うことができるとしたら、この行からあとは「というふうに私は考える」となってしまう。
ここからは「鳥の考え方」ではなく「私(藤井)の考え方」、あるいは考えそのものを書かざるを得なくなっている。
そのとき、第1行の「いきなり」とは違った「私」(藤井)の感覚も立ち上がってくる。
この揺れ動き。「私」が「私」という主語を隠すことで鳥になったり私にもどったりする。そして、その動きに合わせて、鳥が見つめられた鳥と、鳥そのものにももどったりする。その動き、合致し、また離れていくということばの運動のなかに、絶対に手の届かないのも、つまり「鳥の考え方」というものがあるような気がしてくるのである。それが見えてくるのである。しかも、「見えない」という形で見えてくるのである。藤井は鳥のことを考えているが、それがほんとうに鳥の考えと合致するかどうかはわからない。わからない部分に、鳥の考えがほんとうはあるかもしれないのだ、という形で鳥の考えが見えてくる。
どんなふうに鳥を描写しようと、また鳥が見ているものを描写しようと、それはもちろん藤井のことばであるから、鳥の考え方ではなく、ほんとうは藤井の考え方が反映している(藤井の考え方によって把握されている)鳥の考え方という幻想にすぎない。しかし、そういう幻想を幻想と言ってしまう藤井の強靱な理性が、あるいは自覚が、幻想を甘いものにせず、清潔にしている。
抒情に流れず、抒情を拒絶して、理性を浮き彫りにしながら(といっても、隠しながら、という技法がここには存在するのだが)、ことばの可能性をさぐる。この複雑なことばの動きが「現代詩」なのである。
そして、藤井の冷徹な精神の清潔さ、抒情を拒絶する精神が「やはり鳥はこの主語の鳥にかえりたがるから」の「主語」という一語に結晶している。
藤井は「鳥の考え方」というものが藤井の幻想、藤井のことばの運動のなかにしかないことを知った上で、それでも「鳥の考え方」を押し進める。それは「鳥の考え方」というよりも、藤井の「理想」あるいは「祈り」のようなものである。
それが2連目。
孤立も連体もしない。ただ、一直線に動くことばとなって存在する。それは藤井の詩に託した「祈り」である。
1連目がとてもおもしろい。
いきなり鳥が飛んできて
木のてっぺんにとまっている
地上を眺めながらタイミングをはかっている
すっかり秋が深まった青い空の
もう山はすっかり赤く乱れてきている
鳥は考えて 気に飛んできているのだけれど
もう鳥いがいのことをまぎらわせずに眠るだろうか
やはり鳥はこの主語の鳥にかえりたがるから
鳥の古巣へかえるのかもしれない
「やはり鳥はこの主語の鳥にかえりたがるから」が象徴的だが、この作品には隠された主語がある。「私」である。その隠された「私」という主語と、もうひとつの形式としての主語「鳥」が微妙に交錯する。融合する。そして分離する。その動きがおもしろいのである。
いきなり鳥が飛んできて
木のてっぺんにとまっている
この2行の主語は「鳥」に見える。しかし、「鳥」ではなく、「鳥」を見つめる「私」こそが主語である。鳥は「いきなり」は飛んでこない。「いきなり」と感じるのはあくまで「私」である。正確(?)には、
いきなり鳥が飛んできて
木のてっぺんにとまっている
のを私は見た(見ている)
である。「私は見た(見ている)」がここでは省略されている。そして、省略しているということは、藤は強く意識している。意識した上で、「鳥」と「私」の違いを見つめなおす。
「いきなり」は鳥の感じとは違う。鳥の「考え方」とは違う。そして、そういう意識から「世界」を見つめなおす。
一方に「私」(藤井)の見方、考え方があり、他方に鳥の考え方がある。鳥の考え方はふつうは人間にはわからない。理解できない。それが飼っている鳥ならいくらかは考え方がわかるかもしれないが、「いきなり」あらわれた鳥(なんという種類かもわからない鳥)であるからには、考え方などわかるはずもない。そしてわかるはずもないからこそ、そこに自由に「私」(藤井)の考えを投影することができる。その投影された考えが鳥の考えと合致しているかどうかは誰にもわからない。そのことを藤井は利用している。
ときどき、「のを私は見た(感じた)」という行を挿入すると、藤井の書いている世界がよくわかる。
地上を眺めながらタイミングをはかっている
のを私は見た
何のタイミング? 飛ぶタイミングである。再び飛ぶタイミングを鳥ははかっている。ほんとうにそうだろうか。誰もわからない。「のを私は見た」を省略すると、そのわからなさがいっそう強まる。だから、藤井は省略する。「見た、感じた」ではなく、断言してしまう。--そのとき、藤井は「私」から「鳥」になりかわっている。主語が交代してしまっている。つまり、鳥そのものになって、世界を見回す。
それが次の2行である。
すっかり秋が深まった青い空の
もう山はすっかり赤く乱れてきている
ほんとうは、そういうい風景を意識している(見ている)のは藤井なのに、あたかも鳥が見ているように書いてしまう。そして、そんなふうに鳥になりきった瞬間に、鳥ではいられなくなる。今書いた2行が「私」(藤井)の見た風景に過ぎないことに気づかざるを得ない。ちょっと反省せざるを得なくなる。
このままつづけていってしまえば「抒情詩」になる。センチメンタルになる。「現代詩」ではなくなる。そういう踏みとどまりが次の行に凝縮する。
鳥は考えて 気に飛んできているのだけれど
「もう山はすっかり赤く乱れてきている」のあとには「のを私は見ている」を補えるけれど、ここでは「のを私は見ている」を補えない。補うことができるとしたら、この行からあとは「というふうに私は考える」となってしまう。
ここからは「鳥の考え方」ではなく「私(藤井)の考え方」、あるいは考えそのものを書かざるを得なくなっている。
そのとき、第1行の「いきなり」とは違った「私」(藤井)の感覚も立ち上がってくる。
この揺れ動き。「私」が「私」という主語を隠すことで鳥になったり私にもどったりする。そして、その動きに合わせて、鳥が見つめられた鳥と、鳥そのものにももどったりする。その動き、合致し、また離れていくということばの運動のなかに、絶対に手の届かないのも、つまり「鳥の考え方」というものがあるような気がしてくるのである。それが見えてくるのである。しかも、「見えない」という形で見えてくるのである。藤井は鳥のことを考えているが、それがほんとうに鳥の考えと合致するかどうかはわからない。わからない部分に、鳥の考えがほんとうはあるかもしれないのだ、という形で鳥の考えが見えてくる。
どんなふうに鳥を描写しようと、また鳥が見ているものを描写しようと、それはもちろん藤井のことばであるから、鳥の考え方ではなく、ほんとうは藤井の考え方が反映している(藤井の考え方によって把握されている)鳥の考え方という幻想にすぎない。しかし、そういう幻想を幻想と言ってしまう藤井の強靱な理性が、あるいは自覚が、幻想を甘いものにせず、清潔にしている。
抒情に流れず、抒情を拒絶して、理性を浮き彫りにしながら(といっても、隠しながら、という技法がここには存在するのだが)、ことばの可能性をさぐる。この複雑なことばの動きが「現代詩」なのである。
そして、藤井の冷徹な精神の清潔さ、抒情を拒絶する精神が「やはり鳥はこの主語の鳥にかえりたがるから」の「主語」という一語に結晶している。
藤井は「鳥の考え方」というものが藤井の幻想、藤井のことばの運動のなかにしかないことを知った上で、それでも「鳥の考え方」を押し進める。それは「鳥の考え方」というよりも、藤井の「理想」あるいは「祈り」のようなものである。
それが2連目。
短い秋はぐるっと透明な風景を漂わせ
おだやかな風に静かになっていくだろう
鳥は音楽にケイレンして
このつるされた空の記憶の高みへ登っていくにちがいない
マーラーもモーツァルトも天の高みで作曲したじぶんの曲をきくはずだ
孤立も連体もしない鳥がいた
一直線に飛ぶだけだ
孤立も連体もしない。ただ、一直線に動くことばとなって存在する。それは藤井の詩に託した「祈り」である。