武田肇『詩史または本の精神』(銅林社、2007年04月01日発行、非売品)。
仕掛けの多い詩集である。詩である。詩のタイトルにまず仕掛けがある。最初の作品は、
と、「*」の伏せ字がずらずらつづいている。次の作品のタイトルも同じ。ただし、判読できる文字と伏せ字の位置は違っている。
この調子でつづく7篇の伏せ字「*」を次々に起こしてゆくと、
という具合になる。そして詩集のど真ん中にはには、このタイトルで書かれている巨大帆船の写真も掲載されている。
この写真を見たとき、どこかでそれについて書かれているのを読んだことがある、とうっすらとでも思い浮かべることができる人、あるいはその写真を見た瞬間に、それまでにに飛び飛びに読んできたことばが結晶するのを感じる人には魅力的な詩集だろう。
一方で、武田は、こういう構造をとることで、記憶力がよければ、あるいはケレンや仕掛けというものが大好きな人には、その構造がわかるけれど、わからない人にはわからなくていい、と最初から宣言しているのかもしれない。
この詩集には「……」がつづく行(ただし、それぞれの行の長さは不揃い)が無数に出てくるが、この「……」を注意深く読んだ人には、武田の「宣言」がわかるだろう。
「……」にも仕掛けがある。「……」の数は任意の数ではない。不揃いである。不揃いには不揃いの理由(仕掛け)がある。「……」は常に2行の形で登場するが、その2行の1行目は前の連の最終行、2連目は次の連の冒頭行と長さがそろっている。
武田は書かれたことばよりも書かずに伏せたことば「*」「……」をこそ読ませたい、読んでもらいたいと考えているかのようである。そして、実際に、伏せられたことばは永遠に伏せられているのではなく、私が今書いたように、実に単純な形で書かれている。
ことばを伏せるというよりも、伏せるふりをして、視線をことばに引き寄せようとしていると言い換えた方がいいかもしれない。
ひとは(と一般化していいかどうかは疑問が残るけれど)、何かが隠されていると知ったとき、それを知りたいと思うものである。隠されているものが何かわかったとき、それが期待に添ったものか期待を裏切るものかは別にして、それは印象に強く残る。そういう印象付けの操作を武田は張りめぐらしているのである。
こうした試みを、なぜ、武田はするのか。
たぶん、あらゆることばのオリジナルは武田の側に属するのではなく、すべてことばの側に属する、という考えが武田にはあるのだと思う。どんなことばも書かれなかったことばは存在しない。どんなことばにも既視感(デジャ・ビュ)が存在する。そうであるなら、最初からあらゆることばを武田の側に属させるのではなく、すでに存在しているもの(たとえば「詩史」あるいは「本」)にかえしてしまって、武田は「隠す」ことに専念するのである。
あらゆることばは武田のものではない。「詩」や「本」のものである。そうであるなら、その「詩」「本」のなかのことば、無数のことば、そのどれを隠すか--そこに武田は武田のオリジナリティーをかけるのである。
「*」「……」。この声に出して読まれることのない「表記」。それが武田の「詩」である。ことばであることを拒絶して動く精神。それが武田の「詩」である。
仕掛けの多い詩集である。詩である。詩のタイトルにまず仕掛けがある。最初の作品は、
眼をつぶり喪に服し、**********************
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と、「*」の伏せ字がずらずらつづいている。次の作品のタイトルも同じ。ただし、判読できる文字と伏せ字の位置は違っている。
**********八王子市の地図を僅かに傾けると、******
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この調子でつづく7篇の伏せ字「*」を次々に起こしてゆくと、
眼をつぶり喪に服し、八王子市の地図を僅かに傾けると、中国大連市の
地図に重なるのであり(なぜならそれはdeja vuの方位へ偏位するため
なのだが)、大連港が近い大連服装交易市場前の交通島にとつぜん出現
した巨大帆船をわたしたちの乗物はゆっくりと回転した。
(谷内注・本文活字は正字体、「deja vu」にはフランス正字法のアクセントあり)
という具合になる。そして詩集のど真ん中にはには、このタイトルで書かれている巨大帆船の写真も掲載されている。
この写真を見たとき、どこかでそれについて書かれているのを読んだことがある、とうっすらとでも思い浮かべることができる人、あるいはその写真を見た瞬間に、それまでにに飛び飛びに読んできたことばが結晶するのを感じる人には魅力的な詩集だろう。
一方で、武田は、こういう構造をとることで、記憶力がよければ、あるいはケレンや仕掛けというものが大好きな人には、その構造がわかるけれど、わからない人にはわからなくていい、と最初から宣言しているのかもしれない。
この詩集には「……」がつづく行(ただし、それぞれの行の長さは不揃い)が無数に出てくるが、この「……」を注意深く読んだ人には、武田の「宣言」がわかるだろう。
「……」にも仕掛けがある。「……」の数は任意の数ではない。不揃いである。不揃いには不揃いの理由(仕掛け)がある。「……」は常に2行の形で登場するが、その2行の1行目は前の連の最終行、2連目は次の連の冒頭行と長さがそろっている。
武田は書かれたことばよりも書かずに伏せたことば「*」「……」をこそ読ませたい、読んでもらいたいと考えているかのようである。そして、実際に、伏せられたことばは永遠に伏せられているのではなく、私が今書いたように、実に単純な形で書かれている。
ことばを伏せるというよりも、伏せるふりをして、視線をことばに引き寄せようとしていると言い換えた方がいいかもしれない。
ひとは(と一般化していいかどうかは疑問が残るけれど)、何かが隠されていると知ったとき、それを知りたいと思うものである。隠されているものが何かわかったとき、それが期待に添ったものか期待を裏切るものかは別にして、それは印象に強く残る。そういう印象付けの操作を武田は張りめぐらしているのである。
こうした試みを、なぜ、武田はするのか。
たぶん、あらゆることばのオリジナルは武田の側に属するのではなく、すべてことばの側に属する、という考えが武田にはあるのだと思う。どんなことばも書かれなかったことばは存在しない。どんなことばにも既視感(デジャ・ビュ)が存在する。そうであるなら、最初からあらゆることばを武田の側に属させるのではなく、すでに存在しているもの(たとえば「詩史」あるいは「本」)にかえしてしまって、武田は「隠す」ことに専念するのである。
あらゆることばは武田のものではない。「詩」や「本」のものである。そうであるなら、その「詩」「本」のなかのことば、無数のことば、そのどれを隠すか--そこに武田は武田のオリジナリティーをかけるのである。
「*」「……」。この声に出して読まれることのない「表記」。それが武田の「詩」である。ことばであることを拒絶して動く精神。それが武田の「詩」である。