詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

難波律郎『難波律郎全詩集』(3)

2007-02-10 10:54:21 | 詩集
 難波律郎『難波律郎全詩集』(3)(書肆山田、2006年12月25日発行)。
 『世界の天気』のなかには好きな詩がたくさんある。「誕生日」「片夢抄」「手」「港の犬」「秋の岬」「廃屋通信」「飛びながら」。
 「廃屋通信」について書いてみたい。難波の詩のどこが好きなのか書いてみたい。

窓からサメがはいってきた
しばらくキョロキョロしていたが やがてまた窓から出ていった
サメのほかにも ときおり魚たちがやってくるこの家は
マリアナ海溝の いりくんだ谷間の途中にある

 マリアナ海溝に沈んだままの兵士たち。彼らが住んでいる「家」を描いている。彼らが戦死してからすでに時間が経った。「家」はほとんど「廃屋」状態である。そこから、兵士が近況を送ってくる。それが「廃屋通信」だ。

私はその家の片隅にいる もう長い間うごかない
光はないが内部はよく見える 霊眼というやつだ
昔 田舎の家に咲いていたコスモスに似た
海草の群が この部屋の抽象画風の装飾で
庭石のような鉄塊のそばに数個の
銀貨が散らばっている 五拾銭の刻印がある

 感情に溺れず、流されず、淡々とした描写がつづく。生きていたときに見た風景と、海底の様子が二重写しに描かれる。それは似ているが、似ているがゆえに違っている。似ていることが違っていることを明確にする。そこに悲しみが浮かび上がる。

私のほかにも
何十人かの同居人がいるのだが みんな
それぞれの場所にいて うごかない
私を含めてわれわれは眼でしゃべる 霊波を使うのだが
この頃 もうあまり話すこともなくなった

 この抑制のきいた文体、ことばの動きが、静かであるだけに、せつない。悲しい。この文体の美しさゆえに、この作品は傑作となっているが、私がもっとも好きな部分は、後半にこそある。
 途中一部省略するが、後半は次のようになっている。

ついていないめぐり合わせを 同じ運命で終ったわれわれには
胴体がなく 手足もない 首から上だけが
眼をあいたまま円い形で水化を待っている……千年たてば
沈んだ恨みも溶けて
われわれみんな水になり 光と出あうだろう
海流にまじって波になり いつか米の匂いと女のいる
どこかの汀に着くだろう
千年たてば……

……あと九百五十年 夢のまに過(すご)すであろう私の
左の眼から鼻裏を泳いで いま ちいさな魚の一群が
右の眼へ通りぬける

 マリアナ海溝の「廃屋」。そこに住む戦死した兵士。彼らが見るもの。考えること。それらはすべて想像である。難波が「頭」で考えたことである。戦死した兵士たちが難波が書いているとおりのことを感じているかどうか、それはわからない。そこで起きていることがほんとうにそうであるかは、誰もわからない。そして、これから何が起きるかも、誰もわからない。「千年たてば」という仮定で、難波は想像力を広げて行く。どんどん、「頭」でことばを動かして行く。
 しかし、「千年たてば」と繰り返し書いたあとで、突然、難波は「頭」のなかで動かしたことばを、「頭」から「肉体」へと引き戻す。

千年たてば……

……あと九百五十年

 この1行あきで向き合っている「千年」と「あと九百五十年」がすばらしい。「千年」も「九百五十年」も完全に「頭」でしか理解できない時間である。そんな長い間のことは人間は「頭」でしかわからない。自分の「肉体」で生きることはできない。ひとから聞いたこと、本で読んだことをとおして「頭」で考えただけのことである。
 ところが、「千年」から「九百五十年」を引いた「五十年」なら、どうだろうか。五十年ならわかるのである。五十年なら、難波が生きてきた時間がそっくり入る。そこへ難波は引き返す。わかる範囲のことがらへ引き返し、そこでことばを鍛え直す。そのとき「頭」で考えたことが「肉体」を獲得し、ことばが「思想」になる。「頭」で考えたことを「肉体」で修正し、あらたにことばが動きだす。それが「思想」であり、「詩」である。
 千年後、頭蓋骨が「水化」して溶けてしまうかどうかなど、難波にはわからない。だが頭蓋骨の五十年なら知っている。「水化」などしない。頭蓋骨のままである。戦死して五十年、千年までまだ九百五十年ある今、

左の眼から鼻裏を泳いで いま ちいさな魚の一群が
右の眼へ通りぬける

 これも難波の想像ではあるけれど、その想像は「水化」のような空想ではない。難波は死後五十年の頭蓋骨を知っている。水のなかでどんなふうに存在するかも知っている。魚も知っている。魚がどんなふうに泳ぐかも知っている。その知っていることを手がかりに、難波は「空想」から「現実」へ引き返す。「頭」から「肉体」へ引き返す。
 難波のことばが強固なのは、そうやって、ことばが「思想」にまで高まっているからである。ここに描かれている兵士の悲しみを二度と繰り返すな、という思いが静かに伝わってる。ここに描かれている兵士の悲しみを想像できる、ことばにできることの無念さが、重く重く伝わってくる。具体的なことばで書かれた「悲しみ」「無念」、それが「思想」である。


コメント (2)
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