詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

四元康祐「詩人たちよ!」

2007-02-02 12:37:51 | 詩集
 四元康祐「詩人たちよ!」(「現代詩手帖」2007年2月号)。
 「川」や「石」「木」を「詩人」に見た立て書かれた作品。「石の詩人」に四元の個性が光っている。

雲に憧れる気持ちがまったくないといえば
やっぱり嘘になりますね
いや、月になりたいとは思いません
大きさこそ違え
ぼくらは本質的に同じですから

(雨が、あがって、風が吹く。
    雲が、流れる、月隠す。)

地上にありながら
深みを予感することが僕の仕事です
(そして夜になると重たい地球に沈んでゆく
 星々の隙間を抜けて孤独にむかって)

その日の彼は
なぜか珍しく饒舌だった
モグラは相槌を打とうとしたが
何だか恥ずかしくなってまた土にもぐった

 「頭」と「肉体」のバランスがとてもいい。「頭」が走り出すと、それを「肉体」が引きとどめる。「頭」が切り開いていく世界にも「詩」はあるかもしれないけれど、そこへ行ってしまう寸前でとどまり、ことばが透明になりすぎるのを防ぐ。
 この作品で言えば、石のことば「(そして夜になると…」をモグラの登場が引き止める。石のことばはかっこいい。美しい。けれど、それは「何だか恥ずかし」い。この「何だか恥ずかし」い、という引き止めが「肉体」のことばである。
 この「石」と「モグラ」の関係は、小林秀雄と中原中也の関係に少し似ている。山本哲也が「生きているふりをしなければ」(「SEED」8号、2005年11月)に書いている小林秀雄と中原中也の関係に。

(昭和十二年四月二十日夕刻
鎌倉の妙法寺の境内、
小林秀雄と中原中也の二人、
海棠の花がしきりに散っている
小林秀雄がいう
「あれは散るのぢやない、散らしてゐるのだ」)

あのとき、なんで
中也は、もういいなんて言ったのか
「もういいよ、帰らうよ」だなんて
(あれはおそらく中也の嘆息だった)
レトリックはもういい、
せめて生きているふりをしなければ
薄い胸のうちの
小暗い森のなにもないという空虚にむけて
      (「もういいよ」の二度目の「い」は本文は送り字)

 小林秀雄のことばは小林秀雄にとっては間違いなく小林秀雄のことばである。しかし、そのことばを中也は自分の「頭」で受け止めたくはなかった。小林秀雄の言っていることは充分わかる。それを言いたい気持ちもわかる。しかし、それを「ああそうだね」と引き受けてしまうと、それは小林秀雄と中原中也が「頭」でつながってしまうことになる。そういうことばでは、中也は自分の「肉体」、「薄い胸のうち」といっしょに生きることはできない、「胸のうちの/薄暗い森のなにもないという空虚」といっしょに生きることはできないと感じたのだ。
 山本哲也は「中也の嘆息」と書いているが、それはたしかに「嘆息」のようなものである。嘆息のなかにはことばにならないことばがうごめいている。そのことばはことばにならないまま、息そのものとして胸から(肉体から)吐き出される。「頭」を通って、もういちど喉(声帯)へ引き返してことばになるのではなく、「頭」を通ることを拒絶して、「頭」へ行く前に、喉をこすって漏れるのである。
 ここには「肉体」だけがとらえることができる何かがある。

 石のことばを聞いたモグラはどうしたか。「もういいよ」とは言わなかった。そして「相槌」も打たなかった。無言で土にもぐった。「何だか恥ずかし」いという感覚だけを抱き締めて。
 この恥ずかしさは中也の嘆息に似ている。「頭」のことばを拒絶している。「頭」で整理すれば、違ったことば、もっと透明なことば、誰の「頭」にも共有されうるものになるだろう。けれど、そうなってはいけないものなのだ。ことばにしないまま、「何だか恥ずかし」い、で留めておくべきことばなのである。「肉体」で共有すべきことばなのである。
 こうした「頭」と「肉体」のバランスが、四元の詩を楽しいものにしている。

 「木の詩人」の終わりの方にも、そういうことばがある。

夜、村はずれの一軒家の垣根越しに
ラジオの声を盗み聴くことの
あの後ろめたい歓びを手放すつもりも
毛頭なかった

 「あの後ろめたい歓び」。その「後ろめたい」という感じ。そして、それを修飾する「あの」ということば。
 そういえば「石の詩人」の「なんだか恥ずかしく」には「なんだか」というあいまいな修飾語がついていた。「あの」とその「なんだか」に似ている。「あの」も「なんだか」もほんとうは「木」と「モグラ」にしかわからないあいまいなことばのはずである。しかし、なぜだか、四元の詩を読んだ誰にもかならずわかる「なんだか」「あの」である。それは私たちの「肉体」が知らず知らずに受け止め消化し、共有している「なんだか」「あの」なのである。
 そういう「肉体」そのものの「なんだか」「あの」を丁寧につかいながら、「恥ずかしい」「後ろめたい」という感覚を引き出してくる。そうすることで、それまでに書いたことばが「頭」のなかで勝手に走って行ってしまうのを引き止める。
 その瞬間に、四元の「詩」がくっきりと立ち上がってくる。

コメント
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