大家正志「翻訳 ⑤ 死んだ男の」(「SPACE」72、2007年03月01日発行)。
葬儀のあと、仲間がつどい死んだ男のことを語り合う。「思い出されるのは/死んだ男の細部ばかりで/細部を繋ぎ合わせても/祭壇の前の木箱の中で眠る男の全体像にたどりつけない」云々の行あとがおもしろい。
ここに描かれているのは「死」ではなく「生」である。死に触れながら生を語るしかない。というのは矛盾だが、矛盾のなかにしか、ほんとうに語りたいこと、「真実」は存在しない。矛盾に向き合ったとき、こころが動く。その動きが、人間の命の頼り得る唯一のものだろうと思う。
引用した部分の最後の2行「脳が腐っている/清潔な空気」「はらわたが美しい/心が腐っている」の2回の対比のなかで「清潔」「美しい」に向き合っていることばが、どちらも「腐っている」であることは、大家の思想を見つめるとき、重要なことがらかもしれない。
また「腐っている」が「脳」「心」という抽象的なものであるのに対し、「清潔」「美しい」が「吐い」た「空気」(つまり、「息」)、「はらわた」という肉体に近いものであること、具体的なものであることも大家の思想を見つめるとき、重要なことがらだと思う。
「心」は抽象的だが「脳」は抽象的ではなく、具体的な存在だという人もいるかもしれない。しかし、ほんとうだろうか。理科の解剖実験にしろ、料理にしろ、小動物や魚の「はらわた」を手で触ったように、「脳」に触ったことがある人間はどれくらいいるだろうか。「脳」はものを考える器官、こころはものを感じる器官という具合に、多くのひとは抽的にとらえているのではないだろうか。大家もそうだろうと思う。抽象的に考えているからこそ、最後の2行で「脳」と「心」がともに腐っているものとしてひとまとめにされている。
ここから大家の思想をいくらかでもさぐってみるとすれば……。
大家は「脳」とか「心」とか、抽象的なものの方が「腐る」と感じている。抽象的なものはほんらい腐らないが、そういう抽象的でありつづけるものの方が腐ると感じている。抽象を頼りにしないということだろう。一方、「息」(吐いた空気--これはときとして、臭い口臭でもある)「はらわた」というような、人間の肉体を具体的に感じさせるものを「清潔」「美しい」と呼ぶとき、そういう具体的なものの方が大家のことばを支えてくれると信頼しているということだと思う。
この、大家が信頼しているものを、もっと自覚的に信頼するのだという方向でことばを動かしていくと、大家の詩は動き出すと思う。今は、抽象と具体の両方を見つめ、どちらへ動き出そうか、まだ定めきれていないように感じる。たぶん抽象についてなら、大家はことばをかなり自由に動かせるのだと思う。具体的なものについてことばを自由に動かすというのはむずかしい。具体的なものは常に抵抗してくるからである。どうしても安易な方向にことばは動いてしまうのである。
*
私が今書いたことは、それこそ抽象的すぎたかもしれない。詩にもどって抽象と具体を説明しなおしてみる。たとえば、この作品の書き出し部分。
これは具体的に見えるかもしれないが、抽象である。「アルコール依存症だったので肝臓かとおもっていた」ということばが象徴的だが、この「おもっていた」は「脳」でかってに想像していたということだろう。そこには具体的に「男」とのつきあいがない。たとえば肝臓が悪ければ手のひらに紅い斑点が出るとか顔の色がくすむとかという肉眼でとらえられる関係が浮かび上がってくるのが具体的な関係である。大家の発言か、仲間の発言かわからないが、ここで語られていることがらは、通り一遍の、そのあたりに流通している言語、抽象的なことばにすぎない。こうした会話をするとき、ひとは、その死んだ男と自分がどうつきあってきたかを語っていない。自分と切り離して見つめている。その男が吐いた空気(息、口臭)にも「はらわた」にも触れてはいない。
こういう部分は、とてもつまらない。
私が最初に引用した部分は、そういう流通している言語では「死んだ男」がとらえられない(全体像にたどりつけない)という自覚のあとの、自省である。
最初に引用した部分のことばは、葬儀のあとの集いでことばにしても、誰にも通じないだろう。大家だけにしかわからないものを含んでいるだろう。いわば、大家の「はらわた」のようなものが出ているのだが、「はらわた」など普通は皮膚と皮下脂肪につつまれていて見えないから、そんなものを突然出されても「仕事仲間」は困惑するだけだ。だから、そういうものはそのときは隠したままにしておいて、大家ひとりになったときに、「詩」として書くしかなかったのだと思う。
最初に引用した部分のことばは比喩に満ちていて、その比喩が何をあらわすのかすぐにはわからない。しかし、そのわからなさが、そのまま大家の「はらわた」なのだ。流通している言語にまみれて「腐っている」のではなく、まだ生きていて、清潔で、美しい「はらわた」なのだ。
こうしたことばをこそ、もっと読みたいと思った。
葬儀のあと、仲間がつどい死んだ男のことを語り合う。「思い出されるのは/死んだ男の細部ばかりで/細部を繋ぎ合わせても/祭壇の前の木箱の中で眠る男の全体像にたどりつけない」云々の行あとがおもしろい。
木箱の中のチップは組み立てれば
不意の人型となって立ち上がるかもしれないが
回収作業に忙しい僕らは
気にとめることもない
閉じこめられているのは人型チップと僕らの意識からこぼれていった大陸
祭りのあけた朝
回収される僕らの苦い記憶は
夜があけるたびに繰り返される奇妙な浄化装置のホースを食いちぎって
汚物合戦の実況放送をはじめる
プラスティック廃材の人型にむかって
脳が腐っている人間は清潔な空気を吐いている と
はらわたが美しい人間は心が腐っている と
(谷内注・本文は尻揃えの表記だがインターネットではうまく表記できないので頭揃えで引用した)
ここに描かれているのは「死」ではなく「生」である。死に触れながら生を語るしかない。というのは矛盾だが、矛盾のなかにしか、ほんとうに語りたいこと、「真実」は存在しない。矛盾に向き合ったとき、こころが動く。その動きが、人間の命の頼り得る唯一のものだろうと思う。
引用した部分の最後の2行「脳が腐っている/清潔な空気」「はらわたが美しい/心が腐っている」の2回の対比のなかで「清潔」「美しい」に向き合っていることばが、どちらも「腐っている」であることは、大家の思想を見つめるとき、重要なことがらかもしれない。
また「腐っている」が「脳」「心」という抽象的なものであるのに対し、「清潔」「美しい」が「吐い」た「空気」(つまり、「息」)、「はらわた」という肉体に近いものであること、具体的なものであることも大家の思想を見つめるとき、重要なことがらだと思う。
「心」は抽象的だが「脳」は抽象的ではなく、具体的な存在だという人もいるかもしれない。しかし、ほんとうだろうか。理科の解剖実験にしろ、料理にしろ、小動物や魚の「はらわた」を手で触ったように、「脳」に触ったことがある人間はどれくらいいるだろうか。「脳」はものを考える器官、こころはものを感じる器官という具合に、多くのひとは抽的にとらえているのではないだろうか。大家もそうだろうと思う。抽象的に考えているからこそ、最後の2行で「脳」と「心」がともに腐っているものとしてひとまとめにされている。
ここから大家の思想をいくらかでもさぐってみるとすれば……。
大家は「脳」とか「心」とか、抽象的なものの方が「腐る」と感じている。抽象的なものはほんらい腐らないが、そういう抽象的でありつづけるものの方が腐ると感じている。抽象を頼りにしないということだろう。一方、「息」(吐いた空気--これはときとして、臭い口臭でもある)「はらわた」というような、人間の肉体を具体的に感じさせるものを「清潔」「美しい」と呼ぶとき、そういう具体的なものの方が大家のことばを支えてくれると信頼しているということだと思う。
この、大家が信頼しているものを、もっと自覚的に信頼するのだという方向でことばを動かしていくと、大家の詩は動き出すと思う。今は、抽象と具体の両方を見つめ、どちらへ動き出そうか、まだ定めきれていないように感じる。たぶん抽象についてなら、大家はことばをかなり自由に動かせるのだと思う。具体的なものについてことばを自由に動かすというのはむずかしい。具体的なものは常に抵抗してくるからである。どうしても安易な方向にことばは動いてしまうのである。
*
私が今書いたことは、それこそ抽象的すぎたかもしれない。詩にもどって抽象と具体を説明しなおしてみる。たとえば、この作品の書き出し部分。
この夏
仕事仲間が死んだ
アルコール依存症だったので肝臓かとおもっていたら
リンパ腺のガンだった
死は単純に悲しいけれど
あれだけ呑みゃあ本望だろう
これは具体的に見えるかもしれないが、抽象である。「アルコール依存症だったので肝臓かとおもっていた」ということばが象徴的だが、この「おもっていた」は「脳」でかってに想像していたということだろう。そこには具体的に「男」とのつきあいがない。たとえば肝臓が悪ければ手のひらに紅い斑点が出るとか顔の色がくすむとかという肉眼でとらえられる関係が浮かび上がってくるのが具体的な関係である。大家の発言か、仲間の発言かわからないが、ここで語られていることがらは、通り一遍の、そのあたりに流通している言語、抽象的なことばにすぎない。こうした会話をするとき、ひとは、その死んだ男と自分がどうつきあってきたかを語っていない。自分と切り離して見つめている。その男が吐いた空気(息、口臭)にも「はらわた」にも触れてはいない。
こういう部分は、とてもつまらない。
私が最初に引用した部分は、そういう流通している言語では「死んだ男」がとらえられない(全体像にたどりつけない)という自覚のあとの、自省である。
最初に引用した部分のことばは、葬儀のあとの集いでことばにしても、誰にも通じないだろう。大家だけにしかわからないものを含んでいるだろう。いわば、大家の「はらわた」のようなものが出ているのだが、「はらわた」など普通は皮膚と皮下脂肪につつまれていて見えないから、そんなものを突然出されても「仕事仲間」は困惑するだけだ。だから、そういうものはそのときは隠したままにしておいて、大家ひとりになったときに、「詩」として書くしかなかったのだと思う。
最初に引用した部分のことばは比喩に満ちていて、その比喩が何をあらわすのかすぐにはわからない。しかし、そのわからなさが、そのまま大家の「はらわた」なのだ。流通している言語にまみれて「腐っている」のではなく、まだ生きていて、清潔で、美しい「はらわた」なのだ。
こうしたことばをこそ、もっと読みたいと思った。