詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

世界最速のインディアン

2007-02-11 20:51:23 | 映画
出演 アンソニー・ホプキンス

 アンソニー・ホプキンスが童心あふれる65歳を演じている。もともと童顔(だからこそ「羊たちの沈黙」が怖い)だから表情に甘さがある。その甘さが他人をやわらかい気持ちに誘う。ついつい親切にしたい、というよりも、むしろ、甘やかしたいという気持ちにさせる。その65歳の男がやっていることが1920年代の古ぼけたバイクを自己流に改造し、スピード記録に挑戦するというのだから、どうしても「がんばれ、がんばれ」と応援したくなる。そう応援したいという気持ちを引き出す、頑固で、しかし純粋なままのこころをアンソニー・ホプキンスが、楽しそうに演じている。
 彼が演じる男が世界最速のスピード記録を出すことは、もう最初からわかっているので、ストーリーは、彼がどんなふうにまわりの人の心を引きつけたか、ということだけを中心に描かれる。ニュージーランドからアメリカへ単独で乗り込み、苦労もいろいろしたはずなんだろうけれど、出会うひと出会うひと、ほとんど全員がアンソニー・ホプキンスの純真な目、その微笑みにひっぱられて、やさしくなっていく。
 この過程が、丁寧で、とても気持ちがいい。
 その基本となっているのが、最初に描かれるバイクを自己流に改造するシーン。バイクに必要な改造はいろいろあるだろうけれど、アンソニー・ホプキンは最新のものを求めるわけではない。自分のまわりにあるもので何ができるかを考える。そして、少しずつ改良する。オイルキャップにはワインのコルクの栓までつかう。軽いから、という理由で。
 自分にできることは何か、ということをアンソニー・ホプキンス演じる男とは知っている。そしてできることの最善を尽くす。不可能なこと、そこにはたとえば金をつぎ込んで最新の部品をそろえるというようなことも含まれているのだが、そういうことには目を向けない。あくまで自分でできる範囲のことがらを探し出して、それをつかう。そんなふうにすべて自分で改造しているから、彼には彼のバイクがどんな性格なのかもわかっている。彼と一体であり、また彼そのものなのだ。
 そのことを出会った相手にも正直につたえる。彼がバイクであり、バイクが彼である。彼が心筋梗塞、前立腺肥大という持病を抱えているように、バイクも最新のものと比べれば驚くほど古くさい。とても正常とは言えない。しかし、そこには弱点を抱えて生きていく不思議な粘り強さのようなものがある。
 正直さと、その正直だけがもっている工夫のすばらしさ、ねばり強い知恵のおもしろさが、出会った人の心を開かせるのだ。--知恵、と今書いたが、たぶん、アンソニー・ホプキンスがここで表現しているのは「知恵」という思想である。知識ではなく、知恵。生きていく過程で、少しずつ肉体にしみ込ませていった生き方。それを知恵と呼ぶのだが。
 この知恵を生きるという生き方が、バイクにぴったりあっている。バイクであろうと4輪の車であろうと、レーサーにとっては体の一部だろうけれど、バイクの場合は一体感がより強いだろう。体の動かし方ひとつでバイクの動きそのものが変わってしまうのだから。生き方がそのまま反映するのがバイクといってもいいかもしれない。そんなことも感じさせる。
 その象徴的なシーン。スピードを上げるとバイクが揺れる。どうするか。運転しながら頭を上げる。体を起こす。そうすると重心がバイクの後ろに移動し、安定する。アンソニー・ホプキンスは彼自身の体を利用してバイクの動きを制御するのである。彼の肉体が完全にバイクと一体なのである。どれくらい頭を上げるとか何秒あげるとか、そんなことは数字では表現できない。「知識」にはならない。たが体が感じる一体感を肉体で受け止め、それに合わせるだけである。
 そういう一体感を生きる人間には、排気筒が過熱して足が火傷をすることなどなんでもない。排気筒が過熱で苦しんでいる。足だって火傷したって当然、という気持ちなんだろう。仲間が苦しんでいるときはいっしょに苦しむという知恵。そのことによって、いっそう一体感が強まるという知恵。
 ラストの新記録を樹立するときの走りは、今書いた、体を張って重心を動かしバイクをコントロールするということと、足の火傷を承知で走り続けるという二つのことによって達成されるのだけれど、この肉体の使い方、犠牲に仕方がなんとも気持ちがいい。無理をしているという感じではなく、できることがそれだから、そうするのだという自然な感じがする。知恵とはいつでも自然なものである。肉体のなかで蓄積されて、自然におもてに出てくるものである。
 この映画では具体的には描かれていないけれど、たぶんアンソニー・ホプキンスが演じた男は、あらゆる機会に自分の肉体を張って他人と接してきたのだろう。知恵を大切にし、他人と一体になって生きてきたのだろう。そういう生き方が、自然に他人の共感を呼び、親切さを引き出し、親切にしてあげたい、望むことはなんでもさせてやりたい、という気持ちを呼び込むのだろう。
 知識を生きる人間ではなく、知恵を生きる人間の美しさが、アンソニー・ホプキンスノ童顔、それから太った腹、ごつごつした手、短い足、というかスマートとは言えない肉体から滲み出ている。いい演技だなあ、と感心する。アンソニー・ホプキンスが嫌いだったひともぜひ見てほしい。新しいアンソニー・ホプキンスがスクリーンにいる。そして、きっと好きになる。

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難波律郎『難波律郎全詩集』(4)

2007-02-11 19:21:30 | 詩集
 難波律郎難波律郎全詩集』(4)(書肆山田、2006年12月25日発行)。
 2月11日に書いた「廃屋通信」についての感想の補足。最後の部分の1行あきについて。

千年たてば……

……あと九百五十年

 この2行は、「50年」という肉体でつかみとれる時間へ引き返すための「頭」の操作である。「千年」や「頭」でしか数えられない年数である。「九百五十年」も「頭」でしか数えられない年数である。ともに実感できないものである。長いのか、短いのか、たとえば「十代の1年は長かったが、五十代の1年はあっという間」という具合に「三百五十五年から四百年までは長かったが、四百一年から四百三年までは短かった」とは言えない。ことばのなかだけでしか「千年」も「九百五十年」も存在しない。
 そういうことを承知のうえで、難波は「千年」「九百五十年」と書いている。数学でマイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、「頭」で考えた数字と「頭」で考えた数字をぶつけることで、「肉体」へ帰って来る。
 その間に、一種の反省のようなものがある。
 戦死した兵士--それは難波自身であったかもしれないのに、「頭」で考えてしまった、「肉体」で感じること以上のことを書いてしまった、という反省がある。「頭」の暴走を引き止めるための一瞬の動き。それが「1行あき」。「頭」が「肉体」になるための必要不可欠の空白。--難波にとっては、「1行あき」は単なる「連」の区切りではない。深い意味と、重たい実感がある。
 その重さに、私は感動する。



 「未刊詩篇・散文」にも好きな作品がたくさんある。「オレは突き刺す……」は殺人者のこころを描いている。その1連目の後半と2連目の前半。

だがオレはオレに強制する
そいつの鼻をそぐ 眼をえぐる
足を斬り手をもいでバラバラにする
そいつの原形は失われた 針金でくくる
首はドブへ蹴落とし 残りは犬にやる

おお 嫉妬に痒かつたペニスよ 虚妄の歯よ口よ
わかるか?
くくられて処刑されるものの恐怖が
わかるか?
裂かれる愛のように 腑分けされる内臓の痛みが
わかるか?

 難波は実際に殺人(処刑)をおこなっているわけではない。殺人者を「頭」のなかで描いている。それが1連目。そこから「1行あき」のあと、強引に「肉体」へ引き返して来る。

嫉妬に痒かつたペニスよ

 このことばのなかでしか存在し得ない激情と皮膚感覚とペニスの結合。「頭」のなかのできごとを「肉体」にねじ込む力業。それを単に力業とだけ受けとめれば、これは「現代詩の技法」ということになってしまうが、技法とは感じさせないものがある。怒り、とでもいえばいいのだろうか。生々しい怒りのような艶やかさ。意味はわからないが怒っていることだけが肉体に直接響いて来るような声。
 難波は「頭」のなかの「ことば」を書いているのではない。「肉体」をかけまわる空気、血潮、それが喉を引き裂くように噴出して来る声を書いている。
 声は「意味」であるより前に「肉体」そのものであり、そこでは意味にならないものが暴れ回る。意味を求めて暴れ回る。

わかるか?

 3回繰り返される、この絶望。「わかるか?」とは「意味がわかるか?」「頭で理解できるか?」という問いかけではない。「頭ではわかってくれるな」という逆説である。「オレをオレのまま受け止めてくれ」という祈りである。
 逆説でしか語れないものがあるのだ。肉体・心の奥で暴れ回る力、その「思想」がそれである。

 逆説はさらにつづく。

最早妻にやさしくすることや 子供と微笑しあうことや
一杯の水さえ飲めなくなつたものよ
これで一切が終了し オレは解放された
オレは軽い足どりで歩くことができる
オレの咽喉は大声で歌いたがり 押殺すのに骨が折れる

 逆説という形での「肉体」の一体感。それは、ことばにできないものの放出であり、解放である。



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ポーラ・ミーハン「ハンナおばあちゃん」再読

2007-02-11 11:54:16 | 詩集
 ポーラ・ミーハン「ハンナおばあちゃん」(栩木伸明訳)再読(「現代詩手帖」2007年02月号)。
 ポーラ・ミーハン「ハンナおばあちゃん」(栩木伸明訳)の感想に対し、ビジターの19540507さんから批判があった。19540507さんの批判は、私が「西洋的な文脈」を踏まえていないということを出発点としているように思う。私はもちろん西洋人ではないし、キリスト教徒でもない。また、女性でもない。ポーラ・ミーハンの「文脈」(彼女が生活のなかで積み重ねてきた精神・感覚の背景)を知っているわけではない。したがって、すべては私が「頭」のなかで空想したことである。「西洋的な文脈」を踏まえていないという指摘には、反論する余地はまったくない。ただ、私がポーラ・ミーハン「ハンナおばあちゃん」で感じたのは、彼女の作品が私の理解している「西洋的な文脈」とは別個のものであるということ。そして、「西洋的な文脈」とは違うからこそ私のこころに響いてきた。感動的だった。そのことを、もう一度書いておきたい。
 まず、全文を引用する。

一番寒かった十一月の日
耳元でおばあちゃんの声--

神父様ニャアナンニモ言ッチャイケナイヨ。

わたしは十二歳、それとも十三歳だったかしら。

心ガケガレテルンダカラ。

罪ハジブンノ心ニ秘メテオクモンダヨ。

連中ヲゾクゾクサセテヤルコトハナインダ。

ダーティー・オウル・フェッカーズ。

鳥とか蜂蜜とかにおびき寄せられるみたいに
聖母像の前にひざまずいたおばあちゃん。
人生の現実をつかさどるわたしたちの聖母が

たたずんでいるのは懺悔聴聞室のすぐ脇。
聴聞室のドアは堅いオークを丁寧に仕上げてあって

ワックスをかけたうえに緩衝器(フェルトのクッション)までついていて
棺桶のフタみたいに音もなく閉まる。

きっちりつくったこの詩の箱のなかで
おばあちゃんの声は消え入る

おばあちゃんは目を閉じて

組んだ両手にふれんばかりにおでこが下がって
おんなからおんなへの

一心不乱のお祈りがはじまる。

 私はこの詩から「西洋的な文脈」(と、私が「頭」で考えているもの)とは違ったものを受け取った。「男の信じているキリスト教」(これを、私の「頭」は「西洋的な文脈」と呼んでいる)とは違うもも、「女性の感じているキリスト教」というものがあるのではないか、と感じた。そして、そのことに感動した。もちろん私は女性ではないので、私が女性と考えた部分も「頭」で考えた部分である。「西洋的な文脈」(実際の西洋人、かつキリスト教徒)、女性(かつキリスト教徒)から見るとおかしなところがたくさんあると思うが、この詩で考えたのは次のようなことである。
 私は、まずおばあちゃんのことばにつきうごかされた。
 「神父様ニャアナンニモ言ッチャイケナイヨ。//(略)//心ガケガレテルンダカラ。//罪ハジブンノ心ニ秘メテオクモンダヨ。//連中ヲゾクゾクサセテヤルコトハナインダ。」
 罪と心。「男の信じているキリスト教」(と私が「頭」で考えていること)では、罪は懺悔すれば浄化される。何度罪をおかしても懺悔するたびに清らかに生まれ変わることができる。そうやって、天国へ行ける。「神父様」は、いわば罪で汚れた心を浄化する手助けをする。
 ところが、この詩のおばあちゃんは、そんなふうには考えていないように私には思える。おばあちゃんは、では、どう考えているのか。「神父様」を批判する形で語っている。
 まず、おばあちゃんは「神父様ニャアナンニモ言ッチャイケナイヨ。」と少女に語りかける。「ナンニモ」とは懺悔にそうとうするようなこと、という意味だとおもう。なぜ神父様に何も言ってはいけないのか。「(神父様の)心ガケガレテルンダカラ。」(訳文にはないが、私は「神父様の」ということばを補って、この行を読んだ。え、なぜ、神父様の心が汚れている? 逆じゃないか? そういう疑問に、おばあちゃんは次のことばを挿入する。いわば補助線のようなもの。起承転結の「転」のようなもの。「罪」(たとえば、許されていないセックス、神に誓った相手ではない人間とのセックス)は「ジブンノ心ニ秘メテオクモンダヨ。」これは、おばあちゃんの体験そのものだろう。おばあちゃんは、かつて、もしかするとそういう「罪」を神父様に懺悔したことがあった、あるいはおばあちゃんのさらにおばあちゃんから、神父様に懺悔した体験を聞いたことがあった。そのとき、何が起きたか。おばあちゃんの(女の)心は浄化されたのか。そうではなく、いやな思い出だけが残った。つまり「連中(神父様--つまり男)」が欲望をくすぐられてにたにたした。「ゾクゾク」感じた。--「西洋的な文脈」は私の実感ではないが、この「連中……」の行に書かれていることには、私は責任を持って自分の感想を言うことができる。「頭」ではなく「肉体」で感じていることを書くことができる。女性が、しかも若い女性が彼女のセックス体験を懺悔するのを聞くことができたら、私の肉体は「ゾクゾク」する。興味津々、冷静を装いながらも、感情は、女性が語る体験の相手(男)に重なってしまっている。おばあちゃんの言っていることは「正しい」と思う。「西洋的な文脈」のなかではどうか知らないが、私の「男の文脈」のなかではおばあちゃんはほんとうのことを言っている。おばあちゃんが「彼ノ」あるいは「神父様ノ」と単数形ではなく「連中」と複数で語っていることを見ると、おばあちゃんは、懺悔すること、告白することで、こころが浄化されるどころか、逆に「セカンドレイプ」のような苦悩を味わったことがあるのかもしれない。そして、そんなつらい思いをしないように、少女に「神父様ニャアナンニモ言ッチャイケナイヨ。」と語ったのだろう。
 では、「罪」をおかしてしまったら、少女はどうすればいいのだろうか。
 「罪ハジブンノ心ニ秘メテオクモンダヨ。」
 心は、「男性の」「西洋的な文脈」あるいは「男性の」「キリスト教」(と私が「頭」で考えているもの)では、懺悔によって何度でも浄化する。再生しなおす。つまり、心は「複数」ある。
 ところが、おばあちゃんは心はそんなふうに複数はないと感じている。懺悔によってセカンドレイプされる。ことばではレイプされないだろうけれど、「ゾクゾク」感じている視線によってレイプされる。心はひとつで、そのひとつの心が二度つらい思いを味わう。和泉式部(?)の歌ではないが「こころは千々に砕くれどひとつも消えぬものにぞありける」(うろおぼえ)に通じることがら(内容は正反対だが)がここには語られているのだと思う。心は肉体と同じでたったひとつ。懺悔なんかじゃ浄化されない。救われない。だから、肉体を他人にさらさないように、罪は少女自身の心に秘めておきなさい。それがおまえ自身を守る方法だよ、とおばあちゃんは言っている。
 そして、神父様にではなく、聖母像に祈りなさい。おばあちゃんのように、とおばあちゃんは実践して見せる。
 そのときのおばあちゃんは鳥や蜜蜂におびきよせられるように聖母像に近付いて行く。鳥や蜜蜂は人間を見て「ゾクゾク」なんかはしない。ただ無言でおばあちゃんがそこにいることを「許し」てくれる。聖母像も同じである。
 「人生の現実をつかさどるわたしたちの聖母」。この1行のなかの「わたしたちの」という所有格。これは「女性たちの」というのに等しい。「心ガケガレテルンダカラ。」という1行には所有格がなかった。なかったが私は「神父様の」を補って読んだ。「神父様の」はほとんと「男たちの」に等しい。だからこそ「連中」ということばもでてきた。
 「神父様の」が省略され、「わたしたちの」が訳出されている。ここに、この詩の訳のすばらしさがある。「わたしたちの」は、「人類の」ではない。あくまで、罪を犯して、それを懺悔せずに心に秘めて生きる「女たちの」と同じなのである。
 「おんな」ということばは、この詩ではとても大事である。だからこそ、最後の最後まで、そのことばはつかわれず、ぎりぎりの、そのことばなしでは1行が成立しないときになって、やっとつかわれる。

組んだ両手にふれんばかりにおでこが下がって
おんなからおんなへの

一心不乱のお祈りがはじまる。

 男の祈りは、たぶん、彼ひとりの祈り、ただ自分の心だけが浄化されればそれですむ、個人主義的な祈りである、というのがおばあちゃんの実感なのかもしれない。男にとっては、肉体もまた、彼ひとりのものであるだろう。(男である私は、私の肉体は私個人のものと考えている。)ところが、おばあちゃんにとって女の肉体は彼女ひとりのものではない。女から女へつづいてゆくもの。おばあちゃんからその娘へ、そして孫の少女(ポーラ・ミーハン)へと受け継いで行かれるものなのだ。男(「西洋的な文脈」「キリスト教的な文脈」での男)が懺悔することで心が再生すると感じているように、おばあちゃんは肉体がおばあちゃんから娘へ、そして孫へと再生していくと感じているのだろう。そして、その再生して行く肉体のなかで、女の心は永遠にひとつのままつづいて行くのである。
 これがおばあちゃんの信仰だろう。再生する肉体のなかで引き継がれて行く心--それが「おばあちゃんのキリスト教」(聖母信仰)であり、それは男の信仰とはまったく違ったものなのだと思う。そして、その男の信仰とまったく違っているということに、私は感動する。

 これはもちろん、キリスト教徒でも女性でもない私のたわごとだろう。たわごとであっても、それが私の感じたことだ。
 キリスト教徒や女性が、この作品をどう読んだか、19540507さん以外の人の感想もお聞きできればうれしいのだが。

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