出演 アンソニー・ホプキンス
アンソニー・ホプキンスが童心あふれる65歳を演じている。もともと童顔(だからこそ「羊たちの沈黙」が怖い)だから表情に甘さがある。その甘さが他人をやわらかい気持ちに誘う。ついつい親切にしたい、というよりも、むしろ、甘やかしたいという気持ちにさせる。その65歳の男がやっていることが1920年代の古ぼけたバイクを自己流に改造し、スピード記録に挑戦するというのだから、どうしても「がんばれ、がんばれ」と応援したくなる。そう応援したいという気持ちを引き出す、頑固で、しかし純粋なままのこころをアンソニー・ホプキンスが、楽しそうに演じている。
彼が演じる男が世界最速のスピード記録を出すことは、もう最初からわかっているので、ストーリーは、彼がどんなふうにまわりの人の心を引きつけたか、ということだけを中心に描かれる。ニュージーランドからアメリカへ単独で乗り込み、苦労もいろいろしたはずなんだろうけれど、出会うひと出会うひと、ほとんど全員がアンソニー・ホプキンスの純真な目、その微笑みにひっぱられて、やさしくなっていく。
この過程が、丁寧で、とても気持ちがいい。
その基本となっているのが、最初に描かれるバイクを自己流に改造するシーン。バイクに必要な改造はいろいろあるだろうけれど、アンソニー・ホプキンは最新のものを求めるわけではない。自分のまわりにあるもので何ができるかを考える。そして、少しずつ改良する。オイルキャップにはワインのコルクの栓までつかう。軽いから、という理由で。
自分にできることは何か、ということをアンソニー・ホプキンス演じる男とは知っている。そしてできることの最善を尽くす。不可能なこと、そこにはたとえば金をつぎ込んで最新の部品をそろえるというようなことも含まれているのだが、そういうことには目を向けない。あくまで自分でできる範囲のことがらを探し出して、それをつかう。そんなふうにすべて自分で改造しているから、彼には彼のバイクがどんな性格なのかもわかっている。彼と一体であり、また彼そのものなのだ。
そのことを出会った相手にも正直につたえる。彼がバイクであり、バイクが彼である。彼が心筋梗塞、前立腺肥大という持病を抱えているように、バイクも最新のものと比べれば驚くほど古くさい。とても正常とは言えない。しかし、そこには弱点を抱えて生きていく不思議な粘り強さのようなものがある。
正直さと、その正直だけがもっている工夫のすばらしさ、ねばり強い知恵のおもしろさが、出会った人の心を開かせるのだ。--知恵、と今書いたが、たぶん、アンソニー・ホプキンスがここで表現しているのは「知恵」という思想である。知識ではなく、知恵。生きていく過程で、少しずつ肉体にしみ込ませていった生き方。それを知恵と呼ぶのだが。
この知恵を生きるという生き方が、バイクにぴったりあっている。バイクであろうと4輪の車であろうと、レーサーにとっては体の一部だろうけれど、バイクの場合は一体感がより強いだろう。体の動かし方ひとつでバイクの動きそのものが変わってしまうのだから。生き方がそのまま反映するのがバイクといってもいいかもしれない。そんなことも感じさせる。
その象徴的なシーン。スピードを上げるとバイクが揺れる。どうするか。運転しながら頭を上げる。体を起こす。そうすると重心がバイクの後ろに移動し、安定する。アンソニー・ホプキンスは彼自身の体を利用してバイクの動きを制御するのである。彼の肉体が完全にバイクと一体なのである。どれくらい頭を上げるとか何秒あげるとか、そんなことは数字では表現できない。「知識」にはならない。たが体が感じる一体感を肉体で受け止め、それに合わせるだけである。
そういう一体感を生きる人間には、排気筒が過熱して足が火傷をすることなどなんでもない。排気筒が過熱で苦しんでいる。足だって火傷したって当然、という気持ちなんだろう。仲間が苦しんでいるときはいっしょに苦しむという知恵。そのことによって、いっそう一体感が強まるという知恵。
ラストの新記録を樹立するときの走りは、今書いた、体を張って重心を動かしバイクをコントロールするということと、足の火傷を承知で走り続けるという二つのことによって達成されるのだけれど、この肉体の使い方、犠牲に仕方がなんとも気持ちがいい。無理をしているという感じではなく、できることがそれだから、そうするのだという自然な感じがする。知恵とはいつでも自然なものである。肉体のなかで蓄積されて、自然におもてに出てくるものである。
この映画では具体的には描かれていないけれど、たぶんアンソニー・ホプキンスが演じた男は、あらゆる機会に自分の肉体を張って他人と接してきたのだろう。知恵を大切にし、他人と一体になって生きてきたのだろう。そういう生き方が、自然に他人の共感を呼び、親切さを引き出し、親切にしてあげたい、望むことはなんでもさせてやりたい、という気持ちを呼び込むのだろう。
知識を生きる人間ではなく、知恵を生きる人間の美しさが、アンソニー・ホプキンスノ童顔、それから太った腹、ごつごつした手、短い足、というかスマートとは言えない肉体から滲み出ている。いい演技だなあ、と感心する。アンソニー・ホプキンスが嫌いだったひともぜひ見てほしい。新しいアンソニー・ホプキンスがスクリーンにいる。そして、きっと好きになる。
アンソニー・ホプキンスが童心あふれる65歳を演じている。もともと童顔(だからこそ「羊たちの沈黙」が怖い)だから表情に甘さがある。その甘さが他人をやわらかい気持ちに誘う。ついつい親切にしたい、というよりも、むしろ、甘やかしたいという気持ちにさせる。その65歳の男がやっていることが1920年代の古ぼけたバイクを自己流に改造し、スピード記録に挑戦するというのだから、どうしても「がんばれ、がんばれ」と応援したくなる。そう応援したいという気持ちを引き出す、頑固で、しかし純粋なままのこころをアンソニー・ホプキンスが、楽しそうに演じている。
彼が演じる男が世界最速のスピード記録を出すことは、もう最初からわかっているので、ストーリーは、彼がどんなふうにまわりの人の心を引きつけたか、ということだけを中心に描かれる。ニュージーランドからアメリカへ単独で乗り込み、苦労もいろいろしたはずなんだろうけれど、出会うひと出会うひと、ほとんど全員がアンソニー・ホプキンスの純真な目、その微笑みにひっぱられて、やさしくなっていく。
この過程が、丁寧で、とても気持ちがいい。
その基本となっているのが、最初に描かれるバイクを自己流に改造するシーン。バイクに必要な改造はいろいろあるだろうけれど、アンソニー・ホプキンは最新のものを求めるわけではない。自分のまわりにあるもので何ができるかを考える。そして、少しずつ改良する。オイルキャップにはワインのコルクの栓までつかう。軽いから、という理由で。
自分にできることは何か、ということをアンソニー・ホプキンス演じる男とは知っている。そしてできることの最善を尽くす。不可能なこと、そこにはたとえば金をつぎ込んで最新の部品をそろえるというようなことも含まれているのだが、そういうことには目を向けない。あくまで自分でできる範囲のことがらを探し出して、それをつかう。そんなふうにすべて自分で改造しているから、彼には彼のバイクがどんな性格なのかもわかっている。彼と一体であり、また彼そのものなのだ。
そのことを出会った相手にも正直につたえる。彼がバイクであり、バイクが彼である。彼が心筋梗塞、前立腺肥大という持病を抱えているように、バイクも最新のものと比べれば驚くほど古くさい。とても正常とは言えない。しかし、そこには弱点を抱えて生きていく不思議な粘り強さのようなものがある。
正直さと、その正直だけがもっている工夫のすばらしさ、ねばり強い知恵のおもしろさが、出会った人の心を開かせるのだ。--知恵、と今書いたが、たぶん、アンソニー・ホプキンスがここで表現しているのは「知恵」という思想である。知識ではなく、知恵。生きていく過程で、少しずつ肉体にしみ込ませていった生き方。それを知恵と呼ぶのだが。
この知恵を生きるという生き方が、バイクにぴったりあっている。バイクであろうと4輪の車であろうと、レーサーにとっては体の一部だろうけれど、バイクの場合は一体感がより強いだろう。体の動かし方ひとつでバイクの動きそのものが変わってしまうのだから。生き方がそのまま反映するのがバイクといってもいいかもしれない。そんなことも感じさせる。
その象徴的なシーン。スピードを上げるとバイクが揺れる。どうするか。運転しながら頭を上げる。体を起こす。そうすると重心がバイクの後ろに移動し、安定する。アンソニー・ホプキンスは彼自身の体を利用してバイクの動きを制御するのである。彼の肉体が完全にバイクと一体なのである。どれくらい頭を上げるとか何秒あげるとか、そんなことは数字では表現できない。「知識」にはならない。たが体が感じる一体感を肉体で受け止め、それに合わせるだけである。
そういう一体感を生きる人間には、排気筒が過熱して足が火傷をすることなどなんでもない。排気筒が過熱で苦しんでいる。足だって火傷したって当然、という気持ちなんだろう。仲間が苦しんでいるときはいっしょに苦しむという知恵。そのことによって、いっそう一体感が強まるという知恵。
ラストの新記録を樹立するときの走りは、今書いた、体を張って重心を動かしバイクをコントロールするということと、足の火傷を承知で走り続けるという二つのことによって達成されるのだけれど、この肉体の使い方、犠牲に仕方がなんとも気持ちがいい。無理をしているという感じではなく、できることがそれだから、そうするのだという自然な感じがする。知恵とはいつでも自然なものである。肉体のなかで蓄積されて、自然におもてに出てくるものである。
この映画では具体的には描かれていないけれど、たぶんアンソニー・ホプキンスが演じた男は、あらゆる機会に自分の肉体を張って他人と接してきたのだろう。知恵を大切にし、他人と一体になって生きてきたのだろう。そういう生き方が、自然に他人の共感を呼び、親切さを引き出し、親切にしてあげたい、望むことはなんでもさせてやりたい、という気持ちを呼び込むのだろう。
知識を生きる人間ではなく、知恵を生きる人間の美しさが、アンソニー・ホプキンスノ童顔、それから太った腹、ごつごつした手、短い足、というかスマートとは言えない肉体から滲み出ている。いい演技だなあ、と感心する。アンソニー・ホプキンスが嫌いだったひともぜひ見てほしい。新しいアンソニー・ホプキンスがスクリーンにいる。そして、きっと好きになる。