坂多瑩子「駆ける」ほか(「鰐組」220、2007年02月01日発行)。
坂多瑩子「駆ける」がおもしろい。暗い夜道で自転車とすれ違う様子を描いている。
現実と過去が体の動きとともに交錯する。記憶も交錯する。その交錯の加減がとてもいい。おかしい。「朝礼のときのように気をつけの姿勢で/誰もみていないので休めと号令をかける/よそみしてはいけません」の3行の動きが、単に肉体の動きだけでなく、坂多の人間性をも浮かび上がらせている。それがおかしい。
--と書いて、私は、いや、違うな。人間性なんて、そういう大それたものは、こういう短い詩を読んだだけではわかるはずがない。私が見ているのは坂多の肉体そのものだという感じがする。
自転車が走ってくる。身をかわす。最初は緊張して「気をつけ」のような感じ。でも、誰も見ていないんだから「休め」くらいの姿勢でいいかな。そう思った瞬間に、「よそみしてはいけません」という先生の声が思い浮かび、体が、ぴくりと動く。そういう変化そのものをみている。
そうではなくて……。ほんとうは、私の肉体をみている。ちょっと気をひきしめて、ちょっと気をゆるめて、その瞬間を見破られてぴくっと動いた私自身の記憶のなかにある肉体。その動き。
これは、なんというのだろうか。たとえば腹が痛くて腹を抱えてうずくまっている人を見たとき、その痛さが自分のものではないにもかかわらず、あ、腹が痛いんだと感じるときの肉体の反応に似ている。そのひとの腹がどれだけ痛もうと私の肉体はちっとも痛くない。ちっとも痛くないのに、あ、痛いんだ、かわいそう、と思ってしまう。その感じに似ている。
そして、こういう感じになったとき、単に相手が痛がっていると感じるだけではなく、人はふつう、「ああ、かわいそう」と思うが、その「かわいそう」と思う気持ちの動きこそが、ほんとうは肉体の一番重要なものだと思う。
坂多の詩の場合、「かわいそう」ではなく、「おかしい」「くすっ」という感じなのだが、それがまたとてもいい。「かわいそう」という感覚(同情)は人と共有すると、なんとなく自分が「正しい」ような気になるものである。「おかしい」「くすっ」というのは、そういう「正しさ」とは無縁である。その無縁さが、肉体の健康さそのもののように感じられて、とてもうれしいのである。
*
高橋馨「文鳥論」は漱石の「文鳥」についての批評(感想)である。ちょっと疑問をもった。
「例の件」とは三重吉が関係する結婚話である。詳しくは書かれていないが、たぶん三重吉が少女の結婚の世話をしている。それについて漱石は反対なのだ。反対であると明確に三重吉に告げるために外出した。そして、その間に文鳥が死んでしまう。
その部分について、先の漱石の文章を引いて、高橋は次のように書く。
私はまったく逆に取った。鳥籠のなかの文鳥が子供のまま嫁に行ってしまう少女を暗示しているのだと思った。いやだとも言えずに結婚させられる少女。そこでは少女の「自然」は簡単にねじまげられてしまう。まるで文鳥が死ぬように、簡単に死んでしまう。少女の生死は、少女が決定できず、そのまわりの人にかかっている。まわりの人次第で、少女は簡単に死んでしまう。肉体の問題ではなく、精神、感情の問題として、死んでしまう。--そういうことの暗示として、漱石は文鳥の死を書いている。そんなことはよくない、と漱石は考えている。
女と文鳥の対比は、これ以前にも書かれている。対比させられる女は、やはり結婚がきまった女である。漱石は、最初、文鳥とその女、かなりいろっぽい感じの女を重ね合わせている。
結婚した当初(女が「嫁」として家に来た当初)は大事にされるだろう。文鳥が大事にされるのと同じである。だが、なれるにしたがって、大事にする、ちゃんと(漱石の場合、ちゃんとは「自然」に同じ意味である)生きているか面倒を見るということをおこたるようになる。そして、ある日は餌をやるのを忘れる。水をやるのを忘れる。そうして、気がついたら死んでしまっている、ということになってしまう。(これは繰り返すけれど、あくまで精神・感情の問題の「比喩」である。)
そういう変化を、漱石は、漱石自身の文鳥に対する態度と重ね合わせる形で書いている。ほんとうに必要ではないもの、愛してもいないものを、他人が世話をしてくれるままに引き受けても、そこからは「幸福」は生まれない。どうせ他人が世話をしてくれたものだ、自分が欲したものではない、という気持ちが生まれてしまう。そこから、たとえば文鳥に対して愛情を注ぐということがないがしろになり、そうすることを忘れてさえしまう。そういう癖が、漱石にかぎらず、人間にはつきまとっている。
三重吉はこういうことについて考えているのか、と漱石はこの作品の中で問いかけている。そして、その問いかけは、ひとり三重吉に対してのみの問いかけというより、漱石の生きた時代そのものへの問いかけであったと思う。
「文鳥」の最後は次の通り。
この部分に関する高橋の感想は、
私は、ここでも高橋と読み方がまったく違う。
三重吉は文鳥のかわいそうなことを納得したのである。つまり、漱石の説得を受け入れたのである。三重吉が世話をするはずだった縁談は破談にした。だから、「家人」のことはもう問題にする必要がなくなった。だから、書いてないのである。三重吉は、そういうことを書かない。書かないことによって、そういう問題がなくなった、と書いている。
たぶん、こういう書き方(ことばのかわし方)が明治にはあったのだと思う。
三重吉はこの作品ではよくしゃべる人間として描かれているが、そのよくしゃべる三重吉が「家人」の問題について書かないというのは、その問題が発生のしようがなくなったことのあかしだろう。
漱石は、そう理解して、この作品を、そこですぱっと切って捨てるように終わらせている。こういう結末は、私は大好きである。
「例の件」がでは実際にどうなったのか。それは書かれていないが、破談になったがゆえに、(三重吉が破談にしたがゆえに)、漱石はそれを書かなかったのだろう。今の時代と違い、たぶん、明治時代は女性にとって破談は重いことがらだっただろう。たとえ他人が世話をしたものに過ぎなくても、破談の経歴がついてまわると女性にとってはそれからの人生が苦しかっただろう。だからこそ、そういうことは明確には書かず、書かないことによって、読者に想像させているのだろう。
「文鳥」は私にとっては、漱石の愛を感じる作品である。「自然」を重んじる漱石の思想がきちんと描かれた作品である。
坂多瑩子「駆ける」がおもしろい。暗い夜道で自転車とすれ違う様子を描いている。
暗がりなので駆ける
自転車がライトをつけて走ってくる
よけてその場で待つ
朝礼のときのように気をつけの姿勢で
誰もみていないので休めと号令をかける
よそみしてはいけません
先生の口ぐせ
あなたはいつも顔色が悪いです
何も気にとめないふりをしよう
自転車が道の真ん中を走っていく
見慣れた景色だが
全部をみることができない
現実と過去が体の動きとともに交錯する。記憶も交錯する。その交錯の加減がとてもいい。おかしい。「朝礼のときのように気をつけの姿勢で/誰もみていないので休めと号令をかける/よそみしてはいけません」の3行の動きが、単に肉体の動きだけでなく、坂多の人間性をも浮かび上がらせている。それがおかしい。
--と書いて、私は、いや、違うな。人間性なんて、そういう大それたものは、こういう短い詩を読んだだけではわかるはずがない。私が見ているのは坂多の肉体そのものだという感じがする。
自転車が走ってくる。身をかわす。最初は緊張して「気をつけ」のような感じ。でも、誰も見ていないんだから「休め」くらいの姿勢でいいかな。そう思った瞬間に、「よそみしてはいけません」という先生の声が思い浮かび、体が、ぴくりと動く。そういう変化そのものをみている。
そうではなくて……。ほんとうは、私の肉体をみている。ちょっと気をひきしめて、ちょっと気をゆるめて、その瞬間を見破られてぴくっと動いた私自身の記憶のなかにある肉体。その動き。
これは、なんというのだろうか。たとえば腹が痛くて腹を抱えてうずくまっている人を見たとき、その痛さが自分のものではないにもかかわらず、あ、腹が痛いんだと感じるときの肉体の反応に似ている。そのひとの腹がどれだけ痛もうと私の肉体はちっとも痛くない。ちっとも痛くないのに、あ、痛いんだ、かわいそう、と思ってしまう。その感じに似ている。
そして、こういう感じになったとき、単に相手が痛がっていると感じるだけではなく、人はふつう、「ああ、かわいそう」と思うが、その「かわいそう」と思う気持ちの動きこそが、ほんとうは肉体の一番重要なものだと思う。
坂多の詩の場合、「かわいそう」ではなく、「おかしい」「くすっ」という感じなのだが、それがまたとてもいい。「かわいそう」という感覚(同情)は人と共有すると、なんとなく自分が「正しい」ような気になるものである。「おかしい」「くすっ」というのは、そういう「正しさ」とは無縁である。その無縁さが、肉体の健康さそのもののように感じられて、とてもうれしいのである。
*
高橋馨「文鳥論」は漱石の「文鳥」についての批評(感想)である。ちょっと疑問をもった。
翌日(あくるひ)、眼が覚めるや否や、すぐ例の件を思ひだした。いくら当人が承知だつて、そんな所へ嫁に遣るのは行末(ゆくすゑ)よくあるまい、まだ子供だから何処へでも行けと云はれる所へ行く気になるんだろう。一旦行けば無闇に出られるものぢやない。世の中には満足しながら不孝に陥(おちい)つて行く者が沢山ある。などと考へて楊枝(やうじ)を使つて、朝飯を済まして又例の件を片付けに出掛けて行つた。(「漱石全集」第16巻、岩波書店、ただし漢字の正字は略字に、「また」は漢字が表記できないのでひらがなになおした--谷内注)
「例の件」とは三重吉が関係する結婚話である。詳しくは書かれていないが、たぶん三重吉が少女の結婚の世話をしている。それについて漱石は反対なのだ。反対であると明確に三重吉に告げるために外出した。そして、その間に文鳥が死んでしまう。
その部分について、先の漱石の文章を引いて、高橋は次のように書く。
つまり、漱石は小鳥に餌もやらなければ、水も確かめないで外出したのだ。帰ったのは午後三時頃、その時はすでに小鳥は鳥籠の中で硬直して死んでいた。まるでこの文章は小鳥の境遇を語っているようにも私には取れるのだ。
私はまったく逆に取った。鳥籠のなかの文鳥が子供のまま嫁に行ってしまう少女を暗示しているのだと思った。いやだとも言えずに結婚させられる少女。そこでは少女の「自然」は簡単にねじまげられてしまう。まるで文鳥が死ぬように、簡単に死んでしまう。少女の生死は、少女が決定できず、そのまわりの人にかかっている。まわりの人次第で、少女は簡単に死んでしまう。肉体の問題ではなく、精神、感情の問題として、死んでしまう。--そういうことの暗示として、漱石は文鳥の死を書いている。そんなことはよくない、と漱石は考えている。
女と文鳥の対比は、これ以前にも書かれている。対比させられる女は、やはり結婚がきまった女である。漱石は、最初、文鳥とその女、かなりいろっぽい感じの女を重ね合わせている。
結婚した当初(女が「嫁」として家に来た当初)は大事にされるだろう。文鳥が大事にされるのと同じである。だが、なれるにしたがって、大事にする、ちゃんと(漱石の場合、ちゃんとは「自然」に同じ意味である)生きているか面倒を見るということをおこたるようになる。そして、ある日は餌をやるのを忘れる。水をやるのを忘れる。そうして、気がついたら死んでしまっている、ということになってしまう。(これは繰り返すけれど、あくまで精神・感情の問題の「比喩」である。)
そういう変化を、漱石は、漱石自身の文鳥に対する態度と重ね合わせる形で書いている。ほんとうに必要ではないもの、愛してもいないものを、他人が世話をしてくれるままに引き受けても、そこからは「幸福」は生まれない。どうせ他人が世話をしてくれたものだ、自分が欲したものではない、という気持ちが生まれてしまう。そこから、たとえば文鳥に対して愛情を注ぐということがないがしろになり、そうすることを忘れてさえしまう。そういう癖が、漱石にかぎらず、人間にはつきまとっている。
三重吉はこういうことについて考えているのか、と漱石はこの作品の中で問いかけている。そして、その問いかけは、ひとり三重吉に対してのみの問いかけというより、漱石の生きた時代そのものへの問いかけであったと思う。
「文鳥」の最後は次の通り。
午後三重吉から返事が来た。文鳥は可愛相(かはいさう)な事を致しましたとある許(ばかり)で家人(うちのもの)が悪いとも残酷だとも一向(いつかう)に書いてなかつた。
この部分に関する高橋の感想は、
自分が墓をつくって埋めたのなら兎も角、他人が始末した埋葬にほっとしているのである。漱石の責任回避ともとれる不決断は徹底している。その上、三重吉の自体を容認するかのような手紙に内心救われたのではないだろうか。それとも、漱石よりずっと大人である三重吉は、漱石の狼狽に苦笑して書いて寄こしたのだろうか。
私は、ここでも高橋と読み方がまったく違う。
三重吉は文鳥のかわいそうなことを納得したのである。つまり、漱石の説得を受け入れたのである。三重吉が世話をするはずだった縁談は破談にした。だから、「家人」のことはもう問題にする必要がなくなった。だから、書いてないのである。三重吉は、そういうことを書かない。書かないことによって、そういう問題がなくなった、と書いている。
たぶん、こういう書き方(ことばのかわし方)が明治にはあったのだと思う。
三重吉はこの作品ではよくしゃべる人間として描かれているが、そのよくしゃべる三重吉が「家人」の問題について書かないというのは、その問題が発生のしようがなくなったことのあかしだろう。
漱石は、そう理解して、この作品を、そこですぱっと切って捨てるように終わらせている。こういう結末は、私は大好きである。
「例の件」がでは実際にどうなったのか。それは書かれていないが、破談になったがゆえに、(三重吉が破談にしたがゆえに)、漱石はそれを書かなかったのだろう。今の時代と違い、たぶん、明治時代は女性にとって破談は重いことがらだっただろう。たとえ他人が世話をしたものに過ぎなくても、破談の経歴がついてまわると女性にとってはそれからの人生が苦しかっただろう。だからこそ、そういうことは明確には書かず、書かないことによって、読者に想像させているのだろう。
「文鳥」は私にとっては、漱石の愛を感じる作品である。「自然」を重んじる漱石の思想がきちんと描かれた作品である。