ニコラス・ギエン「ルンバ」(恒川邦夫訳)(「現代詩手帖」2007年02月号)。
リズムというとき日本語ならば五七調。英語の詩ならば脚韻。音楽ならば8ビート、16ビート。いろいろなとらえ方があるだろう。そういう純粋な音のリズムのほかに「意味」のリズム、ことばの論理が飛躍するときのリズムというものがある。ニコラス・ギエン「ルンバ」(恒川邦夫訳)を読みながら、そのことを思った。
「まずい!/まずい、だっていまヒモの黒ん坊が」。このふたつの「まずい」のことばのなかでの飛躍。ジンジャーとシナモンをかき混ぜた味がまずい。この肉体の反応。そして、「ヒモ」を見かけて感じる精神(感情)がしめす「まずい」。二つのものは別々の「まずい」であるけれど、重なり合う。肉体が瞬間的に感じる「まずい」という反応までのスピードもぴったり重なり合う。もつれあう。ダンスのように……。
これは、女は「ルンバがうまい」、いまここで女と「ルンバを踊るのはまずい」という意味だろう。「ルンバがまずい」ではなく、正しい日本語(?)としては「ルンバはまずい」だろう。しかし、その「は」を「が」にかえることで、この詩はとても魅力的になっている。
ことばの論理のリズムが躍動する。ことばが「意味」よりも「肉体の反応」を優先する。その結果、女と男がルンバを踊っているのだが、そこに二つの肉体があるのではなく、「ルンバ」という肉体があるかのように感じられる。男と女の肉体はもちろんあるのだが、それが「ルンバ」という踊りの中で、分割できない肉体になっている。「ルンバ」そのものが肉体になっている。だからこそ「ルンバがうまい」であり、同時に「ルンバがまずい」なのである。「ルンバはまずい」ではなく「ルンバがまずい」でなければならない理由がここにある。
詩はつづく。
この「ルンバ」という肉体が、男と女の肉体を別々のものでありながら分割できないものとしてリズムのなかに融合させるからこそ、「おまえのガウンの水中を/ぼくのすべての悩みが泳ぐ」という行も生まれる。
官能は肉体の悦びと精神の苦悩によって、いっそう飛躍する。
詩はこのあと、「ルンバがうまい」「ルンバがまずい」がつくりだしたリズムの中で、さらにさらに熱狂的にねっとりと絡み合わされて行く。常に二つの肉体が触れ合い、「ルンバ」のなかで一つになり、一つになることで逆に二人が二つの肉体であることを自覚させ、もつれる。つまり、感情がより鮮明になる。欲望に火がつく。燃え上がる。だからこそ「ルンバがうまい、/ルンバがまずい。」と揺れ動くのだ。
この揺れ動き、そのときどきのことばとことばの距離、飛躍が、とてもいい。ぜひ「現代詩手帖」で読んでもらいたい。
原文との対比もなしにこうしたことを書くのは問題があるかもしれないが、このリズムをつくりだしているのは、日本語の訳においては「ルンバがうまい、ルンバがまずい。」の「ルンバがまずい」の方の訳である。「が」と訳出することで、「ルンバ」そのものが「第三の肉体」として出現し、あらゆることばの距離を、その距離つくりだす意味の飛躍、あるいは意味の接近を一定にしている。
スペイン語には日本語の助詞にあたる「は」「が」はないから、どのような助詞を補って日本語にするかは恒川次第ということになるのだろうけれど、「ルンバがうまい、ルンバがまずい。」はほんとうにすばらしい訳出だと思う。
「(女は)ルンバがうまい、(いまここで)ルンバ(を踊るの)はまずい。」という訳では、肉体と頭が分離してしまい、熱狂的な官能は消えてしまう。ほんとうにいい訳だ。
リズムというとき日本語ならば五七調。英語の詩ならば脚韻。音楽ならば8ビート、16ビート。いろいろなとらえ方があるだろう。そういう純粋な音のリズムのほかに「意味」のリズム、ことばの論理が飛躍するときのリズムというものがある。ニコラス・ギエン「ルンバ」(恒川邦夫訳)を読みながら、そのことを思った。
ルンバは
棒で
ねっとりした音楽を
かきまわす。
ジンジャーとシナモン……
まずい!
まずい、だっていまヒモの黒ん坊が
フェラと来るから。
「まずい!/まずい、だっていまヒモの黒ん坊が」。このふたつの「まずい」のことばのなかでの飛躍。ジンジャーとシナモンをかき混ぜた味がまずい。この肉体の反応。そして、「ヒモ」を見かけて感じる精神(感情)がしめす「まずい」。二つのものは別々の「まずい」であるけれど、重なり合う。肉体が瞬間的に感じる「まずい」という反応までのスピードもぴったり重なり合う。もつれあう。ダンスのように……。
腰のスパイス
しなやかな、金の尻
ルンバがうまい、
ルンバがまずい。
これは、女は「ルンバがうまい」、いまここで女と「ルンバを踊るのはまずい」という意味だろう。「ルンバがまずい」ではなく、正しい日本語(?)としては「ルンバはまずい」だろう。しかし、その「は」を「が」にかえることで、この詩はとても魅力的になっている。
ことばの論理のリズムが躍動する。ことばが「意味」よりも「肉体の反応」を優先する。その結果、女と男がルンバを踊っているのだが、そこに二つの肉体があるのではなく、「ルンバ」という肉体があるかのように感じられる。男と女の肉体はもちろんあるのだが、それが「ルンバ」という踊りの中で、分割できない肉体になっている。「ルンバ」そのものが肉体になっている。だからこそ「ルンバがうまい」であり、同時に「ルンバがまずい」なのである。「ルンバはまずい」ではなく「ルンバがまずい」でなければならない理由がここにある。
詩はつづく。
おまえのガウンの水中を
ぼくのすべての悩みが泳ぐ
ルンバがうまい、
ルンバがまずい。
この「ルンバ」という肉体が、男と女の肉体を別々のものでありながら分割できないものとしてリズムのなかに融合させるからこそ、「おまえのガウンの水中を/ぼくのすべての悩みが泳ぐ」という行も生まれる。
官能は肉体の悦びと精神の苦悩によって、いっそう飛躍する。
詩はこのあと、「ルンバがうまい」「ルンバがまずい」がつくりだしたリズムの中で、さらにさらに熱狂的にねっとりと絡み合わされて行く。常に二つの肉体が触れ合い、「ルンバ」のなかで一つになり、一つになることで逆に二人が二つの肉体であることを自覚させ、もつれる。つまり、感情がより鮮明になる。欲望に火がつく。燃え上がる。だからこそ「ルンバがうまい、/ルンバがまずい。」と揺れ動くのだ。
この揺れ動き、そのときどきのことばとことばの距離、飛躍が、とてもいい。ぜひ「現代詩手帖」で読んでもらいたい。
原文との対比もなしにこうしたことを書くのは問題があるかもしれないが、このリズムをつくりだしているのは、日本語の訳においては「ルンバがうまい、ルンバがまずい。」の「ルンバがまずい」の方の訳である。「が」と訳出することで、「ルンバ」そのものが「第三の肉体」として出現し、あらゆることばの距離を、その距離つくりだす意味の飛躍、あるいは意味の接近を一定にしている。
スペイン語には日本語の助詞にあたる「は」「が」はないから、どのような助詞を補って日本語にするかは恒川次第ということになるのだろうけれど、「ルンバがうまい、ルンバがまずい。」はほんとうにすばらしい訳出だと思う。
「(女は)ルンバがうまい、(いまここで)ルンバ(を踊るの)はまずい。」という訳では、肉体と頭が分離してしまい、熱狂的な官能は消えてしまう。ほんとうにいい訳だ。