監督 池谷薫 出演 奥村和一
忘れられないシーン(ことば)が2つある。
ひとつは奥村が中国で中国人を初めて殺した体験を語るシーンである。恐くて震えた。何も見えなかった。殺せと命令された中国人が目の前にいる、ということだけしか奥村には見えない。処刑場で何か起きているのかわからない。
もうひとつは、その処刑を見た中国人が体験を語るシーン。彼もまた全部を見ていない。ひとりが殺されるのを見た。そして恐くなって逃げた。全体として何が起きたのかわからない。
ふたりの証言で共通していることがいくつかある。ひとつは殺人が怖いということ。正視できないものであるということ。もうひとつは実際に目撃(体験)したことは一部であり全体を知らない、全体がどうなっているかわからない、ということ。
そして、この「全体がわからない」ということゆえに、この映画が存在する意味がある。第二次世界大戦。中国で何が行われたのか。日本人は何をしたのか。また日本軍は何をしたのか。
教科書にも、歴史の本にもいろいろ書いてある。その書かれていることは事実であるだろうけれど、その記述には個人的体験が含まれていない。ひとりひとりの肉体がことばとして書かれていない。そこには「思想」がない。
「思想」というものはあくまでひとりひとりの肉体のなかに存在するものである。ひとりひとりの肉体を離れて存在はしない。
同時に、すべてのひとは「思想」をもって生きてはいるが、それがひとりひとりの肉体の内部にしまいこまれているために、「全体」にまで視野が広がらない。ひとりひとりの「思想」の枠を広げて行き、「全体」がとらえられるようになるためには、ひとりひとりの目撃したこと、そのとき感じたこと、思ったことを丁寧につみかさねなければならない。
「思想」はひとりひとりのものである。それはさまざまな形をしている。積み重ねようとしても積み重ならない。隙間もできれば、とげとげしく傷つけあうこともある。それでも、そのひとつひとつを明確にし、全体をつくりあげていかなければならない。そうしなければ何もわかったことにはならない。「思想」は「思想」であるとは、言えない。
「私」と「全体」をつなぎ、そうすることで「私」そのものをきちんと位置づけないことには、「私」は「私」ではない。「日本軍」によってつくりあげられ、中国に放置された「蟻の兵隊」の一員にすぎない。
奥村和一は「蟻の兵隊」から「人間」にもどるために、真実を知りたいと願っている。真実を知ってほしいと切望している。
奥村和一の鋭い眼。そして、繰り返し繰り返し語ることで、贅肉を削ぎ落とし、鍛え上げられてきたことが伝わってくることばの正確さ。声の強さ。そこから、奥村和一の怒りと祈りが伝わってくる。
忘れられないシーン(ことば)が2つある。
ひとつは奥村が中国で中国人を初めて殺した体験を語るシーンである。恐くて震えた。何も見えなかった。殺せと命令された中国人が目の前にいる、ということだけしか奥村には見えない。処刑場で何か起きているのかわからない。
もうひとつは、その処刑を見た中国人が体験を語るシーン。彼もまた全部を見ていない。ひとりが殺されるのを見た。そして恐くなって逃げた。全体として何が起きたのかわからない。
ふたりの証言で共通していることがいくつかある。ひとつは殺人が怖いということ。正視できないものであるということ。もうひとつは実際に目撃(体験)したことは一部であり全体を知らない、全体がどうなっているかわからない、ということ。
そして、この「全体がわからない」ということゆえに、この映画が存在する意味がある。第二次世界大戦。中国で何が行われたのか。日本人は何をしたのか。また日本軍は何をしたのか。
教科書にも、歴史の本にもいろいろ書いてある。その書かれていることは事実であるだろうけれど、その記述には個人的体験が含まれていない。ひとりひとりの肉体がことばとして書かれていない。そこには「思想」がない。
「思想」というものはあくまでひとりひとりの肉体のなかに存在するものである。ひとりひとりの肉体を離れて存在はしない。
同時に、すべてのひとは「思想」をもって生きてはいるが、それがひとりひとりの肉体の内部にしまいこまれているために、「全体」にまで視野が広がらない。ひとりひとりの「思想」の枠を広げて行き、「全体」がとらえられるようになるためには、ひとりひとりの目撃したこと、そのとき感じたこと、思ったことを丁寧につみかさねなければならない。
「思想」はひとりひとりのものである。それはさまざまな形をしている。積み重ねようとしても積み重ならない。隙間もできれば、とげとげしく傷つけあうこともある。それでも、そのひとつひとつを明確にし、全体をつくりあげていかなければならない。そうしなければ何もわかったことにはならない。「思想」は「思想」であるとは、言えない。
「私」と「全体」をつなぎ、そうすることで「私」そのものをきちんと位置づけないことには、「私」は「私」ではない。「日本軍」によってつくりあげられ、中国に放置された「蟻の兵隊」の一員にすぎない。
奥村和一は「蟻の兵隊」から「人間」にもどるために、真実を知りたいと願っている。真実を知ってほしいと切望している。
奥村和一の鋭い眼。そして、繰り返し繰り返し語ることで、贅肉を削ぎ落とし、鍛え上げられてきたことが伝わってくることばの正確さ。声の強さ。そこから、奥村和一の怒りと祈りが伝わってくる。