詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池谷薫監督「蟻の兵隊」

2007-02-09 11:55:28 | 映画
監督 池谷薫 出演 奥村和一

 忘れられないシーン(ことば)が2つある。
 ひとつは奥村が中国で中国人を初めて殺した体験を語るシーンである。恐くて震えた。何も見えなかった。殺せと命令された中国人が目の前にいる、ということだけしか奥村には見えない。処刑場で何か起きているのかわからない。
 もうひとつは、その処刑を見た中国人が体験を語るシーン。彼もまた全部を見ていない。ひとりが殺されるのを見た。そして恐くなって逃げた。全体として何が起きたのかわからない。
 ふたりの証言で共通していることがいくつかある。ひとつは殺人が怖いということ。正視できないものであるということ。もうひとつは実際に目撃(体験)したことは一部であり全体を知らない、全体がどうなっているかわからない、ということ。
 そして、この「全体がわからない」ということゆえに、この映画が存在する意味がある。第二次世界大戦。中国で何が行われたのか。日本人は何をしたのか。また日本軍は何をしたのか。
 教科書にも、歴史の本にもいろいろ書いてある。その書かれていることは事実であるだろうけれど、その記述には個人的体験が含まれていない。ひとりひとりの肉体がことばとして書かれていない。そこには「思想」がない。
 「思想」というものはあくまでひとりひとりの肉体のなかに存在するものである。ひとりひとりの肉体を離れて存在はしない。
 同時に、すべてのひとは「思想」をもって生きてはいるが、それがひとりひとりの肉体の内部にしまいこまれているために、「全体」にまで視野が広がらない。ひとりひとりの「思想」の枠を広げて行き、「全体」がとらえられるようになるためには、ひとりひとりの目撃したこと、そのとき感じたこと、思ったことを丁寧につみかさねなければならない。
 「思想」はひとりひとりのものである。それはさまざまな形をしている。積み重ねようとしても積み重ならない。隙間もできれば、とげとげしく傷つけあうこともある。それでも、そのひとつひとつを明確にし、全体をつくりあげていかなければならない。そうしなければ何もわかったことにはならない。「思想」は「思想」であるとは、言えない。
 「私」と「全体」をつなぎ、そうすることで「私」そのものをきちんと位置づけないことには、「私」は「私」ではない。「日本軍」によってつくりあげられ、中国に放置された「蟻の兵隊」の一員にすぎない。
 奥村和一は「蟻の兵隊」から「人間」にもどるために、真実を知りたいと願っている。真実を知ってほしいと切望している。

 奥村和一の鋭い眼。そして、繰り返し繰り返し語ることで、贅肉を削ぎ落とし、鍛え上げられてきたことが伝わってくることばの正確さ。声の強さ。そこから、奥村和一の怒りと祈りが伝わってくる。


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テオ・ドーガン「ウォラストン島、ホーン岬、フォークランド諸島/マルビナス諸島より」(栩木伸明訳)ほか

2007-02-09 11:30:05 | 詩(雑誌・同人誌)
 テオ・ドーガン「ウォラストン島、ホーン岬、フォークランド諸島/マルビナス諸島より」(栩木伸明訳)ほか(「現代詩手帖」2007年02月号)。
 栩木によればテオ・ドーガン「ウォラストン島、ホーン岬、フォークランド諸島/マルビナス諸島より」は詩として発表されたものではないらしい。が、とてもおもしろい。そして「詩」を感じる。テオ・ドーガンたちは船でホーン岬をまわる。嵐におそわれる。

風速はつねに45から50ノットあったが、私たちの船は4メートルの波を肩で押しのけるようにして、汽車のような確実なコースをたどって南へ進んだ。

 「汽車のような確実なコース」がおもしろい。「確実な」ということば。「頭」では書けない、豊かな「肉体」を感じる。そこに「詩」がある。頼もしく、ほれぼれとしてしまう。
 その安心感に支えられるからだろうか、次の部分がとても美しく輝く。

カテドラル岩礁が方向転換の目印である。東へジャイブする準備をしていたら、真っ白い船首波の向こうでまぶしく光る陽光のなかに、巨大な虹があらわれた。船は方向転換しながらその虹の真下に入った。光の巨大なアーチの下で船首がゆるやかに向きを変えると、帆走していく左手に聳える岬が、ついに見えた。伝説に彩られたホーン岬の南面であった。

 船に乗っている気持ちになる。巨大な虹の下をくぐるそのとき、この冒険は伝説になり、肉体にしっかり刻まれる。その伝説が肉体をより強靱なものにする。そして肉体が解放される。何の抑圧も感じない。世界と肉体が調和し、ひとつになっていく。
 風が強い、波が高い。その冒険は危険に満ちているのに、その危険をやすやすと超えてしまう確実さがある。その確実さが、すべてを輝かせるのである。
 この「確実さ」を「頭」ではなく「肉体」にしているものは何だろうか。

自分自身と船と船長と乗組員にたいする深い信頼の念が、新たにわきあがってきたのである。

 「信頼」である。それぞれがそれぞれの仕事を的確にこなす。そのときすべては「確実」になる。それぞれの肉体がそれぞれの力をふりしぼる。そのときの困難さ、苦しみのようなものが「信頼」として結びあわさり、「確実」なものになる。
 困難な操船をともにくぐり抜けることで「肉体」は解放され、そこに「信頼」が広がる。
 船のたどった「確実な」コースは、「信頼」が切り開いたレールである。だからこそ、そこを船は汽車のようにたどるのである。

 作品のなかで、大切なことばはかならず繰り返される。しかも同じことばではなく、違ったことばをつかって繰り返される。そのふたつのことばをつなぐものとして「肉体」がみえてくるとき、それはとても強い。



 ポーラ・ミーハン「ハンナおばあちゃん」(栩木伸明訳)は、女性たちが「肉体」を共有していることを感じさせる。

一番寒かった十一月の日
耳元でおばあちゃんの声

神父様ニャアナンニモ言ッチャイケナイヨ。

わたしは十二歳、それとも十三歳だったかしら。

心ガケガレテルンダカラ。

罪ハジブンノ心ニ秘メテオクモンダヨ。

連中ヲゾクゾクサセテヤルコトハナインダ。

ダーティー・オウル・フェッカーズ。

鳥とか蜂蜜とかにおびき寄せられるみたいに
聖母像の前にひざまずいたおばあちゃん。

 彼女にとって「神」とは「聖母」だけなのである。「神」は女性なのである。そういう思いを「おばあちゃん」は「孫」(たぶんポーラ・ミーハン)につげる。「聖母」の前にひざまずくことで。同じ「肉体」をもったものの前にひざまずくことで。

 ところで、この詩には一か所、とても難解なところがある。たぶん、日本語に訳されているがゆえの難解な部分が。そして、この詩は、その難解な部分ゆえに、とても豊かなものになっている。

心ガケガレテルンダカラ。

罪ハジブンノ心ニ秘メテオクモンダヨ。

 「心」が二回出てくるが、この「心」は同じものではない、と私は読んだ。先に出てくる「心」は「神父様の心」。あとに出てくる「心」は「ジブンノ心」、つまり「少女の心」。最初の「心」には英語(原文)ならあるはずの「所有格」が省略されている。そのため、日本語の訳では誰の「心」かわかりづらく、そして、それゆえにとても魅力的にもなっている。
 誰の「心」かわからないからこそ、そこで立ち止まり、ゆっくりことばを読みはじめる。そういう楽しさが出てくる。
 そして、ゆっくり読みはじめると、「ジブンノ心」に呼ばれているものが、「心」というより「肉体」というふうに私には感じられてくるのだ。「罪ハジブンノ体ノナカニ秘メテオクモンダヨ」とおばあちゃんが語りかけているように感じるのだ。
 罪にはいろいろあるけれど「肉体」に関係する罪もある。そして、それは「肉体」を神父様にみせることがないように、ただ自分のものとして隠しておけばいい。「肉体」(裸)をみせる(想像させる)ことで神父様を悦びで「ゾクゾクサセル」ようなことはしなくていい。女性の「心」は「肉体」と同義なのである。
 聖母はおばあちゃんにとっても少女にとっても同性である。その前に肉体を投げ出すこと、ひざまずくことは、神父様に罪を語ること、肉体を見せること(肉体を想像させること)とはまったく違った行為である。
 同じ肉体の苦悩、同じ肉体の罪をもっているがゆえに、おばあちゃん、少女、聖母は一体になることができる。「ゾクゾクサセル」悦びのかわりに、深い連帯がある。そして、その連帯こそが「心」である。「心」を共有すること。これは神の「許し」のなかでひとつになるということだ。
 神父様(男性)の前では「心」は見せてはならない。それは「肉体」だからである。しかし、聖母様の前では「肉体」こそが「心」なのである。「肉体」のなかに隠している「罪」を隠したまま共有してくれる。「肉体」のなかから「心」を取り出さずに、隠したままの状態で受け止めてくる。--ここには、女性にとっての「神」の形が「聖母様」としてくっきりと浮かび上がっている。おばあちゃんにとって「神」は神父様ではない。聖母様である。その揺るぎない思い(思想)がここにある。
 そんなことを考えた。

 また、栩木の所有格を省略した日本語訳によって、ポーラ・ミーハンの詩は、英語のときより豊かになっているかもしれないとも思った。「心ガケガレテルンダカラ。」という一行、その所有格を省略した訳。もし「彼ノ(神父様ノ)心ガケガレテルンダカラ。」という訳だったら、私は立ち止まることがなかった。読みとばしてしまったかもしれない。07日に読んだ恒川邦夫訳、ニコラス・ギエン「ルンバ」にも驚いたが、栩木にも驚いた。考えさせられた。ふたりの訳は日本語の可能性を切り開いているように感じた。

コメント (2)
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